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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第39回 結婚して理容師15年。離婚して介護職19年。 
どちらの仕事も、他者への「優しい手」が必要でした。

佐々木弘美さん(59歳)
浴風会 特別養護老人ホーム第二南陽園

取材:久田 恵

介護職歴19年

 私は、介護職歴が19年にもなります。

 その前は、理容師、つまり床屋さんを15年やっていました。それがいつのまにか、介護職のほうが、長くなってしまいました。

 理容師になる前はフツウのOLでした。その私が、なぜ理容師になったかというと、式根島に遊びに行って、たまたま出会った彼と結婚しちゃったからなんです。彼は、理容師と美容師の両方の資格を持っていて、当時は客船で理容師をしていました。「将来は自分の店を持つのが夢だ」と話していました。

 私は彼と結婚して、子どもを二人産んだ後に理容師を目指しました。実務経験がないと国家資格がとれない仕事でしたので、2年ほどはボランティアの下積みの修行をさせてもらいながら理容学校へ通い、27歳で資格を取りました。

 夢がかなったのが、夫が32歳のとき。私たちは家族4人でお店を持ちました。

 今、思えば、なんとけなげな妻だったのかと思います。父が厳しい人で、なにか言うと怒鳴られたりしたもので、私は男の人と喋るのがすごく苦手だったんです。ですから、なんでも夫、つまり店のマスターである彼に言われるままに仕事をしました。彼は、「お客さんにいろいろ聞いては駄目」とか、「床屋は男性がリラックスする場所なのだから、子どもは一切、店に出入りはさせては駄目」とか言うので、とても気をつかいました。お店を出して、3年ぐらいは夫婦だということも言いませんでした。私はお客さんの身体をマッサージしたり、シャンプーをしたり、顔の髭をそったりが役目でした。でも、大変だとは思いませんでした。お客さんからいろんなことを教わりましたし、私は、どんな濃いひげも痛くなく剃って見せるゾ、みたいな気持ちで夢中でやっていました。

 夫はアイディアマンで、商才がありました。お客さんをシャンプーしたりするときに胸にかけるクロスが、「触り心地もデザインも悪い、何とかしたい」と彼が言ったら、お客さんの中にデザイナーの方がいて工場を教えてくれたんです。それでオリジナルのクロスを作って使っていたら、お店に来た理容関係の方が「これ、いいね」と注文してくれて、いろんなところに卸すようになったりしました。さらに、作業着のいいのも作って、北海道から沖縄まで注文が来るようになり、生活もどんどん裕福になりました。

 ところが、ある頃から私に異変が起きたんです。お店で、レザーを持つと、手が震えるようになったのです。仕事に自信が出て、気持ちも乗っていて、一番楽しいときだったのに。どうしてかわからないまま、医者の処方した薬を7年も飲み続けていたんです。手が震え出すときって、その前にカーッとなるんです。これが、最初は3日に1回ぐらい。ついには、1日に3回もなって、仕事ができなくなりました。そのときに薬のことを医者に聞いたら、精神安定剤だと言われました。それを夫に伝えると「なんだ、俺のせいか」と言われて、こちらもだんだんと「そのせいなのかな?」と気がつき始めちゃったのです。

 「右向け」と言われたら右を向き、「これをいつまでにやれ」と言われれば、頑張ってやり。夫には逆らわなかったけれど、逆らうようになったら彼も怒るようになり、結局、知らず知らずのうちに、私は我慢し続けていただけだと気がつきました。

 それを一番よく見ていたのは子どもたちで、ついに、娘に「ここにいたら、おかしくなるから、もうみんなで出よう」と言われたのです。

仕事がないと、家を出られない

 そんなわけで、仕事を探しました。昔の同級生が、高齢者施設で栄養士をしていて、彼女に頼んだら、「どんな仕事でもいいの?」と聞かれ、「なんでも頑張る」と言ったら、浴風会の仕事を紹介してくれました。

 面接のときに、施設長から「なぜ、ここを選んだのですか?」と聞かれて、正直に「仕事がないと、家を出られないので」と事情を全部話しました。施設長からは「そうなんですね、わかりました」と、ちゃんと聞いてもらえました。

 さらに、「あなたは、人に接するときに一番大切だと思うことはなんですか?」という質問もありました。それを文章で書くのですが、私は、「一番大切なのは、触る手です」って書いたんです。心が怒っていると、触る手も怒ってしまいます。「気持ちが優しければ、触れる手も優しくやわらかになります」って。

 床屋って、毎日、人の体を触っているのです、レザーを持って、髭をそったり、シャンプーしたり、マッサージをしたり。頭とか、首とか、顔とかそういうところを他人から触れられることは、大人にはそうないですよね。だから、それはそれは、気をつけます。そう、手はとても大事です。それは、15年の理容師の仕事で私が学んだことでもあったのです。

 お店は裕福でしたが、実は、妻の私は給料をもらったことがなく、ものを買うときは、夫からいちいちお金をもらって、お釣りは返す、そんな感じで、私にはお金の自由もありませんでした。ですから、離婚して、介護職になって、初めて私は、経済的自立に向かって生き始めることにもなりました。

 39歳。子どもは、中学生と高校生でした。

もう、なんていい仕事なの

 介護の仕事を始めて、思いました。「触り方って、やっぱり大事だなあ」と。お話もできない、寝たきりのままの方に触れたとき、相手がキュッと緊張するのがわかります。

 「この人がやる排泄介護はスムーズだよね」ということがよくありますが、何も言えなくて、何も見えもないという方にとってのコミュニケーションは、やはり介護職の声と触り方。その人の心の受容性が身体に出るのだと思います。

