メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第61回 半導体開発から介護の仕事へ 
自分が心を開けば相手も心を開いてくれる、
そんな実感が味わえる場所

落合 孝さん(47歳)
社会福祉法人 ノテ福祉会 ノテ地域ケアセンター深沢
小規模多機能型居宅介護 ノテ深沢
実務者研修修了

取材・文:石川未紀 

引っ込み思案な子どもでした

 生まれも育ちも東京・蒲田です。家は町工場で、まさに、NHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のような下町で育ちました。怖い姉と妹、そして父(笑)。それから逃れるように、祖父母と一緒に遊んでいるような、引っ込み思案な子どもでした。父も、下町育ちですが、とてもそうとは思えないような「キザ男」。アメリカかぶれで、よく一緒に洋画や洋楽を見たり聴いたりしていました。父にはもう一つ好きなものがありました。それは電気製品で、将来は電気関係の仕事に就きたいと思っていたそうです。

 父は結局、祖父の町工場を継いだのですが、僕もその影響を受けて小学生のころから、電気のことが大好きになり、高校は大学附属の工業科へ、大学では通信工学科で本格的に学びました。すでに、僕が高校のときに町工場はたたんでいたので、半導体の会社に就職しました。時代はバブル。特に半導体の技術者は当時の花形の仕事でしたから、就職で困ることはありませんでした。

 就職後は、半導体の開発に携わり、20年勤めました。図面から、設計、評価、デモまでと、量産にこぎつけるまで、何でも一通りやりました。時代もあったと思いますが、この仕事は、とにかく、とめどないんです。仕事量も多いし、頭の回転がよくないから、「もうちょっと時間をかけて頑張ろう」となってしまう。それを誰かが止めるという機能が会社にはなかった。ちょくちょく体を壊していましたし、徹夜や不規則な勤務が続いてとうとう頸椎椎間板症になって入院してしまったんです。ハードな仕事をしているのは家族も承知していましたが、僕が好きで始めた仕事だということを知っていたので、家族もあまり止めなかった。

 でも、さすがにこのままではまずいということで、妻がフルタイムで働いていたこともあり、会社を辞めたんです。2011(平成23)年5月、東日本大震災直後のことでした。辞めてしばらくは何をする気もなく、働く気も失せていました。

「僕は体が使えるな」という意外な発見がありました

 そんなとき、勤めていたころの同僚を中心に始めた自然農法の仲間が、松島で被災したことを知りました。東京の仲間に「お前、ボランティアに行って来い」と言われて、田んぼや近隣の畑なども手入れしたりしたんです。

 そのとき、「僕は体が使えるな」という意外な発見がありました。

 あと、行った先々で「ありがとう」って言われるんですよ。サラリーマンとして勤めていたときにはまったく言われたことがなかったので、すごく新鮮でうれしかったんですね。そんな生活が1年近く続きました。楽しかったけれど、お金にならないので、飯は食えない。辞めた当時はやさしかった家族も、「そろそろ働いてもいいんじゃない?」という視線を感じましたし、自分自身の中にもあせりがありました。

 自分には何ができるのかを考え始めました。ボランティアをしているころから「運転がうまいね」とよく言われていたので、運転手ならいけるんじゃないかと思ったんです。タクシー運転手も考えたのですが、たばこは嫌いだし、不特定多数の人を乗せて運転するなんてできるんだろうかという不安もあった。

 どうしようか迷っているとき、道を走っている車に「○○デイサービス」というのがあるのを発見したんです。この運転手ならできるかなと。ただデイサービスとは何かということも全く知りませんでした。デイサービスの運転手の募集要項には「朝・夕のみの仕事」というのも結構あって、それがどうして朝と夕なのかもわからないまま、問い合わせたり応募したりしたんです。採用担当者に年齢を尋ねられて答えると、「若すぎる」と言われるんです。「この歳で若すぎるってどういうことなんだ?」と思いました。

 それで、朝夕だけでない日勤の仕事でかつドライバーという求人に出会い、2012(平成24)年11月に川崎のデイサービスに就職しました。このときは資格も何もありませんでした。朝と夕はデイサービスのお迎えと送り、日中はお茶出しやレクリエーションを担当し、直接介護にかかわらない仕事をしていました。このとき、ようやくデイの運転手が「朝・夕のみの仕事」なのかわかりました。つまり、デイの運転手をやるということは送迎の仕事。きっと雇うほうは、引退後の年金受給者などをイメージしていたんだとわかったんです。

 運転していると「落合さんの運転だったら安心できるよ」と利用者の方に言われたり、スタッフからも、「落合さんがドライバーのときに私も送迎に行きたい」と言われたりして、この世界になじめるなという気がしてきたんですね。レクリエーションで体操をやるんですが、僕に視線が集中するんですよ。じーっと部屋に閉じこもって半導体を作っているときには考えられない状況でして…。しかも会社にいたころは、注目されるのはプレゼンのときくらいだから、刺すような視線しか感じなかったのに、デイで体操している僕には皆好奇心いっぱいな目を向けている。実に新鮮だし、素直に「楽しい!」と思いました。

 それで上司に相談して、当時のヘルパー2級を取りました。

 資格をとるとすぐに、送迎ルートを検討するリーダーになり、お風呂の介助も毎日回していかなくてはならなくなりました。現場がとにかく忙しい上に、僕も張り切りすぎて何でも引き受けてしまった。後輩に理解していない介護技術を教える機会が増え、こんな状況で良いのかという疑問が付きまとうようになって、2015(平成27)年の3月に川崎のデイサービスを辞めたんです。

 失業中、ハローワークに行ったら、職業能力開発センターで介護福祉士実務者研修のコースがあるから受けてみないかと誘われました。費用はタダ、失業保険も出るというので、それならと申し込みました。半年勉強しました。この間にいろいろな施設に研修に出かけ、自分にはどこが向いているかを考えるよい機会になりました。