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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

3月11日 あれから三年・あのまま三年

 講演会は、黙祷を捧げさせていただくことから始め、「他人事感」の話でスタートした。みんな決して他人事に思ってるわけではなく、あまりの出来事に、どちらかといえば「何をしたらええか・何ができるか模索中」って段階だということが講演会の中でわかった。

 ぼくは名古屋在住だが、香川県から買った切符は「新横浜行き」。自宅には帰らず新横浜で仲間と落ち合い行動する計画である。

 名古屋駅で一旦下車して着替えなどを連れ合いから受け取り、新横浜へ。連れ合いの“心配・あきらめ顔”も記憶に残っている。すでに東京と愛知の仲間が物資の調達行動を展開していたので、それに合流して走り回った。

 震災の翌日夜中の時点で、新横浜駅周辺の大型店では、すでに物資が買いあさられ特定のモノだが「モノ不足」の状況にあった。

 仮眠のためホテルに入ったのは3時過ぎ、出発は5時。とりあえず茨城県の仲間のところを目指すことにした。

 東京を抜け茨城県に入ると大渋滞。道路はひび割れし、コンビニから食えるものは姿を消し、ガソリンスタンドの前にクルマが並び、人々が不安げな顔をして行動していたのが印象的だった。

 仲間のグループホームに到着して顔を見たとき、どう表現していいかわからない“心の中からこみ上げてきたもの”は今でも憶えている。

 クルマいっぱい積み込んだモノを渡そうとすると「もっと先の人たちが困っているから、その人たちに渡しにいきましょう」と言ってくれた仲間の言葉も忘れられない。「だから仲間なんだ」と思えたものだ。こんなときにこそ“人なり”が見えてくる。

 ぎゅうぎゅうの荷物の中から渡したものは「お饅頭」だけで、他のものはそのままに、茨城の仲間も一緒に北上。その時点ではまだその地域ではガソリンを補給することは容易にできた。

 あるでっかいスーパーの前に開店時間を待ちきれずたくさんの人が群がりだした。店側も開店時間より繰り上げて店を開けたが、なだれるように入っていった人々は「食料品(パン、寿司、インスタントラーメンなど)」に群がり瞬間に買いあさった。ただ、その状況下でも野菜が売れ残っていたのを憶えている。

 それがちょうど震災翌日10時頃だ。

 移動しながらも仲間たちとメールを交換し情報収集していたが、原子力発電に詳しい仲間から「和田、近づくな。チェルノブイリ級かそれ以上の事故。大爆発の可能性もある。政府の発表を信じるな。北上をやめて戻れ」旨のメールが届いた。

 連れ合いからも「危険なことだけは避けてね」って言われていたこともあり、苦渋の決断を下して、いったん引き上げることにした。

 「自分には家族がいる」ってことを考えるようになれていた僕にとって、かつてのようにそれを考えることなく行動していた自分を思い出した瞬間でもあった。

 ぼくの2011年3月11日12日である。

 あれから三年経った。

 震災直後に立ち上げた「災害支援法人ネットワーク(通称:おせっかいネット)」による年2回の学習交流会を先月福島県で開催したのだが、日本の地にあって「立ち入り禁止の町」があることを改めて思い知らされた。放射線の線量を図る計測器(下記写真)が必要な地域があるのだ。そこに住んでいた者にとっては、まさに「占領」されたってことだ。

 ぼくにとっては「あれから三年」だが、その地・その地の人たちにとっては「あのまま三年」だということを忘れてはならない。