 一方で、私は一番心がすさんでいるときに、介護職になったわけですけど、すごく癒されました。自分の心を利用者さんに救ってもらった、という思いがあります。車椅子の方でしたが、「今日、子どもと喧嘩しちゃって」なんて愚痴をこぼすと、「そうか、そうか、大変だったねえ」と頭を撫でて慰めてもらったりもしたんですよ。「もう、なんていい仕事なの」と思いました。

 そんな私ですが、5年目に「この仕事をする資格が自分にはない」と思ったことがあるんです。仕事に馴れた3年目ぐらい。その頃、ともかく「言葉」が大事、人を傷つけもするし、慰めもする、と思うようになっていて、ときに、「失礼なこと言っちゃったのじゃないか」とか、「自分のせいで相手が悲しい思いで布団をかぶって泣いたりしているんじゃないか」と心配になったり。なんかどんどん自罰的になっていったんです。それで、「こんなのでは、自分は駄目だ、駄目だ」と自信を失ってしまいました。

 ちょうど介護保険が始まってケアマネの制度ができたりして、介護に余裕を持って向き合えない時期でもあったかと思います。忙しいとき、清拭するのに、冷たいので拭いちゃったとか、そういう人がいたりするのを見ただけでも、私は許せない気持ちになるんですよ。

 そんなとき、新しい施設が立ち上がることになって、私も異動するように言われたのです。ふと、これをきっかけにもう一度やり直すチャンスかなあ、と思ったのです。

 そのとき、私は副班長になりました。人を育成する立場になったのに、専門学校も出ていないし、とためらう思いもあったのですが、私が経験しているのは子育てしかないから、子育てと思ってやってみよう、と開き直りました。それで、5年目の危機を乗り越え、介護職を続ける決心ができたのです。なにがあっても、この仕事は楽しいという基本が変わらなかったことが幸いして続けられたのだと思います。

長く働くことにこそ意味がある場所

 私は今、特別養護ホームのサービス課長をやっています。

 法人内には3施設。私が担当する施設の利用者さんは156名、52ベッドが3フロア。パートさんを入れると100人ぐらい職員がいます。私の仕事内容は、職員の育成、現場統括で、ま、なにか問題があったら現場に飛んで行くというのも仕事かな。

 サービス課長になって気がついたのは、現場にいるときはみんな同じにやっていると思っていたら、そうじゃない、ということ。それで、これが違う、それは駄目と、もうポンポン言ってしまいます。ともかく利用者さんに失礼なことが、私はすごくいやで、気にかかるのです。それと、今は「大変で」という言葉が先に来る若い人が多いですね。私は、「どんな仕事でも大変なんですよ」と言います。大変だからお給料もらえるわけだし、大変だから人も雇うわけだし。仕事が楽になるって、経験と馴れとコツを自力で身に着けるしかないのです。「大変」と簡単に言ってしまうと、考えなくていいとか、仕方がないんだからいいんだと、思考停止になります。当然、介護レベルは下がります。

 いくら経験の差があっても、時間がかかって「大変で辛いです」というのを弁解にするのなら、「仕事を変えれば」と私は言いますよ。

 「私はこういうタイプだから無理」ともよく言いますね。そんなとき、「ねえ、『そういうタイプだから』と自分にバリア張ってない?」と言って泣かしたこともあります。私は、厳しくしちゃいけないってことはない、いつも利用者さん目線で話せるレベルにしないと、と思っています。仕事上、こう育成した、という書類を出すのですが、自分はやっているつもりでも、それが利用者さんにまで届いていなかったら、仕事に意味がないと思いますから。

 そもそも介護の現場の楽しさって、どんなことでもその人の得意なことが役に立つということですね。私は床屋でしたので、みなさんの入浴介助の後、髪を乾かすのに、ついブローをしちゃうんです、それで「佐々木さんがやると、髪がフワッーとなる」と言われ、嬉しかったです。それから私は、9歳から日本舞踊をやっていて、結婚前には舞踊団で踊ったりしていたのです。それで、施設長から「お正月に、職員に着付けをして、みなさんにお正月らしくしていただいて」とか。「夏祭りで、浴衣の着付けをして」と頼まれたりしました。今は、私は和太鼓をやっています。やっている方たちが、みんな60歳前後ですけれど、見て惚れてやり始めたのです。夏祭りを目指してますよ。

 自分が頑張っていると、家族も介護に関心を持ってくれます。

 息子がドッグセラピーの学校へ行っていたとき、施設長に「アニマルセラピーをやれる人がいるんですけど」と言ったら、「いいわねぇ!」と言われて役に立ってくれたりもしました。お嫁さんがネイリストで、ボランティアで、ここの施設にきてやってくれたり。

 現場の介護職から、育成とか、サービスとかに立場が変わると、別のやりたいことができるとか、裁量権の幅も出てきます。そうすると、また別の楽しさも増えていく職場だと思いますから、長く働くことにこそ意味がある場所だと思います。

 この浴風会の正規職員の定年は65歳。その後、契約をして70歳まで続けられます。ここには理容室があるので、また床屋さんをやってもいいかなあ、とか、グループホームで、のんびりもいいかなあ、とか、訪問介護の仕事もやってみたいな、とかいろいろ考えて楽しいです。先のことはどうなるかわかりませんが、ほんと出会いですよね。仕事って。

施設の夏祭り 「高井戸こだま会」の一人として参加する佐々木さん

【久田恵の眼】
 何も言えない、何も見えない、動けない、そういう方にとってのコミュニケーションは、介護者の声と触り方。大事なのは、「触れる手」です、と言い切る佐々木さんの言葉に打たれます。どんな介護者に出会うかで、その人の人生の最後が決まる、とまで言われていますが、より多くの人が、「優しい手」に出会ってほしいものです。人の人生の最後の運、不運を握っているのは、今や介護者なのだと思うと、思わず考えさせられてしまいます。