保育における遊びからの学びを「見取る」とは?(前半)
2026/06/15
10年教壇に立った経験が幼児教育の現場ではまったく「歯が立たなかった」その理由
小学校で10年間教鞭を執り、1年生の担任も3度経験した“教育のプロ”が、幼稚園へ異動した初日にプライドを根底から打ち砕かれた――。 2026年4月に刊行された『子どもが主役だから底抜けに楽しい! 見取りから始まる、心が動く保育実践』の著者・中西昌子先生にお話を伺うと、私たちが普段「ただ遊んでいるだけ」と思い込んでいる幼児期のなかに、驚くべき知性と心が育つ瞬間が隠されていました。その鍵を握るのが、本書の核心的なテーマである、保育者の「見取り(プロの観察眼)」という専門性です。中西先生のお話を前半、後半と2回に分けてお届けします。
(聞き手:ライター)
■ 「1年生の縮小版」ではない。目に見えない子どもの内面を「見取る」専門性
――中西先生は小学校から幼稚園の先生に転身された時、「幼児期には、学童期とは全く違う発達の道筋がある」と大きな衝撃を受けられたそうですね。
中西昌子先生(以下、中西): ええ、本当に恥ずかしいお話なのですが、異動する前は「小学校低学年でやってきたことを、少し簡単にして遊びとして提供すればいいんじゃないか」と安易に考えていたんです。でも、その自信は初日に見事に崩れ落ちました。小学校教育は決められた時間割や教科に沿って「教える教育」が中心ですが、幼児教育は「環境を通して行う教育」です。子どもはあくまで楽しいから遊んでいる。その夢中になっている姿の奥にある、目に見えない思いや願い、学びの芽生えを推察し、環境を整えること――それこそが、幼児教育における「見取り」という専門性なのだと腹をくくりました。
■ 3歳児が「白い植木鉢」にうんこをした、本当の理由を「見取る」
――本書のなかでも特に驚いたのが、3歳児のマサトくんの「白い植木鉢事件」です。園庭の使っていない植木鉢にうんこをしてしまったというお話ですが、普通なら大人に怒られてしまう場面ですよね。
中西: そうですよね(笑)。でも、マサトくんの行動を単なる「いたずら」と片付けず、彼の頭の中を丁寧に「見取る」ことで、驚くべき思考のプロセスを理解しました。 彼の頭のなかを推測すると、まず「うんこが出そう!」という身体の感覚をしっかりキャッチしている。だけど「トイレは遠くて間に合わない」。そこで「パンツの中でするのは絶対に嫌だ、どうしよう」と考えた時に、目の前に「白い植木鉢」があったわけです。
――「白い」という共通点を見つけたわけですね。
中西: はい。彼にとって、トイレの便器は「白色」。つまり、マサトくんなりにピンチのなかで思考をフル回転させて、「あそこ(白い植木鉢)ですればトイレと同じだからセーフだ!」と結論を出したんですね。 それは、日常の生活習慣が身についているからこそ生まれた、彼なりの最善の解決策であり、素晴らしい思考力と行動力です。大人が決めた「正しい/間違い」という外側の形だけで判断せず、子どもの内面にある「必死な工夫」を丁寧に見取ること。それこそが幼児理解のスタートなのだと、彼に教えてもらいました。
■ 悔し涙の直後に、5歳児がみせた「大化け」を見逃さない
――5歳児のシンくんが「帽子取りゲーム」で悔し涙を流すお話も、保育者の「見取りのタイミング」が絶妙でした。
中西: これは、同じ園の保育者によるエピソードでした。シンは帽子取りが大好きなんですけど、取られるのが怖くていつも陣地から出られない子だったんです。でもあるゲームの時、自分のチームが次々と負けてしまって、あとがない状況でシン一人だけが残されてしまいました。 その時、周りの仲間たちがシンの不安そうな心を察して「シンくん大丈夫、いける!」と声をかけた。その言葉に勇気をもらったシンは、初めて陣地から猛スピードで飛び出していきました。結果的には帽子を取られて負けてしまい、悔しくて大粒の涙を流したのですが…、本当に凄かったのはその直後です。 次の試合に向けた作戦会議が始まった瞬間、誰よりも先に「みんな聞いて!作戦があるよ!」と、パッと手を挙げて自分の意見を出し始めたんです。
――さっきまで泣いていた子が、これほど積極的に変容するとは驚きです。
