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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第117回 新卒で介護の道へ 
僕にとって介護は「責任」 
子どもたちの成長を支え、輝かしい未来を創りたい

茂呂史生さん(39歳)
株式会社ひいらぎ 代表取締役
(埼玉県・草加市)

取材・文:原口美香

阪神淡路大震災のボランティアがきっかけだった

 僕が高校2年生の時、阪神淡路大震災が起こったんです。高校生ながら何かやりに行かなくちゃいけないな、という思いがありました。父に相談したら、勤めていた会社の関西支部の方に声をかけてくれて、ボランティア受付の手続きを手伝ってもらえることになって。それで春休みを待って、一人で神戸に向かいました。僕は仮設のお風呂を作る班に配属され、その時初めて、高齢者や障がい者の方たちと関ったんです。ある時、避難所で出会った女性の高齢者の方にすごく感謝されました。高校生だったので、それまでそんなに誰かに感謝されることなんてないじゃないですか。そこで何か感じるものがあったんですね。ちょうど高校2年生っていったら、進路を決めていく時期。当時の高校の先生に相談したら、「福祉の道っていうのもあるよ」と教えてもらって。それが介護の道へ行くきっかけとなりました。高校卒業後は福祉の短大に進み、介護福祉士の勉強をしました。

入居者の方が、どれだけ毎日を楽しく過ごせるか

 短大を卒業して、特養老人ホームに就職したんです。2階が重度寝たきりの方、3階が自立している方だけど、車椅子の方、4階が認知症の方と分かれていて、僕は3階に配属されました。入社した年の大晦日の夜、僕は夜勤だったんです。入所されていた方たちの2/3くらいの方は、家に帰らず残っていました。テレビの紅白を見ながら夕食を食べている時、「初日の出見たいよね」みたいな話で盛り上がって。「じゃ、見ようよ! せっかく僕がいるんだから」って。朝、希望者を起こして、内緒でウキウキと外に連れ出したんです。その頃僕は、入所されている方たちが生活しやすいというよりは、どれだけ毎日を楽しく過ごせるか、とやり過ぎちゃうことが多くて、よく怒られていたのです。入居者の方の願いを、できることならなんとかしてあげたい、という思いが強くありました。

コミニュケーションは自分本位であってはいけない

 身体を壊し、一度は介護の業界を離れたこともあったのですが、やっぱり介護の仕事に戻りたくて、今度は障がい者の訪問介護の事業所に就職しました。介護の経験はあるといっても、障がい者の訪問介護は初めてだったので、右も左も分からない状態でした。若い方もいるし、健常者の期間があった中途障がい者の方もいたので、どう接していいのか。ある日突然事故で歩けなくなってしまった方の気持ちを、寄り添うことはできたとしても、100%共感することはできない。生まれ付き障がいを持っている方に対しても、僕らとは違う世界を生きている訳じゃないですか。そういう大変さは日々感じていました。周りの方にいろいろ教えてもらうんですけれど、高齢者に対しても、障がい者に対しても、みんな同じような接し方しかしていないな、とも感じていて。僕は、やり方はそれぞれあっても、その人に合うコミニュケーションの取り方をしないといけない、と思っていたんです。一括りに障がい者といっても、年齢や持っている障がいもそれぞれ違う訳だから。3年くらいして、僕はサービス提供責任者となる予定だったので、会社に対してよく意見をしていたんですが、だんだん会社と関係が悪くなっていったんです。それでこの会社では、やりたいことができないなと思い始めました。それで、「退職します」って言ったら、複数の利用者さんも一緒にやめる、ということになって。当時僕は26歳だったので、自分が起業するなんて思ってもいなかった。だけど、周りの同僚や利用者さんに「やれ、やれ」と勧められて「どうせなら自分たちで訪問介護の事業所をやろう」ということになったんです。

26歳で起業。その人のために何ができるかがベース

 起業した2007年は、ちょうど自立支援法(今の総合支援法)が始まる年でした。その年は重度訪問介護ができた年でもあって、大手が単価の安い重度訪問介護から少し離れたんです。それで、介護難民のような方がたくさん出ていたんですね。僕は儲けはどうでもいいから、困った人たちの手助けになりたいと思って、どんどん受け入れていったんです。経営のイロハも分かっていなかったので手探り状態、ひたすら現場にも出ながら寝る間を惜しんで働いていたという感じでした。

 その後、知的障がい児や発達障がいの子どもたちの訪問介護の依頼が増え、関わることになったんですけれど、障がい児は障がい者とは、全然違うんだなということに気付いたんです。子どもが成長していくということを考えると、僕らができることは介護じゃなく、成長を支えることなんだと。

 特別支援学校に通う子どもたちってバスで通うことが多いんですよね。ある時、同じバス停に子どもを迎えに来ているうちのヘルパーさんが、3、4人いることに気付きました。そこからそれぞれ家に帰って介護が始まるんですけれど、お母さんたちにリサーチしたら、「放課後の学童があったらいいな。本当は放課後、集団生活の中でみんなと遊んでほしいんだよね」っていう意見がものすごく多かったんです。通常の学童は小学校3年生で終わりなんですね。すると働くお母さんたちの預け場所はなくなる。だから僕らのような訪問介護に依頼するしかないんです。「じゃ、作りましょう」って、足立に作ったのが、今から6年前です。障がい児をただ預かるのではなくて、健常の子も高齢者も障がい者も、みんな一緒に過ごせるという富山型を目指しました。だけど当時、それはどうしても申請が通らなかったんです。それで時間帯で分けて、高齢者や障がい児が通ってくるという、サービスを始めました。東京都では始めてのシステムでした。

誰かがやらなければいけないことと向き合う

 現在は、草加と足立を拠点に訪問介護の事業所と、放課後デイサービスが4か所。もうすぐ5店舗目も開所します。デイサービスは各施設ごとコンセプトは変えていて、エアー遊具やボルデリングを設置して身体をめいいっぱい動かそう、という施設もあれば、壁一面のプロジェクターを利用した体感型の施設もあります。おやつは、材料にもこだわって、すべて手作り。長い子だと小1から高3までの12年間関わるわけですから、本当に責任以外の何ものでもないなと、そういう思いでやっているんです。

 来年、新たに障がい者の就労施設も作るんです。そうすると障がいの子どもたちが成長した後、そこで働けるっていう仕組みもできますよね。障がい者の工賃って、すごく低いんです。もっと高ければいいよね、っていう声はよく聞きますが、取り組んでいる人って少ないんです。生産性のあるビジネスがきちんとできれば、ちゃんと給料も払えるようになる。うまく回っていつか、地域でみんな繋がって一つの円のようになればと思っています。

 専門分野の専門家としてちゃんと現場に立つために、
 知的発達障害に関わる「新しい資格」をつくる活動も行っている。
 発達支援力向上研修 http://dscouncil.jp/

「ひいらぎ」の日常には、
笑顔になれる瞬間がたくさんある。

子どもたちの日々の成長を感じる中で、
自分たちも成長できる。

【久田恵の視点】
 高齢者の特養ホームで働く、という経験に次の経験へと導かれ、さらに次の・・・、というふうに展開し、障害を持つ子どもたちの放課後ディーサービスという形に結実していったのですね。福祉の分野は、実践を通して身体で学ぶことを通してしか、専門性を深められない現場。高齢者の大介護時代には、日本の福祉観を大きく変える力が潜んでいるのだと思います。