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張先生の受験対策講座

張 百々代(はり ももよ)

受験勉強のガイド役となるのがこのコーナーです。受験対策のプロである張(はり)先生が、あなたの合格までの道のりをサポートします。

プロフィール張 百々代(はり ももよ)

精神保健福祉士・社会福祉士。児童養護施設、老人福祉施設での勤務を経て福祉系専門学校講師に。
現在は受験対策講座講師、各大学での受験対策に従事しており、第三者後見人として精神障害者・知的障害者の成年後見活動にも携わっている。

第13回 現代社会と福祉

イギリスの産業革命と貧困

 イギリスは、産業の発展に伴い土地を所有しない貧民が仕事を求めて都市にあふれ、国として何らかの対策を行うことを迫られました。このような貧困者の急激な増大という状況に対して、救貧税の制度が生まれました。また、労働できる貧民と労働できない貧民に分け、労働意欲のある者には仕事をさせ、労働できるにもかかわらず労働していない貧民は処罰の対象とするなど、さまざまな施策が講じられていきました。

エリザベス救貧法

 それまでの行われてきた貧困対策の集大成として、1601年に「エリザベス救貧法」が制定されました。エリザベス救貧法は、救貧の財源として教区ごとに救貧税を徴収し、教区ごとに置かれる貧民監督官が救貧行政を実施しました。

 貧民を、働くことができる「有能貧民」、働くことができない「無能貧民」、および「扶養する者がいない児童」に分類し、「有能貧民」は、ワークハウスすなわち労役場に収容して労役を課し、「扶養する者がいない児童」は強制的に徒弟制度の対象とし、救済は「無能貧民」に限定して、救貧院に収容するという制度でした。

 このように、エリザベス救貧法は本質的に、救貧を目的とするよりも、都市の治安を維持し、都市にあふれた浮浪者や貧困者を排除、抑圧することを目的とする法律でした。

ワークハウステスト法

 ワークハウスは、労働力のある貧民に労働を課す収容施設でしたが、貧困者が増大し収容者の増加によって救貧費用が増大していきました。また、貧困への濫給がみられ、国は救貧費用を抑制するために、過酷な労働に耐える意志の有無を確認して、救済の申し出を思いとどまらせるための法律として、1722年に、ワークハウステスト法を制定しました。

 この法律の制定により、ワークハウスは、過酷な労働の意志を確認されて、入所者には労働を強制されるという収容施設となり、厳しい労働と規則が課せられ、違反者には厳しい処罰が行われ、「恐怖の家」と呼ばれるようになりました。その結果、救済を申請する有能貧民は減少し、実質的には、老人や児童、障害者、病人などの混合施設となってしまい、労役場というより、救貧院としての性格のほうが強くなっていきました。

ギルバート法

 このような、エリザベス救貧法のもとにおける抑圧的、処罰的救貧行政に対して、人道的な立場からの批判が生まれてきました。議員のトーマス・ギルバートは、「貧困者のよりよい救済と雇用に関する法律」案を提出し、1782年に、通称「ギルバート法」が制定されました。

 この法律は、労役場、すなわち実質的な救貧院には、老齢者と病者等の労働能力のない者だけを収容し、労働能力のある者は、労役場以外の、居宅において職業を斡旋するという院外救済を行うものでした。

スピーナムランド制度

 1980年代初頭には、イギリスの産業革命が進展し、人口が急激に都市に集中した結果、仕事を得られない貧民や生活に困窮する低所得者層が増大しました。また、1978年のフランス革命の影響を受けてイギリスの物価も高騰し、物価高騰に対して収入は増えないため、困窮に陥る民衆が続出しました。これに対して、スピーナムランド村の治安判事総会で決定し採用されたのが、スピーナムランド制度です。

 スピーナムランド制度とは、パンの価格に基づいて基本生活費を計算し、この基本生活費に届かない収入世帯には、院外救済として賃金補助を行うという制度です。この制度は全国に広がってゆき、物価高騰にあえぐ困窮者を救済していきました。

 ただ、低賃金でも賃金補助が行われるため、雇用主があえて賃金を引き下げるという事態が生まれ、労働しなくても賃金が補助されるということが労働者の勤労意欲をそぐという弊害が生まれました。また救貧税が膨れ上がり、主な納税者である農業労働者の貧困化という状態が引き起こされました。

