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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

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花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第31回 自動車販売の営業マンから、介護タクシー起業へ 
父親の在宅介護で開かれた新しい人生の道

金子裕一さん(44歳)
まごころケアタクシー(神奈川・横浜)

取材:久田 恵

仕事って、絶対、すぐに成果を出そうと焦ってもダメです

 介護タクシーの仕事をスタートさせて、9か月目です。仕事は、目下、平均1日1、2件あるぐらい。月30~40件という感じかなあ。でも、「始めたばかりでフツウそこまでの件数もいかないよ」って経験者の方からは言われました。

 私は、以前、いすゞ自動車で営業の仕事をやっていたんです。8年ほどです。そのときの経験で、仕事って、すぐに成果が出るものではないことをよくよく承知しているんです。

 営業というのは、お客さまの情報をきちんと把握することから始まります。相手がどういうニーズを持っている方か、どういうライフスタイルの方か、機会があるごとによく話をさせてもらい、じっくりお付き合いする中で、信頼を得ていくことが大事なんです。たとえば、毎日の仕事を克明に記録して、お客さまが「子どもがもう少し大きくなったら、買い替えたい」と話していたなあ、そろそろかなあ、と思って連絡を入れるとか、きめ細かく対応してやっと仕事につながる。「この人から購入してよかった」と相手に喜んでもらえないと成立しない仕事だったんです。

 仕事って、絶対、すぐに成果を出そうと焦ってもダメですから、私は、今、全然、焦ってません。

 今は、毎日、「利用者さんに喜んでいただける介護タクシーの仕事」ってなにかということを考えたり、学んだりしているところです。

この仕事は父に導かれたのだと思っています

 実は、そういう仕事への向き合い方は、父から学んだんです。

 父も、いすゞ自動車の営業マンでした。辣腕(らつわん)で、何度も賞を取って会社で表彰されたり、ご褒美(ほうび)で海外旅行に行ったり・・。そんな父の姿に憧れ、私も同じ営業の仕事についたのですが、時々、「仕事、どうだ?」とかさりげなく聞かれてアドバイスをもらったりしていたんです。

 そもそも、介護タクシーを始めることになったのは、その父を一人で在宅介護をしたことが、きっかけです。

 私は、一人息子。44歳で、シングル。20代のときに父が心筋梗塞で倒れ、母がガンになる体験をしました。父はバチスタ手術という大手術をやって、なんとか回復したのですが、母はガンで亡くなり、それからは16年間、父とずっと、男二人の暮らしでした。

 父は、厳しすぎるほど厳しい人で、思春期の頃は大反発して長く素直になれない時期がありましたが、本心は父に認めてもらいたい気持ちが強く、言われた言葉は常に心の中にあり、大きな影響を受けていたなあ、と思うんです。

 実は、私は私立高校生時代、問題行動で高校から処分を受けたのです。それで怒った父に、ある塾に放り込まれてしまいました。そこは全寮制で、厳しい日常訓練をやって、心身を叩き直すみたいなところでした。「男は、自分より弱い人間を助けるために自分の体を使え!」と言われて、鍛え直されました。すごく厳しい塾で、私は逃げることばかりを考えていたけれど、なんとか、自力で大検(大学入学資格検定試験)を取って大学に進学しました。

 そんなわけで、私には、普通の高校の同級生とは違う時間があって、その間、心の迷いで学校に行けない人とか、心の病を持った人とか、いろんな人たちとも出会いました。当時の私はそこにいることが苦痛でしかなかったけれど、今思えば、そこで知らず知らず大きな影響を受けていたなあ、と思うんです。

周りの人に助けられての介護でした

 20013年7月7日、父が75歳で、私が42歳のときのことです。

 休みの日、いつも2階で寝ている父が起きてこないので見に行ったら、声をかけても返事がない。私は、そのとき、救命救急の講習を受けたばかりだったので急ぎやってみたけれど、反応がない。それで、救急車で運ばれた急性期病院では、「もう、お父さんは家には帰れないかも」と医師から言われましたが、何とか父は意識を戻してくれて、回復期リハビリテーション病院に移りました。

 回復期リハビリテーション病院では、退院後は在宅で介護をすると決めた嫌な思いをしました。患者さんがお漏らしをしたとき、「残念なお知らせがあります、○○さん自爆!」と、介護職の人が日常的に言うのを聞いて、ちょっと漏らしただけで、「自爆!」とか心ないことを言われるのなら、自分で親の介護をする、と在宅介護を選んだのです。

 私は当時、自動車会社のつながりで、プロスポーツ選手のマネジメント会社に移っていました。文部科学省のスポーツ選手活用事業というのがあり、子どもたちが主体的にスポーツに親しむ意欲を喚起するための趣旨でやっていたんです。そのマネジメント会社では、在宅介護生活が始まると在宅勤務に変えていただき、社長、同僚から仕事と介護を両立できるよう助けてもらえて、仕事をやめずに父の介護ができました。

