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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第119回 今の自分があるのはみんなのおかげ 
だから介護タクシーの仕事を通して、「道」をつくってあげたいなと思っているんです

三橋興司さん(65歳)
有限会社スリーシー 介護タクシー
取締役・会長
ヘルパー二級

取材・文:石川未紀

 大学卒業後は、大手企業に就職、技術畑で働いていました。僕は性格上、日本の会社の上下関係が苦手でして、取引先で勝手に話を決めてきて、上司に怒られていました。それで、アメリカに飛ばされたんです。でも、あちらは却ってその性格がよかったんでしょうかね。20代で責任者になりました。
 もともと30歳で独立すると決めていたので、退職して、スリーシーという自動販売機企画の会社を立ち上げました。その後、手袋自動販売機オペレーターの会社、スリーシーサービスも立ち上げ、特許をとり、会社の経営としては、とても順調で充実した日々を過ごしておりました。

 僕が50歳のころ、義母が脳梗塞で倒れたんです。娘だとお互いわがままが出るし、女同士だとうまくいかないと思って僕が看ることにしたんです。僕は、何でもオールマイティにできないと気が済まないタイプで、介護をするなら素人ではだめだと思って、ヘルパー二級の資格をとりました。学校は、訪問介護、デイ、特養など実地研修が充実したところを選んだので、それぞれの特徴や、現場を見られたのはよかったですね。
 会社のほうも、うまく軌道に乗っていたので、二男と三男にそれぞれの会社を一つずつ継いでもらうことにして、僕は義母の介護に専念しました。
 介護保険は始まっていましたが、あの時代の人ですからね。家に他人をあげるのはいやだと言って、お風呂以外は、ほとんど僕がやりました。しばらくして、義父にも認知症があらわれるようになって、義父母を介護することになったんです。

 そんな生活が15年近く続いたでしょうかね。義母が亡くなり、その一年後には義父も亡くなりました。最善の努力は尽くせたかなと思っています。

 しばらくは、のんびり過ごそうかなと思っていたのですが……。

 実は、僕が介護中に、サラリーマン時代の3⼈の部下が「リストラされそうなんだけど、どうしよう」と相談にやってきたんです。それで、僕は「これからは介護の仕事がいいと思う。介護タクシーならやれるんじゃないか。やるんだったら、僕は、⾝体が不⾃由になった先輩を、荷物を乗せるような⾞に乗せるのは失礼だと思うから、⾞もそれなりの⾞種にしてほしい」とアドバイスしました。
 そして、タクシー会社を紹介したりしたんです。「最初から稼ごうとせず、まずは⼼でやれ」と願いも込めて、伝えました。三⼈とも、徐々に軌道に乗って、今もやっているんです。

 その彼らがやってきて、せっかく時間ができたのだから、三橋さんも介護タクシーをやろうと誘われたんです。僕はここまでこられたのは、仲間や周りの人たちのおかげだと思っていたので、これからは奉仕をして生きていこうと思ったんです。

 それで、「やるからには、みんなとはライバルだ」と宣言して始めました。僕のところは、基本的に迎車代と予約料以外はメータ料金だけ。料金もHPあるように明瞭にしています。車いす二台搭載できるため、ご夫婦とその家族、施設の方などにも利用してもらいやすいんですね。
 HPと口コミで、おかげさまで今ではさばききれないくらい依頼をいただいています。外国人の方の依頼も増えています。

 僕は介護経験も長かったので、みんな僕のアドバイスを聞いてくれるんです。
 介護している奥様には、二か月一度は美容院に行きましょうと、旦那様には、たまにはゴルフやお酒もたしなみましょうと伝えているんです。つまり、周りの人に甘えることを覚えてくださいとね。ひとつの場面から、別の場面に身を置くという時間が必要なんです。やっぱり介護する人が、くたびれていたら、介護される人もつらいでしょう。

 一度、乗せているときに亡くなった方がいるんです。その方は、もう乗るときから危ないなと感じていたので、ご家族に救急車を呼んだ方がいいと言ったんだけど、「何があってもいいから、三橋さんの車で行きたい」と言ってね。それでリクライニングをフラットにして、乗せていったんです。いよいよ、というとき、僕は車を止めて救急車を呼びました。到着までの間、心臓マッサージをしていたんです。その間5分くらいだったでしょうかね。

 後日、家族の方がご挨拶にいらしてくれて、「よく最期の時がわかりましたね」と言われました。僕は両方の両親の死に目に会っているんです。ほかのきょうだいは間に合わなかったのにね。だから、なんとなくわかるんですよ。そして、こういうことも僕に課せられた使命なんだなと感じた出来事でした。

 今は、若い人のがん患者さんも増えています。ターミナルで思い出の場所にお連れすることもあります。独り暮らしの方には介護をすることも、ときとしてあります。
 体が動かなくなるとあきらめてしまうことも多いでしょう。でも、それであきらめてほしくないんです。
 僕は、この介護タクシーの仕事を通して、「道」をつくってあげたいなと思っているんです。あきらめるんじゃなくて、まだ、いろんなところに行けるし、見られるし、たくさんの体験ができることを知ってほしいと思っています。

 今の自分があるのは、みんなのおかげと思っているのでに、僕や家族だけがよければいいというふうは全然思わないんです。夜中の依頼、緊急の依頼、遠方への依頼などで、お酒も飲めませんし、ほとんど休みなく働いていますが、つらいとか大変だとは思っていないんです。非行少年たちを三社祭に誘って、神輿を担がせて、食事に連れて行ったりもしています。
 若い時からずっとこんな感じだったので、妻は僕のことを「働く人」と思っているみたいです(笑)。

 唯一のお休みは、浅草三社祭の三日間。この時だけは、お休みしてお酒もいただくんですよ。

いかにも介護服というものは着ない。家族が迎えに来た、という雰囲気にしたいからと三橋さん

【久田恵の視点】
 三橋さんの使命感には脱帽です。力量のある人でなければできないことをやすやすとやれてしまう人。その能力をいかんなく、誰にも抑え込まれず自由に発揮できるのが、介護という世界でもあるのだと思います。