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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第100回 マニュアルがない仕事だからこそおもしろい

高橋 悠さん(33歳)
株式会社ケアリッツ・アンド・パートナーズ
ケアリッツ田園調布
介護事業本部 管理責任者
サービス提供責任者
介護福祉士

取材・文:毛利マスミ

母の勧めで介護福祉士の道へ

 現在、訪問介護事業所の管理責任者をしています。

 私は、秋田県の男鹿半島に近い町で生まれ育ち、高校卒業後は、仙台に出て飲食店でアルバイト生活を送っていました。私の父は、当時国立大学の准教授で、職業柄か家庭でも教師のような面がありました。

 将来への目標を持てずにいた私に、父は「とにかく大学にいけ」と言ったのですが、その言葉には、どこか素直になれない自分がいました。目指す目標に向かって大学や専門学校に通う友人の姿を横目に、焦りを感じたこともありますが、親の言いなりになるのだけは嫌だったのです。

 そんな仙台での生活が半年ほど過ぎたころでしょうか。母が「将来的に活躍できる資格」と、福祉の専門学校で学び、介護福祉士の資格を取得することを勧めてくれたのです。

 福祉に関する知識も志もありませんでしたが、このままフリーターを続けることの意味も見いだせなかったので入学を決めました。入ってみると、とにかく密度の濃い2年間でした。そして意外にも、他人をケアする仕事が、嫌いではない自分に驚きました。友人のなかには、難しいとやめてしまう友人もいたので……。

 当時は、卒業と同時に介護福祉士の資格取得ができたので、卒業後は、学校の紹介で特養にケアワーカーとして就職しました。

ケアワーカーとして働きはじめるが……

 仕事は5交代勤務のシフト制で、夜勤は月に5~6回はあったでしょうか。でも若く体力もあり、施設の母体もしっかりした組織だったので、労働環境に特に問題はありませんでした。ただ、私の勤めていた特養は、街から少し離れており、外部との交流も、研修制度もありませんでした。このまま働いていれば、確かに排せつ介助や食事介助、ご利用者さまとの接し方もスキルアップしていくだろう。でも、その同じ場所で働く10年、20年後の社会人としての自分の姿を思い描くことができない――と、だんだん将来の不安を感じるようになってきたのです。

 こうして就職後、わずか1年で退職を決意。転職先には心機一転、東京を選び、業種も福祉とは関係のない、建築関係の会社に就職しました。営業職だったので売り上げは求められますが、達成できれば報奨金も出ます。一方、ノルマもあるので厳しい世界ではありますが、当時の私にとって、なによりうれしかったのは、経済の循環の輪のなかで働いている、社会人としての自分が実感できたことです。

仕事は楽しく、充実した日々でした。

再び、介護の世界に誘われました

 ところが、営業のために車を都内で走っていると福祉関係の車がやたらと目につくのです。そして「自分は専門性を活かせていない」と、度々思っていたのです。

 そんな折、たまたま目にした求人募集が気になりました。というのも、介護業界では異例なくらいの高めの給与が書かれていたからです。仙台の特養では、一人暮らしがやっとの額だったので、「どういう経営をすれば、この給料が払えるのか聞いてみたい」という、純粋な好奇心が沸き上がったのです。

 面接では「給与体制が、他社とずいぶんちがうのはなぜか」ということを、単刀直入にうかがいました。ITによる業務効率化など、色々な話を聞くことができたのですが、なによりも私の心をつかんだのは、社長の人柄でした。

 とにかくポジティブで、自分とは正反対のタイプ。そしてここなら「自分の専門性が活かせる」、「自分が活かせる」と、思ったのです。

それで現在の会社、ケアリッツに転職をすることに決めました。

介護は、社会のインフラだと思う

 ただ転職後も、介護の仕事は生産性がないといった思いだけは消えずにいました。

 結局のところ、我々の収入のうちの8~9割は保険や税金から賄われたものです。企業が、自身の稼いだ収入から税金を納めて社会貢献するという感覚とはやはり根本的に違うのです。

 しかし、転職後3年目くらいのときでしょうか。

 ある利用者さまのご家族からの言葉が、私の考えを一変させました。

「いつもありがとう。介護は将来を担う仕事だよね」。

 それに対して私は、「税金を使わせていただく立場なので、大見得を切るような仕事ではないですよ」とお答えしました。

 すると「でも、あなたたちがいるから、私たちは仕事ができる」とおっしゃったのです。

 その方は、ご両親の介護をしてらっしゃる息子さんでしたが、その言葉を聞いたときに、介護の仕事は現代社会のインフラの一部だと、感じることができたのです。

 つまり、直接的な経済効果はないかもしれないけれど、家族の就労を支える環境の一部になることで、間接的に社会貢献ができるのだと。

十人十色のサービスは、察する力から生まれる

 現在、私の働く事業所では60~70名の利用者さまを抱えています。

 訪問介護の仕事の難しいところは、利用者さまによって十人十色のサービスがあるということでしょうか。ひとつ仕事を覚えても、それを次に利用者さまに応用できるとは限りません。だから私はスタッフに、利用者さまの生活そのものを想像してサービスに入るようにと伝えています。

 たとえば、ご夫婦で暮らしていて奥さまが介護しているご家庭の場合。夜の30分のおむつ交換の依頼だったら、昼間はどう過ごされているのだろう? ご入浴はどうされているのかな? お食事は? など生活全体を想像しながらサービスにあたる方が、30分のサービスのなかでも気づきが増えるということです。

 自分が、利用者さまとご家族にとって、どんな役割をしているのかがわかることで、自分がなにをすべきなのか、なにを求められているのかがわかるし、自分が働く意義も見いだせる。だからこそ、工夫につながるし、おもしろさにもつながると思います。

介護の仕事は、今後の可能性が魅力だと感じています

 訪問介護は結局のところ、「接客業」でもあります。ですので、この仕事でいちばん大事なことは何かと問われれば、単なる介護技術や介護の知識ではなく「察する力」とお答えします。察して、一歩先まで考えて動く力―――マニュアルどおりではいかないからこそ、やりがいもあるのです。

 私は、高い志をもって介護の仕事に進んだわけではありませんでしたが、母が言ってくれた「将来性のある仕事」の言葉どおり、介護の仕事は今後の伸びしろが大きい、と、あらためて感じています。

 医師や看護師など医療職の高い専門性は、長い歴史のなかで育まれてきたものです。それに対して介護の仕事は、介護保険制度で考えても、スタートからわずか17年です。今後、介護の専門性はどんどん高まっていくでしょう。

 介護福祉士の仕事も、今と10年後ではまったくちがう形になっているかもしれません。介護は、今後に大きな可能性を持った仕事なのです。そこが魅力だと感じています。

【久田恵の視点】
 介護の仕事には生産性がない、と思っていた若い高橋さんが、現場での仕事体験を通して、「介護の仕事は現代社会の大切なインフラなのだ」という考えに至ったことに感銘を受けますね。仕事は人生そのもの。介護は志ある仕事だという価値観こそが、働く人を支え得るのだとあらためて教えられる思いがします。