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脊髄損傷を受傷して

松尾 清美(まつお きよみ)

年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。

プロフィール松尾 清美先生(まつお きよみ)

宮崎大学工学部卒業。
大学在学中に交通事故により車いす生活となる。多くの福祉機器メーカーとの研究開発を行うとともに、身体に障害をお持ちの方々の住環境設計と生活行動支援を1600件以上実施。
福祉住環境コーディネーター協会理事、日本障害者スポーツ学会理事、日本リハビリテーション工学協会車いすSIG代表、車いすテニスの先駆者としても有名。

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第45回 「第43回 ずっといるところではないな・・」「第44回 試験外出」の解説

 第43回の「ずっといるところではないな・・」は、受傷後8か月目の日記から始まっています。復職に向かって、自宅の改造や大学の改造なども動き始めているけれども、四肢が麻痺した状態でどのような生活になるのか生活イメージがつかめないため、不安や心配が大きい時期なのです。しかし、リハビリテーション訓練で始まった入浴や排泄方法、電動車いすでの移動、それに加えて奥さんの自動車運転での移動などによって、これから少しずつ生活イメージを丸山さんご夫婦で作り上げて行く時期です。また、丸山さんの教え子や学生、同僚などのお見舞いや、「待っています」という励ましなどで、徐々にその不安を越える気持ちを獲得し、退院後の不安を一掃する力としていったお二人の状況がうかがえます。このことは、「病院は安心して生活できるが、ずっといるところではない」という言葉や、「早く帰りたいな~!」という言葉に込められています。

 また、「障害の受容」も始まっています。高校で体操部に所属していたとき、鉄棒で大車輪をしていたとき落下して脊髄損傷となった方で、ハワイ大学で社会学の修士を取得した、当時は国連職員であった高嶺豊氏(現在は琉球大学の社会学の教授)の特別講演が、総合せき損センター創立20周年の記念式典の中で行われました。丸山さんは、その講演を聞いて「障害者とならざるを得なくなった者の、障害者と呼ばれても傷つかなくなるまでの心の話を掘り下げて聴きたかった」というメモに記載されており、その時の高嶺氏の講演内容をまとめておられました。障害受容過程の丸山先生の思いが伝わるよいまとめなので、ここでも記述しておきましょう。

  • 「かえる(帰る? 変える? 替える? 代える?)ことができないならば、せめて受け入れる冷静さを与えたまえ」という言葉。
  • 障害者への対応は、人権意識で、あるいは市民権意識で。
  • 障害者であるがゆえに、障害を負ったがゆえに貢献できるものはないか。

 第44回の「試験外出」では、天気がよい日に労災病院のテニス大会の見学に行かれた時のことが記載されています。福祉タクシーでの移動やテニスの見学後、昼食、散歩など、受傷後初めての外出を電動車いすのまま乗れるリフト付きのワンボックスカーのタクシーで行ったのです。奥さんは、電動車いすで社会に出ていく自信が芽生え始めたことを書かれています。また、二度目のドライブは、助手席に力持ちの友人の介助で乗せてもらって、焼き物の里である小石原などへドライブしたときのことが書かれています。過度の緊張からか、抱えてもらったりしてお腹を押さえたりしたためか、ドライブ後は下痢で大変だったと書かれています。

 試験外出は、気分転換になるだけでなく、自動車の種類や移動方法や排便の処理方法、家族の支え方なども含めて、経験を積むよい機会なのです。こうして、退院後の楽しみ方や大学への通勤方法、排泄処理方法などを決めていきました。そして、失敗も経験しながら、生活のイメージ作りと自信を養っていかれたのではないかと想像しています。

丸山夫妻

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第44回 試験外出
丸山夫妻