それをやれれば、お前の人生が変わるぞ

 在宅介護を始めて2か月目には、父は気管切開、たんの吸引。経管栄養で鼻から栄養も取っていました。父は要介護5で、すぐに家を30分も外出できなくなりました。秋田に住む叔父や叔母が定期的に上京して助けてくれました。かつての同級生たちも、心配して、僕の家で飲み会を開くなどして、気分転換をさせてくれました、周りの人に助けられての介護でした。訪問看護ステーションの方たちもすごくやさしくて、「私たちのいる時間は休みなさい」とか、「買い物があったら出かけていいから」とか、毎回言ってくれて。彼女たちが来てくれる、月曜と金曜日は楽しみでした。

 在宅介護の半年後に父はなくなりました。

 父の体調が悪いとき、訪問看護サービス時間外には、医療知識のない私が医療行為を行うことが不安で、精神的に参ることもありました。そのようなことを相談しても、「今の介護保険ではここまでしか看られないですから」みたいなことを言われると、重い障害がある父に生きていて欲しいと願うのは私のエゴなのかと思ったりまでしました。

 そんな体験をしたことで、介護する人をケアすることができたらな、と思うようになりました。

 父を亡くし、一人になってしまってからは、言葉の障害があった父が口にしたいろんな言葉が思い出されました。

 たとえば、リハビリ病院に入院中「お前、やれるのか」と父に何度も聞かれたんです。その言葉の本当の意味がわからなかったけれど、それは、「お前に俺の介護がやれるのか」ということで、それをやりきれば、お前の人生が変わるぞ、と教えてくれたのかなあとか。

僕の渡した名刺を胸に当て、とてもうれしいと言って、涙ぐんでくれました

 介護タクシーを始めるために、二種免許を取って、ヘルパー2級の資格もとって、書類を整えて申請して、半年くらいで認可されました。その間に、いろんなセミナーとか勉強会に行って、介護の体験者の話をたくさん聞きました。認知症のお母さんを抱えていて、何分かごとに会社から携帯で電話しているとか、大変な人がたくさんいると知りました。

 退路を断つために、思い切って車椅子用のリフトのついた福祉車両をいっきに購入しました。300万ほどの投資でした。それで、自分は、この地域で仕事をやろうと決めました。

 父の介護のとき、周りの人や、同級生たちに助けられたので、この地域で介護の仕事をすれば、地域への恩返しになるのではないかと思ったのです。

 起業したとき、「まごころケアタクシー」の名刺を持って、訪問看護ステーションに、父を担当していた看護師さんに挨拶に行きました。彼女が、「あなたのことを心配していたのよ、お父さんが亡くなってどうしているかと思って」と言って、私の渡した名刺を胸に当て、「とてもうれしい!」と言って、涙ぐんでくれました。そういう方たちが、口コミの広告塔になってくれて、「栄区に介護タクシーできたよ」と宣伝してくれたり、同級生のお父さんとかお母さん、施設関係で仕事をしている友人知人が、あちこちで紹介してくれたり、一緒に営業にも回ってくれました。

40代の独身男と、寝たきりの父親の二人暮らしにも転機はあったのです

 この仕事は楽しいです。

 この間、ご利用いただいたお客さんなんですが、介護をしている娘さんが、車の中で、「お母さんの帽子、買ってきたのはこの店よ」とか、90代のお母さんにいろいろ言っているのを聞いたりして、心から嬉しいなあと思いましたよ。親子が、一緒に出かけて同じものを見て楽しむって、ほんと大事ですよねえ。

 今、私は、昔の同級生たちと地域活性化を目的とした団体を作って、夜間の自主防犯パトロールを始めました。防犯だけでなく、認知症による徘徊等の早期発見になれたらと思っています。

 こういう日々を過ごせるのは、結局は、父の介護経験が私をそう思わせたわけで、あんなに反発していたけれど父の言葉が心に残っていて、その言葉を思い出せば出すほどに、この仕事は父に導かれたのだと思っています。父からの最高の財産をもらったなあと思っています。

 40代の独身男と、寝たきりの父親の二人暮らしの僕らを見て、近所の人たちは、あの親子はどうするんだろうと思っていたと思うんですよ。その私が、地域のためとか考えるようになったのですから、人生は分からないものです。

父親の使っていた車椅子も乗せた、真心ケア介護タクシー

【久田恵の眼】
 自らの介護体験がきっかけになり、介護の現場へと入ってくる方がたくさんいます。その方々は、感性豊かで、一生懸命に向き合った介護を通して多くのメッセージを受け取って、やり残した思いでこの道に進む方が少なくありません。
 また、身内の介護では、頑張れば張るほど、頑張れていない自分を責めてしまう、という堂々巡りに陥り、介護後遺症に苦しみ続けるという方もいます。介護の現場は、そういった方たちが、人生をポジティブに生き直す癒しの場であったりもします。
 ともあれ、介護体験者でなければ、気がつかない、感じ取れないような発想や、きめ細かい知恵が、現場にどんどん活かされることがとても大切なことに思われます。