新救貧法

 ギルバート法やスピーナムランド制度によって救貧税が膨大化し、救貧税の徴収で貧困化した農業労働者が暴動を引き起こす結果となり、1834年には新たな救貧法が制定されました。新救貧法は、マルサスの『人口論』やアダム・スミスの『国富論』の考え方に基づき、公的救済は怠惰を生みだすだけなので貧困は自己努力によって克服すべきであるとして、公的な救済を最小限に抑制するという考え方によるものです。

 従来の教区ごとの救済行政ではなく、救済行政を全国一元化する「全国統一の原則」、最底辺の労働者の生活水準より低い救済基準とする「劣等処遇の原則」、それまで行われていた院外救済を禁止し、ワークハウスに収容する「院内救済の原則」を規定し、救貧の対象を極めて限定し、救貧を抑制することが大きな目的として制定されたものです。

エリザベス救貧法有能貧民は強制労働、児童は徒弟奉公に出し無能貧民だけを救済対象とし、浮浪者の処罰と抑圧を目的とした。
ワークハウステスト法過酷な労働に耐える意志の有無を確認して救済を抑制する法律
ギルバート法職業斡旋などによる居宅保護
スピーナムランド制度不足賃金の補助による居宅保護
新救貧法救貧抑制を目的に「全国統一の原則」「劣等処遇の原則」「院内救済の原則」を掲げた。

慈善組織協会

 この時期のイギリスは、産業の発展により中産階級が台頭してきました。これらの人々は「自らの経済豊かさという身分は、貧困者に対して慈善という義務を負う」という意識により、慈善に力を注ぐようになっていきました。

 このころはさまざまな慈善団体によって慈善活動が行われていきましたが、それぞれの活動が無秩序に行われていたために漏給や濫給の弊害が生まれ、組織化の必要性が認識されて、1869年にロンドンで、慈善組織協会が設立されました。

 この活動は、貧困は個人の責任であるという自由主義的慈善事業観に立ち、救済の対象を限定する制限主義的な思想に基づいていたため、道徳的な生活により自助努力をしても貧困から抜け出せない「救済に値する貧民」だけを対象とし、怠惰や素行不良等の「救済に値しない貧民」は公的救済に委ねるという立場に立った活動でした。

貧困調査── ロンドン

 19世紀後半から、民間の活動家による貧困調査が行われました。チャールズ・ブースは1886年から1991年にかけてロンドンにおける貧困調査を実施し、『ロンドン市民の生活と労働』を著わしました。その著書でブースは、3割以上が貧困線以下に該当していることを指摘しました。そして、貧困の原因は、従来考えられていたような個人の責任によるのではなく、不安定雇用や不衛生等の環境等の社会的要因が大きいことを指摘しました。

貧困調査── ラウントリー

 ラウントリーは、ブースの貧困調査に続いて、地方都市の貧困状態を明らかにするために、自分自身が生まれ育ったヨーク市において、1899年から3回にわたって貧困調査を実施し、『貧困―都市生活の研究』を著わしました。彼は「マーケットバスケット方式」を採用して貧困の分析に、絶対的貧困概念を用い、第一次貧困と第二次貧困に分類しました。

 第一次貧困は、肉体的必要を維持するのに必要な最小限度に足りない状態、第二次貧困は、収入の一部を他の支出に少しでも振り分けると肉体的維持が不可能になる状態として調査しました。この調査の分析の結果、貧困に陥る主な原因は、低賃金等の社会的な要因であることが明らかにされました。

 また、この貧困調査によって、人生の途上には貧困に陥る段階があるライフサイクルの概念を初めて明らかにしました。ラウントリーは、労働不能な状態のため貧困に陥る段階として、子ども時代、次に結婚後の子育て時代、最後はリタイア後であると指摘しています。

慈善組織協会1869年、ロンドンに設立。救済に値する貧民を対象に制限主義的救済を実施。
ロンドン調査ブースによる貧困調査。貧困の原因は不安定雇用等の社会的要因であることを明らかにした。
ヨーク市調査ラウントリーによる貧困調査。マーケットバスケット方式を採用。絶対的貧困概念により第一次貧困と第二次貧困に分類。ライフサイクル論を提示。

