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ルポ・いのちの糧となる「食事」

下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

食べること、好きですか? 食いしん坊な私は、食べることが辛く、苦しい場合があるなんて考えたことがありませんでした。けれどそれは自分や身近な人が病気になったり、老い衰えたりしたとき、誰にも、ふいに起こり得ることでした。そこで「介護食」と「終末期の食事」にまつわる取り組みをルポすることにしました。

プロフィール下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

出版社勤務を経て、1994年より公衆衛生並びに健康・美容分野の書籍、雑誌の企画編集を行うチームSAMOA主宰。構成した近著は「疲れない身体の作り方」(小笠原清基著)、「精神科医が教える『うつ』を自分で治す本」(宮島賢也著)、ほか。書籍外では、企業広報誌、ウェブサイト等に健康情報連載。

第156回 “地域”ってどこですか?
支え合いのフィールドを問い直す

はじめに

 介護や医療の分野では「地域包括ケア」という言葉が周知されて久しいかと思います。この“地域”は、人口2~3万人の日常生活圏域(多くの場合、各中学校区域)を指しているとされますが、その“地域”という言葉や感覚、一般の人にとってはどうでしょうか? 介護や医療の専門職の方にとって事業所や病院の周囲が“地域”ですか? 利用者や患者のいる場所が地域? 一方、専門職の方も一市民としてはどうでしょうか?

諸行無常、地域再考

 

みなさんにとって、地域とはどこでしょうか? 地域の中で働いているという感覚をもっていらっしゃいますか?
 法制度の定義となっている“地域”はどうあれ、実際は人それぞれで“地域”は違うかもしれません。職場にもよるものの、地域の中で働いているという意識はもち難い、などとも聞きます。
 一方、住まいのある地域で、生活者として“地域の一員”という感覚はありますか? なにかまちの仕事や、まちづくりに関わっていますか?
 フレイル・介護予防に社会参加が重要といった認識のもと、自分の地域で、仕事以外に社会参加の場や仲間をおもちでしょうか? まだまだフレイル・介護予防などという年齢ではない⁈ ではいつ頃から、どんなタイミングで場づくり、仲間づくりをするでしょうか?

 正解などないような問いばかりを並べてすみません。どのような答えも、正しいも間違いもなく、ただいまの、自分を知る問いです。
 こういったことを他者のこととしてではなく、自分のこととして考えてみることから、一市民として「地域包括ケア」を理解し、自分ができること、したいことを考えてみたいと思っているのです。

 筆者にとって地域はひとまず住まいのある町会と、町会同士で交流のある近隣町会です。その地域内で4年前から“集い場”を運営する市民活動に参加しています。
 活動の主意は「守互(もりご)」。なにか成果を出しているといえるような取り組みではないですが、参加者みんなが人に親切にしたり(支えたり)、人に親切にするチャンスをもらったり(支えられたり)している場です。
 地元社協から「ふれあいサロン」認定を受けていて、開設当時は度々視察を受けました。担当者が移動となってからはそういうことはなくなりました。ほか、この地域で働いている介護や医療の専門職の方々とも交流はほとんどありません。
 以前、その集い場で「認知症サポーター養成講座」を開く折、最寄りの地域包括支援センターの方に協力してもらい、地域住民30数名が受講して、認知症サポーターになりました。地域に密着した医療法人傘下の地域包括支援センターは、その後もなにか企画して協力をあおげば、協力してくれそうなのですが、そうはしていません。
 勝手な理由ですが正直なところ型通りの講座がおもしろくなかった。今後、楽しい相談ができる雰囲気もなく、開催日時も融通がきかないとわかったので、次の企画をもちかける気にならないのです。

 一方、町内にあるいくつかの介護事業所や医療機関などに、集い場でなにかイベントをしませんか? と声がけをして回りました。接骨院の先生が体操講座を開いてくれ、老人福祉センターの非常勤職員の方が趣味の講座を個人的に開いてくれましたが、ほかは実現しませんでした。
 実現しない理由のひとつは、集い場の“集老人力”が弱いこと、つまり市民側の問題です。
 年々、“地域活動”から卒業し、地域から遠ざかる高齢者が増えています。
 ある年齢を超えるとどこか別の町の施設入所を機に関係を絶ったり、亡くなったり。町内にいても「自分たちの時代は終わった」と退く感覚が強く、以後、諸行事からも足が遠のく。多世代とはつながりを求めないまま孤立していく。
そう書くとネガティブな雰囲気ですが、高齢者間のつながりはあり(年々人数は減少するも)、決してひどくネガティブなわけでもなく、ただ達観しているようです。子や孫に迷惑はかけたくない、地域に未練はない。むしろ凛々しい。
 長年、地域活動を担ってきた人たちですから、地域活動が居場所のひとつとして残らないのは寂しい気もしますが、婦人部卒業とか、役員卒業とかしてしまうと、当事者感覚がなくなってつまらないのもわかります。つまらないものとつながらないのは当然ですね。
 そして若い世代は自発的に町会運営に参加する人が減り、年代が下がるほど層が薄くなっていますから、総じて地域行事の“集人力”は低下しているのです。
 先輩(長老)に話を聞くと、昔は多世代間に縦横無尽の付き合い・遊びがあり、長老にも役割や居場所があり、生涯にわたり地域活動を楽しむ人が多かったようです。
 餅つき、町の新年会、祭り、盆踊り、町の運動会、町の日帰り旅行、町の清掃・防災訓練。行事もどんどんすたれます。景気もわるいし、時代や、世帯構成・ライフスタイルが変わって、工夫のないまま、そういった付き合い・遊びは大して楽しいことではなくなり、義務化・縮小化するものも。行事のなにかがすたれるのも、変わるのも致し方ないと思うのですが、同時に生じる閉塞感や活気の減退が気になります。
 幸い“集い場”は思いがけず子どもたちとその父兄でいくらか賑わっています。町会組織には関わりをもってこなかった人、町会外からの利用が少なくありません。そこで仲間と「従来なかった“地域活動”がもっと必要なのかもしれない」などと話し、“地域”の見直しも必要だと思うようになったわけです。

 その後、なにか解を得てこれを書いているわけではなく、市民が“地域”の現状にもやもやしていて、降りてくる「生活支援サービスの充実と高齢者の社会参加」といった課題にも戸惑っているという話です。
 このままでは2025年どころか自分が後期高齢者になる2039年にも「自分らしい暮らしを人生の最後まで続けられる地域」ではないかも。それは危機感を抱くべきことなのか、どうか。どんな地域がハッピー? とにかく仲間とともにまず我が“地域”再考、はじめました。