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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第121回 社会科の教師から介護の道へ 
惹かれたのは人間のおもしろさ
誰もがこの街で生き生きと暮らせるように

安岡厚子さん(71歳)
特定非営利活動法人 サポートハウス年輪
理事長
(東京・西東京市)

取材・文:原口美香

公民館での自主グループ活動

 生まれは島根県で、父の仕事の関係で5歳の時、広島県の尾道に引越してきました。学齢期は尾道で過ごし、京都の大学に進みました。卒業後は地元に戻り社会科の教師になりましたが、高校の同級生だった夫と結婚して、東京へ。子どもが生まれるまでは予備校の講師をしていました。

 田無に新しいマンションが建つというので、この街に引越してきたんです。その時は専業主婦、誰も知らない街で、公民館の婦人問題講に参加しました。国際婦人年の次の次くらいの年で、特に田無の街は社会教育に熱心でしたし、公民館には保育室が設備されているなど環境が整っていました。私は女性の生き方に興味があり、子どもを預けて仕事をしたいという思いもありました。それで、1979年に公民館で知り合った人たちと「バウムクーヘン」という自主グループを作って、女性問題の勉強会を始めたんです。

 そのグループの中に、私をこの世界に導いた人がいたんですね。20歳くらい年上の方だったんですが、彼女はお姑さんの介護を終えていました。お姑さんは我儘に育てられて、思うようにならないとヒステリーを起こし、子どもも孫も寄り付かず、最後は彼女の腕の中で亡くなったんです。それで「この世に縁があって生まれてきたのに、おばあちゃんは私だけで寂しかったんじゃないか。三つ子の魂百までという言葉もあるし、子どもをちゃんと育てなければ、その子が亡くなっていくときにすごく寂しい思いをするのよ」と言われ、人の終末期にも非常に関心を持ったんです。

思いがけず老人ホームのデイサービスで働く

 公民館での活動をやりながら、あちこちの集会に行ったり、紹介で新聞社に勤め始めました。何年か経った頃、自宅近くの老人ホームの職員が辞めたので短期間でいいから手伝ってもらえないか?と誘われたのです。その頃は出版社で働いていたし、資格もないし、老人ホームで働くなんて思ってもみなかった。だけど興味があったので、やってみようと思ったんです。その法人は認知症デイサービスのモデル事業を受けているところだったので、お金もらって勉強させてもらっているという感覚でした。

 その当時は、福祉の仕事に就く人って「訳あり」と言われていたんです。女性の職業の底辺に近い仕事だということを、身を持って体験しましたね。労働時間が長くても収入は減るし、周りからの差別もありました。

 結局その老人ホームのデイサービスに7年。人間に興味があったから、おもしろかったんですね。お年寄りから学ぶこともすごくあって。いろいろ勉強しているうちに、在宅のヘルパーが少なくて大変だということも知り、田無市が登録ヘルパー制を作ったので、今度は市の登録ヘルパーになろうと退職しました。その頃、朝日カルチャーでスウェーデンの予防福祉の視察研修があって参加したんです。

サポートハウス年輪を立ち上げる

 スウェーデンへ行って施設を見学したり、行政のしくみ、その健康を維持するためにどう取り組んでいるかということを学び、やっぱり自分たちで作りたいなという気持ちになりました。それで「バウムクーヘン」のメンバーと、他のグループから募って、田無に住む一人暮らしの高齢者の実態調査をしました。その頃は1,000人くらいいたと思うんですが、半分の500人を訪ね歩いて話を聞いたんです。のちに調査結果をまとめて「私はこの家で死にたい」という冊子を作りました。本当は自宅で最後まで暮らしたいと願っているのに、できない現実がある。でも、介護と食事があれば、地域でなんとか暮らすことができるんじゃないかと思ったんです。家政婦紹介所はありましたが、お金持ちの人しか利用できない。低所得者や生活保護世帯は、市のヘルパーさんが派遣されるけれど、中間層には利用できるサービスが何もなかったんです。それで24時間365日、時間と曜日に制限のない介護サービスがあればいいね、それをやろうと。1994年に、学習グループだった「バウムクーヘン」から市民事業「サポートハウス年輪」に変え、12人のメンバーが1人10万円ずつ出し合ってアパートを一室借りました。実態調査した時に、みんな口々に「夕方が寂しい」と言っていたので、夕食の配食サービスと24時間365日の介護派遣サービスをスタートさせたんです。

 立ち上げから20日後にタウン誌が取材に来てくれたこともあって、登録のスタッフもあっという間に集まりました。当時は夕食配食サービスをやっているところもなかったし、24時間365日の在宅ケアサービスっていうのは珍しかったみたいで、テレビや雑誌の取材もたくさん受けました。田無以外に文京区や杉並区、新宿や品川からも依頼が来て、泊まり込みも多くありましたね。行政も「サービスがない中で年輪がやってくれている」と言って、田無はもちろんですけれど、武蔵野市、保谷市、東久留米市、小平市など、担当の職員さんたちにもずいぶん応援してもらいました。だからどんなケースでも受けて、どんなことでもしようと思ってやってきました。

最後まで暮らしていける街に

 それから今年で24年目です。いろいろな人が集まって手伝ってくれて、助けられたというような感じですね。グループホームを作りたいと思って10年目に、理解のある大家さんからマンションの3室を貸してもらえて、やっと作ることもできました。今お弁当を作っているここの厨房も、全部寄付。多くの市民の皆さんの力をもらって運営できているんですね。介護なんですけれど、私は社会の変革運動の一つでもあると思っているんです。介護の意識を変えてもらいたい。ほんの少しでも寄付や手助け、温かな眼差しでもいいから、そういうふうに地域全体がなっていくと、もし認知症になっても、たとえ障がいを持ったとしても、この街で暮らしていける。生き生きとその人らしく暮らしていける街になるかなって。そのために24年間、やってきました。それが「年輪」の目標なんです。

 それと教育も必要ですね。今は在宅診療や訪問看護も出来ているので、その気になれば、在宅で暮らしていくことは可能です。自分がどうしたいのか、自分のことは自分で考えられるような人間になっていないと、安心して死ねませんね。同時に利用者側のマナーも大切です。そういうことを若い時から考えていくということも、これからの時代はとても大事なことだと思います。


ある日のグループホーム
家庭的な雰囲気の中で、のんびり・ゆったり・マイペースに過ごす。

【久田恵の視点】
 38年前の自主的な市民グループが、地域の人が安心して老いを迎えられることを願い、自力で配食サービスや在宅ケアサービスの市民事業を立ち上げたのですね。保育園も学童保育も、みんな当事者である女性たちが切実な思いで立ち上げたのが始まりでした。社会を動かしていく女性たちの持続的な力を実感させます。