中西: 単に「運動的な遊び」として表面だけを見ていると、このシンの心のドラマや、彼のなかで育った「折れない心(レジリエンス)」は見取れません。あとがない状況に追い込まれたシンの心の葛藤、仲間の応援を受けて一歩踏み出した勇気、そして認めてもらった充実感。それらを保育者が心を寄せて「見取る」からこそ、シンの「大化け」の瞬間をクラス全体の次のステップ(作戦会議での話し合い)へ、機を逃さずに繋げていくことができるんです。
■ 卵は「食べ物」か「命」か。正解のない問いに揺れる子どもの感性を見取る
――リキくんとタイキくんという2人の男の子が、チャボの卵をめぐって涙を流すエピソードも、子どもの人となりを知っているからこその「見取り」が描かれていましたね。
中西: 5歳児のチャボの当番活動で、毎日産む卵を誰が持って帰るかでじゃんけんをした時のことです。負けてしまったリキが突然、激しく泣き出しました。普段は物静かで自己主張をしない子だったのですが、涙を流しながらこう言ったんです。 「食べたらあかん。卵は命や」って。 彼はじゃんけんをする前に、卵をそっと耳に当てて「シューシュー言ってる」と話していました。リキは卵の奥にある生命の気配を、瑞々しい感性で感じ取っていたんですね。
――その時、中西先生は自身の見取りを省みられたとか。
中西: はい。いつも子どもたちが「目玉焼きにして食べた!おいしかった!」と言っていたので、私は卵をすっかり「食べ物」だと大人の枠に当てはめて思い込んでいたんです。リキの繊細な感性に気づけなかったことを申し訳なく思いました。 でも、リキの物静かな人となりをよく知っていたからこそ、彼の流した涙の切実さを深く見取ることができました。そしてその涙は、じゃんけんに勝ったタイキの心をも動かしたんです。タイキは家に帰るまでずっと、自分のポロシャツの中に卵を大切に入れ、「触ったらあかん、つぶれるしな」と言いながら、自分の体温で必死に温め続けていました。「命か、食べ物か」という正解のない大きな命題に心が動かされ、葛藤する子どもたちの姿。それらを丁寧に「見取る」専門性があるからこそ、私たちは子どもたちと同じ気持ちになって生活し、彼らの心を育てていくことができるのだと痛感しました。
■ すべての遊びは、小学校の「教科の学び」につながっている
――中西先生のお話を伺っていると、大人が「ただ遊んでいるだけ」と見過ごしている時間のなかに、ものすごい学びの種が植わっているのだと気づかされます。
中西: 本当にそうなんです。例えば、泥団子を光らせるために園庭を走って粗い砂と細かい砂を二層に分ける知恵(遠心分離の原理)や、水分量による泥の粘着力の違いを試す姿は、素晴らしい「科学的探究心(思考力の芽生え)」です。 また、七夕飾りで折り紙のスイカを作る時に、「お皿や蓋を使って、丸い形をなぞって切る」という遊びは、小学校1年生の算数で出てくる「かたち(図形)」の授業にそのまま直結する原体験なんです。
――幼児教育のなかに、すでにすべての教科の土台が存在しているんですね。
中西: はい。だからこそ、小学校のように時間で区切って「教え込む」のではなく、子どもたちの遊びに学びの可能性を含ませるための「環境の構成」と、彼らが今何を発見しているのかを評価する「確かな見取り」が、保育者の腕の見せどころになります。大人が形だけを整えて「座らせる」「話を聞かせる」のは簡単に見えますが、子どもの心が動いていなければ本物の学びにはなりません。子どもたちの世界にどっぷり浸かって、彼らの言葉にならない多様な思いを内側から「見取る」こと。「願って関われば、必ずその子の記念日(うれしい変容を見せてくれた日)に出会える」。そのうれしい瞬間を子どもとともに味わえるこの本が、日々子どもと向き合う先生方や親御さんにとって、目の前の子どもの行動の輝きに気づける温かい「魔法のメガネ」になればこれ以上の幸せはありません。
中西昌子(なかにし・しょうこ)
京都市教育委員会指導部学校指導課参与
1980年4月に京都市立小学校へ入職し、10年間教諭として勤務。その後「幼児教育に携わりたい」という思いから同市立幼稚園へ異動し、幼稚園教諭として7年間勤務。人事交流の一環で京都教育大学附属幼稚園に赴任したのち再び京都市立幼稚園へ戻り、教頭を経て園長を務める。2009年年4月からは京都市教育委員会において行政業務に携わるとともに、京都市総合教育センターの首席指導主事として教員研修に携わり、現在に至る。
