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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第59回 医療事務、専業主婦を経て介護職へ 
私は特養で働きたい~入居者の方のちょっとしたしぐさが愛おしい~

井本澄江さん(55歳)
土支田創生苑(東京・練馬)
生活支援課・介護主任

取材・文:原口美香 

7年もの遠距離恋愛を実らせて結婚しました

 生まれは、瀬戸内海の「横島」という小さな島なんです。広島県にあるこの島には中学までしかなかったので、高校は船に乗って本土まで通っていました。高校を卒業した後は、大阪の病院で医療事務の仕事に就きました。

 主人とは幼なじみで、同窓会で再会したのをきっかけにお付き合いを始めました。主人は東京に就職していたので、7年もの遠距離恋愛を実らせて結婚したのです。それで、東京で暮らすことになりました。

 3人の子どもに恵まれて、長男、次男、そして最後に長女が生まれました。朝、お弁当を作ったりして、いろいろな公園に連れて行きましたね。住まいが幼稚園のすぐそばだったので、お友だち親子がよく家に集まって、一緒にご飯を食べたりもしました。

 私は東京に知り合いがいなかったので、子どもを通じて知り合ったお友だちには、ずいぶん助けてもらったのです。子どもが病気になったときも、お互いにほかの兄弟を預けたり、預かったりしていました。

「こういうところいいなあ」っていつも思っていた

 子どもが大きくなって、下の子が小学校に入ったころ、近くにデイサービスがあることに気づきました。道路に面していた施設で、そこを通るたびに「あ~、こういうところいいなあ」って、いつも思っていたのです。

 デイサービスというのは、どちらかと言ったら、楽しみを提供する場ですよね。書道や作った飾り物を見て、「働いてみたいな」と、面接を受けました。働くことが決まり、子どもたちに話したら、「え~、おじいちゃんやおばあちゃんより、子ども相手がいいじゃん」なんて言われましたが、思った通りすごく楽しかったんですよ。下の子なんかは、家の鍵を忘れたとか何とか、しょっちゅう来ていたのです。家から近かったので。

 下の子が中学に入る頃、「特養も経験してみたいな」と思うようになり、特養異動を希望しました。今度は夜勤もあるし、主人は最初から「旦那の給料でやりくりして子どもを育てるのが母親の仕事だ」みたいな考えを持っている人でしたが、だんだん洗脳するような感じで説得しました。

 その特養では、認知症のフロアに配属されました。利用者の方が、コップの中に上履きを入れたり、スリッパに食べ物を入れたり、お人形に食事をあげたりしていて、病気だと理解はしていても、初めは随分戸惑いました。そうした行動に対しては、強制や注意はしないで、「どうしたのですか~?」と寄り添うというか、「そうしたいのですね」「スリッパに食べさせてあげたのですか?」という感じで、よっぽど危ないことではない限り見守っていましたね。

 夕方になると必ず、「お母さんが、お母さんが」といつも言う方もいました。自分が子どもの頃に戻っているのでしょうね。「お母さんに怒られるから」って、一番思い出に残っていることなのだと思います。「ご飯を作らなくちゃいけないから帰るわ」と言う方もいましたし、さまざまでしたよ。

 夜勤のときはハラハラドキドキの連続ですね。センサーマットをベッドの横に敷いて、利用者の方が立ち上がると、センサーが鳴るようにしていたのです。転倒のリスクもあるので、センサーが鳴ったらあっちの居室、こっちの居室と、もう大変でした。

 夜勤はペアになったスタッフと交代で仮眠を取るので、ひとりになったときが怖かったです。大変なときは仮眠中のスタッフを起こしていいことになっているのですが、なるべく起こさずに対処できれば、とひとりで対応することが多かったように思います。寮母室の中に入らずに、どの居室にも行きやすい、フロアの中心にある食堂にいました。

 「帰りたい」と帰宅願望のある利用者の方には、落ち着くまで一緒に歩いたりもしました。落ち着いたら「今日はもう遅いし、バスや電車もないから、明日私が送って行きますよ」などと言って、やはり「人対人」の対応は大切ですね。余裕があるときはそんなふうにやっていました。

 でも、楽しかったですよ。楽しい思い出ばかりですね。確かな意思疎通もできなくて、急に手が出たり、いろいろなところで排泄したり。認知症のために何が起きるか予測もつきません。でも、それをクリアできれば、何とかなるのかなという思いがありました。

早朝に行って、夜遅く帰ってくる毎日

 その後、3年くらいしてからユニット型の施設に移りました。ユニット型はできていましたが、まだまだ従来型が多い時代でした。家からは遠かったのですが、どんなところか経験したいと思ったのです。

 そこは、家庭的ですごくよかったんですよ。全室個室なので家族が来ても、気兼ねなく過ごしていただけるし、利用者の方も、仏壇やこたつなど、好きなものを持ち込んできて、まるで自宅の部屋のようでした。10人だけを担当すればよかったので、利用者の方とは親密になりました。家族以上に。時間はたっぷりあるので、趣味の話を聞いたりもできましたし、ご家族の方々とも、本当に仲良くなりました。

