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脊髄損傷を受傷して

丸山さんご夫妻

年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。

プロフィール丸山 芳郎さん(まるやま よしろう)

1936年生まれ。
新潟大学教育学部卒業。新潟県公立中学校、新潟大学・広島大学付属小中学校教諭等を経て(この間、教員バスケットボールの選手として新潟県や広島県代表で通算9回国体に出場し、優勝経験もある)、1982年から上越教育大学学校教育学部・大学院助教授、1990年から教授。専門は体育科教育学。教科としての体育はどうあるべきかについての研究。体育教師を目指す学生の指導と大学院で現職教員の院生等の指導。
1998年11月、福岡県の現職教員の講習会講師として福岡県教育委員会の招へいで行った先の福岡市で交通事故により負傷。
1999年12月、1年の入院加療の後、退院、自宅療養。
2000年3月、大学に復職。
2001年3月、定年退官。
2001年5月、高齢者・障害者自立支援のNPO法人スキップを設立、理事長に就任。
2004年3月、スキルス性胃癌がみつかる(退官後も死去の15日前まで非常勤講師として大学院の講座を受け持つ)。
2004年11月、死去。

プロフィール丸山柾子さん(まるやま まさこ)

脊髄損傷を負ったご主人・芳郎さんの手記と入院中の自身の日記を元に再構成。
現在、障害者・高齢者自立支援を行うNPO法人スキップ理事長。
●長女:当時から、新潟県立高校教諭。
●長男:当時会社員。後に退職、専門学校を経て現在、介護福祉士。
●二女:当時大学院修士課程2年、現在兵庫県立高校教諭。

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第64回 丸山の死後

 スキップは、設立から13年が経ちました。ヘルパーは9人になりましたが、相変わらず小さな法人です。しかし、コンセプトはいまもずっと変わらないものを持ち続けています。介護産業が大規模化し、施設がどんどんできていく中で、ボランティアと、最も報酬の少ない訪問介護事業にこだわっているので、経営基盤の心もとなさは免れないままですが、一昨年春、ささやかな10周年のお祝いの会を開くことができました。会員が自分の家の庭に咲いた花を持ち寄って飾り、手作りの料理やケーキを並べた、ささやかながら和やかで、大変楽しい会になりました。利用者とその家族、ボランティア提供者、それにスタッフ、こんなに大勢参加してくれました。小さな写真で参加した夫が一番喜んでくれていたように、私には思えました。

スキップ10周年記念パーティー。

 この原稿を書き進めながら、私はあらためて夫の人生を考え続けていました。

 夫は、一介の体育教師でした。学校で体育を教えた後、今度は体育の教師を育てる仕事に就き、生きがいを感じていました。その人がある日突然、有無を言わさず、「自分の身体が動かない、意のままにならない」という現実を突き付けられて、一体どうだったんだろうかと、いまでも振り返るたびに、私の思いはそこに行きつきます。

 命があったことさえ悔やんだ日々から、何とか乗り越えてきた車いすの夫が、「体育とは、結局はいのちの教育なんだよ」と、私に話してくれたことがありました。学生たちにもそれを伝えていたはずです。夫にその言葉を引き出させるために、神様はあの体験を与えられたのでしょうか。「こうなることが、俺の運命だったような気がする」と言ったこともありました。重い言葉でした。それが「受け入れる」ということだったのでしょうか。

 そうして、「人間性と専門性は、医療でも教育でも両輪なんだよ。どちらが欠けても、だめなんだ。そして、それはずっと追い求められるものなんだ」という言葉にたどり着き、それを学生たちに伝えられたとき、彼が一人の体育教師としての答えを見つけられたのかもしれないと、私は思ってきました。

 その夫が、それからときを経ずに、病で命を終えることになろうとは、無念としか言いようがありません。そして、私にはいろいろな後悔がまた頭を持ち上げてくるのです。

 「先生は、最後までよく生きられました」と、多くの人が言ってくれましたが、夫の「人の心に残るような生き方をしたい」と願い、「障害を持った普通の人として生きたい」との願いは果たして達成できたのだろうかを問うとき、また私は自分を振り返ります。傍にいて、私は何をしてきただろうかと……。

 それでもこの重い体験から、私は確実に学んだことが二つあります。

 一つは、「人生いつ、何が起きるかわからない」ということ、もう一つは、「人は必ず死を迎える」ということです。そしていまは、たとえいつの日か死を迎えることがあるとしても、何ごとかが起きたとしても、必死にもがいて、一生懸命に生きようとしたことには意味があったと思いたいのです。

 総合せき損センターを退院するときに、主治医のM先生が言ってくださった「ハードルですか? むしろチャンスだと思いますよ」との言葉が甦ってきます。実際、あれからいくつものハードルがありました。それを何とか乗り越えながらやって来ることができました。乗り越えたという体験が自信になって、次へのステップに必ずつながっていたと、いまになって思えるのです。数知れないハードルを乗り越えるための多くの力をあの励ましの言葉からいただいていたことに感謝せずにはいられません。もしかしたらハードルを乗り越えること自体が、「生きる」ということだったのかもしれないと思う時、あの言葉の意味の大きさをあらためて思うのです。

 山下達郎さんの『希望という名の光』という歌があります。

 障害を負わざるを得なくなって、「底知れぬ闇の中」にいる者に向かって、初めから「よくて寝たきり……」と言い放つ医療ではなく、「幽かな光の兆し」を寄り添って届けられる医療になって欲しいと、私は心から願うものです。その兆しの一端に、この文章がなれたなら、丸山はきっと喜んでくれると信じて、この記録を閉じたいと思います。

 この文章を書く機会に恵まれたことに、深く感謝申し上げます。

 ありがとうございました。