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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第94回 自分が成長し、力をつけていることが実感できる仕事です

菅 早苗さん(43歳)
(株)日本在宅ケア教育研究所
マイ・ケアプランセンター東京渋谷支店
主任介護支援専門員
社会福祉士
介護福祉士

取材・文:毛利マスミ

ケアマネは楽しい! 魅力ある仕事だとわかってほしい

 新卒で特別養護老人ホームのケアワーカーになって以来、介護職一筋です。かれこれ20年以上、渋谷区で働いています。今は、6か所ある事業所の統括ケアマネジャーをしています。通常のケース担当のほかに、各事業所を回って、ケアマネの相談にのったり、困難ケースについて一緒に考えたり、事例検討や研修会をひらいたり、会社のシステムづくりなどもおこなっています。

 20代、30代の時には、利用されるお客様としっかり向き合うことに取り組んできましたが、40代になった今は、自分の経験をもとに、後輩を育て、支えることに力を注ぎたいと考えるようになりました。

 ケアマネは一人でする仕事が多くて、孤独になりやすいのです。私は相手の方の人生を抱え込みすぎて、疲れはてて辞めていった先輩方の姿をたくさんみてきました。ですから、みんなが孤独にならないよう、バーンアウトしないように寄り添っていきたい、みんなが働きやすい仕事の環境を整えることをしていきたいんです。

 ケアマネはとても楽しいし、魅力があります。長く続ける価値のある仕事だということをぜひわかってもらいたいと思っています。

自宅での看取り体験が、介護職を目指すきっかけに

 私の介護の原点は、祖父を自宅で看取ったことでしょうか。

 私は新潟の村上で生まれ育ちました。両親と弟、そして祖父母の三世代が同居する6人家族でしたが、私が中学1年生のときに祖父が突然倒れて、介護がはじまったのです。祖父は1か月足らずの療養で亡くなってしまったのですが、その間、入院もせずに、自宅で家族みんなで祖父の世話をしました。私は、このとき初めて「自宅で看取ることができる」と知ったのです。それまでは「倒れたら病院にいく」もの、「死ぬときは病院で」と、漫然と思い込んでいたのてす。

 そして、日々、衰弱していく大好きな祖父の姿を目の当たりにして、中学生の私にはなす術がありませんでした。祖父が亡くなった後は、「もっと何かできたのではないか」「もっと心地よく過ごしてもらえたのではないか」と自問する日々でした。

寄り添うことと介入することのせめぎあい。葛藤ばかりの20代

 こうした体験や、高校生のときの老人ホームや障がい者施設でのボランティア経験から、将来は介護職の道に進みたいと思うようになりました。当時、新潟には介護福祉士の養成学校がなかったので、卒業と同時に上京して介護福祉専攻のある短大に進学し、卒業後は夢だった介護の現場で働き始めました。

 今、振り返ると当時の私には、「介護職は担い手も少ないし、わたしがやってあげなきゃ」という思い上がりの気持ちがあったように思います。でも現場に出れば、自分の思い通りに事が進むことはほとんどありません。葛藤だらけの毎日でしたね。

 25歳で、今の地域包括支援センターの前身の在宅介護支援センターの相談員になると、さらに悩みが深まりました。虐待ケースなどハードな事例も多く、相手に「寄り添うこと」と「介入すること」、そのせめぎあいで、こんなに苦しい仕事はあるのか、と思ったものです。

悩んだときに原点に立ち返らせてくれる魔法の言葉

 そんなわたしの支えとなったのが、学校のソーシャルワークの授業で習った「ニーバーの祈り」です。ニーバーとはアメリカの神学者のことで、その人の言葉です。

 「変えられないものを受け入れる冷静さと、変えられるものがあることを受け入れる勇気、変えられないものと変えられるものを見極める知恵をもつこと」

 私は、20代半ばで人の人生に関わること、人生の大事な選択を、自分の言動によって左右してしまうことの怖さを痛感していました。自分の価値観だけで「人を変えよう」なんておこがましい。利用されるお客様にも人生があり、たとえゴミ屋敷に暮らしていたとしても、そこにその人自身の生きざまがある、そういうことに、私を立ち返らせてくれる言葉です。この「ニーバーの祈り」は、いまでもわたしの介護観の原点になっています。

難病など深刻なケースほど、先を予測した提案が不可欠

 私は十年ほど前に、現在、勤めている日本在宅ケア教育研究所に転職しました。

 介護職に就いて11年目、31歳の時です。

 難病やターミナルケア、自宅での看取りといったケースが増えるなか、対応が後手になることも多く、疲弊していく家族を前に自分の力不足を痛感したからです。これではダメだ、もっと専門性を深めなければ、そう思って、訪問看護ステーションが併設されている民間のケアマネを目指して、現在の職場に移ったのです。

 転職当初は、「仕事が遅い」と怒られることばかりでしたね。ターミナルケアのお客様で、わたしが思うより病気の進行が早く、1週間も経たずに酸素が必要になり、床ずれもできてしまったことがありました。エアマットレスを使おうと思っても、体を動かすことが、すでにお客様の大きな負担になっていたのです。「先を予測した提案」の大切さを痛感しました。ドクターや看護師など医療職の専門性の高さを前に、医療用語、病気の進行の過程、ケアマネの介入のタイミングなど、一からの勉強のし直しでした。

 また介護離職が社会問題にもなっていますが、深刻なケースほど介護のために家族が離職しなければならなくなります。介護離職をすることがないように、家族をサポートするのもケアマネの役目です。また、ケアマネの側も健康でなければ、いい相談援助はできません。ですから、仕事以外の友人や家族との時間を大事にするように、うちのケアマネたちには口を酸っぱくして言っています。リフレッシュが大事なんです。

介護をもっと、地域の身近な存在にしたい

 わたし自身、いまでも自信をなくしてしまったり、「もうやってられない」と思うこともあります。 でもわたしは、やっぱりずっとこの仕事をやっていくんだと思います。この仕事をしていると、絶対に会えないような人との出会いがあります。人生の先輩から色々な話が聞けるのも本当に魅力です。仕事を通じて、自分が成長し、力をつけているということが実感できるのです。

 私は、介護がもっと地域の身近な存在になるべきだと思っています。公的なサービスにプラス、地域の力をケアマネが見極めて、見守りの体制や有償のボランティア、ご近所ネットワークなど、必要なものはつくっていくことが求められています。受けられるサービスは限られているし、ヘルパーさんがいなかったら在宅が出来なくなるというのでは駄目だと思います。また、家族ばかりに負担を負わせるのも違います。

 困ったときに「さぁ、どうしよう」では、遅い。必要な時に手を伸ばしたら、自然とサポートの手がある、アドバイスが受けられる、ということが大事です。そこを、私たちは目指していかないといけないなぁ、と思っています。

デスクワークの時間は、
外回りの仕事を終えた夕方以後です。

後輩には、「なぜそう思うのか」を、
自分で考えられるように指導しています。

【久田恵の視点】
 長寿化の中で、介護とどう向き合っていくかは、介護の仕事をしている人だけの問題ではありません。専門性を持った人たちのリーダシップの元で、地域に暮らす人たちの協力が必要な時代です。この介護の必要性が、失われてきた地域のネットワーク力を回復していく原動力になっていったらいいね、と思います。