 そこでは「主任をやってほしい」ということで、3フロア30人を担当することになりました。そのころはもう「家庭を捨てて」ではないですけれど、早朝に行って、夜遅く帰ってくる毎日でした。夜勤があっても、丸1日ゆっくり休める日はなかったり、そもそも家から遠くて通勤も大変でした。子どもが大きくなっていたからやれていましたが、負担を考えれば、やっぱり家の近くで働くほうがいいと思うようになりました。

私は特養がいいのかな

 それで、デイサービスや老健などさまざまな施設に面接に行き、「来てください」とお返事をいただいたのですが、私のやりたいのとは「なんか違う」と感じていました。「私は特養がいいのかな」って。寝たきりの方の、ちょっとしたしぐさ。会話もままならないけど、「ありがとう」って言っているようなしぐさ。表情で分かるのです。目で合図したり、笑ったような顔をしたり。顔を拭いてあげたり、頬を触るとたくさんの表情をされます。家族よりも長い時間過ごしていますので、愛情が湧きます。やはり私は特養で働きたいと決め、こちらに入職して6年目です。

 フロアは、二つのグループに分かれており、合計80名の方が入居されています。結構、重度の方も多く、寝たきりの方、ターミナルの方、認知症の方、経管栄養の方などがいらっしゃいます。言葉は出ませんが、職員が「ハイタッチ!」と手を出すと、手を動かして応えてくれる方もいるのですよ。そういうのを見るとうれしくなっちゃって、寝たきりの方でも、応えてくれるのが分かります。

最期はここで逝きたい

 ここでは、看取りもやっております。延命治療を希望される方、なるべく自然な形を望まれる方など、まさにさまざまですが、ご本人、ご家族、ナース、相談員、栄養士、機能訓練指導員など、たくさんの職種の人が関わって話をします。褥瘡ができないようにするにはどうしたらいいか、栄養の取り方、安楽な姿勢はどういうものだろうか、など、細かなことまで、その方に合ったものを考えますね。看取りになると個室を提供して、ご家族も泊まれるようにしています。

 たまたま少し席を外されたときに亡くなられた方もいらっしゃって、「ついさっきだったんですよ」というようなことも中にはあったのですが、やはり最期はご家族も一緒にいて、その方らしい最期をというのが一番ですね。

 病院に入院していた方で、「最期は施設に戻りたい」と希望されて、施設に戻ってきたその日に亡くなってしまった方がいらっしゃいました。それなら、せめてもう少し早く戻ってきてもらえれば、職員ももっと接することができたのに、と心残りでしたね。

職員のみなさんを守っていかなければならない

 最初は資格もないまま始めましたが、仕事をしながら夜間、学校に通ってヘルパー2級を取得しました。その後、介護福祉士、介護支援専門員の資格も取得しました。

 私は今、主任を任せられていますが、心がけているのは、働くみなさんがストレスをためないように、ということです。この業界は、早番、遅番、夜勤など、勤務時間が不規則ですし、人員不足でストレスがたまりがちだと思います。そのために職員となるべく話をするようにしていますね。「最近仕事どう?」って、声をかけると「実はこうなのです」って悩みを話してくださる方もいます。

 例えば、職員の方が体調不良のとき、「気にしなくていいですよ、ゆっくり身体を休めてください」と伝えて、私が代わってシフトに入るようにしていますね。また、利用者の方が体調を崩しているときも、夜勤の方に「不安だったらいつでも電話ちょうだい」「何かあったら来るから」と言っています。そう言うと安心できるし、心強いと思います。私は家も近いし、夜来るのは全然苦ではないのです。もっと職員を充実させて、利用者の方の思いをより聞き入れるなど、毎日楽しく穏やかに過ごしてもらえる環境作りに努めたいと思います。

「何でも言ってくださいね」と井本さん。

インタビュー感想

 誰にでもきさくに話しかけて歩く井本さん。井本さんが声をかけると利用者の方は目を細め、口元にはふっと笑みを浮かべます。お話の中にあった「ハイタッチ!」も実際に見せていただきました。そこには、とても優しい時間が流れているように感じました。
 わずかな表情の変化やしぐさを大切にしてくれる井本さんの存在は、利用者の方にとって、とても心強いものだと思います。
 そして、井本さんの姿を見て育った娘さんは、同じく福祉の道に進んだそうです。最初は井本さんが働くことに渋々だった旦那様も、今では快く送り出してくれるのだとか。
 また、働く職員の方々の環境が少しでもよくなるようにと、日々声かけや、きめ細やかなフォローにまわるご様子が、井本さんの人柄を表しているようでした。

【久田恵の眼】
 気持ちの通じる人が側にいてほしい。それが介護を受ける人の願いです。介護施設は、すべからく、入居している方が「最後はここで逝きたい」と思える施設であってほしい。話せなくても、動けなくとも、わずかな表情で気持ちを汲んでもらえる井本さんのような介護職がいること、それが大事ですね。