ナショナルミニマム

 後にシドニー・ウェッブの妻となったビアトリスは、シドニーと結婚する前、義理の従兄である、ブースのロンドン調査に参加していました。また、夫となるシドニーは、漸進的社会主義を掲げるフェビアン協会の会員で、後に重要な活躍をする人物です。

 このウェッブ夫妻は結婚後、1897年に『産業民主制論』を著わし、標準賃金や標準労働時間と産業効率の関係を述べ、労働者の経済的福祉と個人的自由のためにも、国民の最低限の生活を保障すべきであるという、ナショナルミニマム論を展開しました。

救貧法及び困窮者救済に関する王命委員会報告

 貧困者の急激な増大に対して、イギリス政府は1909年、新救貧法を検討するために「救貧法及び困窮者救済に関する王命委員会」を設置しました。この委員の一人として、シドニー・ウェッブが選ばれています。

 この委員会が出した報告書は、多数派意見と少数派意見に分かれました。多数派は、慈善組織協会のロックが代表的な論者で、困窮者のための新たな救済制度は、貧困は個人の責任であるという、新救貧法の精神を引き継ぐべきであるとしました。具体的には、ソーシャルワークの技術を取り入れ、慈善活動を推進し発展させることによって、救済を進めていくべきであるとしました。

 これに対して、ナショナル・ミニマム論を提示したシドニー・ウェッブが代表的論者である少数派の意見は、貧困は個人の責任によって生じるというより、社会の仕組みがもたらしているものであるから、社会的責任で救済すべきであると主張しました。

国民保険法

 少数派報告の意見は、国民にすぐには受け入れられませんでしたが、ウェッブ夫妻は啓蒙活動を全国的に展開していきました。その後の総選挙によって、労働者階級を含む政党が勝利し、さまざまな社会保障関連の法律が成立していきました。その一つが1911年の国民保険法です。この法律は、健康保険と失業保険から成り、社会保険によって病気や失業による貧困から国民を守ろうとするもので、イギリス救貧法体制の改革を目的として制定されました。

ベヴァリッジ報告

 1942年には、第二次世界大戦後のイギリスの社会保障体制のあり方について、ベヴァリッジ報告が出されました。これは、住宅・雇用・教育を含む包括的社会保障を提唱したもので、ナショナル・ミニマムの具現化のために、戦後実現されるべき「社会保障計画」を具体的に提言したものです。

 この報告書では、「窮乏」「疾病」「無知」「不潔」「怠惰」の5巨悪に対して、均一拠出・均一給付という社会保険を中心に、国が責任をもってナショナル・ミニマムを達成すべきであるとし、これを「公的扶助」と「任意保険」で補うという考え方を提示しました。

 この報告書の提言をもとに、第二次世界大戦後のイギリスの社会保険の枠組みが構築されました。その後、イギリスは、ゆりかごから墓場までといわれる、老齢、疾病、障害、失業等をすべて包含した福祉国家体制を築き上げていきました。

ナショナル・ミニマム論ウェッブ夫妻が『産業民主制論』で提唱。標準賃金や標準労働時間と産業効率の関係から国民の最低限の生活の保障を論じた。
王命委員会報告救貧法を継承すべきとする多数派報告と、社会全体でナショナルミニマムを保障すべきとする少数者報告を提示。
国民保険法健康保険と失業保険から成る法律。
ベヴァリッジ報告ナショナル・ミニマムを具現化するための包括的な社会保障計画を提言。社会保険を中心に、公的扶助と任意保険で補うという考え方を提示

 いかがでしたか。この科目では、福祉政策、ニーズ論、関連政策等も押さえておきましょう。次回は、「地域福祉の理論と方法」を取り上げていきます。では、第21回の精神保健福祉士の国家試験から、今回の課題を上げておきますので、チャレンジしてみてください。

第21回 精神保健福祉士国家試験 「現代社会と福祉」

問題24 イギリスにおける福祉政策の歴史に関する次の記述のうち、正しいもの1つ選びなさい。

  • 1 エリザベス救貧法(1601年)により、全国を単一の教区とした救貧行政が実施された。
  • 2 労役場テスト法(1722年)は、労役場以外で貧民救済を行うことを目的とした。
  • 3 ギルバート法(1782年)は、労役場内での救済に限定することを定めた。
  • 4 新救貧法(1834年)は、貧民の救済を拡大することを目的とした。
  • 5 国民保険法(1911年)は、健康保険と失業保険から成るものとして創設された。