メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


●インタビュー大募集
「このコーナーに出てみたい(自薦)、出してみたい(他薦)」と思われる方がいらっしゃったら、
kawase@chuohoki.co.jp
までご連絡ください。折り返し、連絡させていただきます。

花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第26回 就職氷河期世代が、巡り合った介護職で見つけた、20年後の幸せと自信

香月 浩さん(42歳)
特養ホーム 太陽の郷(九州 飯塚市)

取材:久田 恵

超のつく就職氷河期

 九州の筑豊地域、田川の小さな集落で生まれ育ちました。

 この場所がかつて日本の大産炭地だったとか、ものすごく華やかな時代があったとか、炭鉱閉山の頃に大争議があったとか、という実感はないですよ、今は、全然。

 親が公務員だったし、自分としては、ここの田舎っぽさというか、その田舎っぽさの中にある男っぽさというか、そういうところがいいのかなあ。

 ともかく地元が好きだったんです。

 だから、高校を出て九州電機短大に進学してからも北九州市にある学校まで、車で40分かけて実家から通っていました。

 専攻が情報処理学科だったのですけど、情報処理の仕事って難しくてね、とても2年間の短大の勉強だけではパソコンでもなんでも身につかないし・・・。ま、自分はあまり成績がいいタイプじゃなくて、遊んでばかりでしたから。

 それでも、卒業前、就活も頑張ったんですよ。就職しなくちゃならないので、いろいろ説明会に行ったりしてね。なかにはいいところに就職の決まった人もいるのですけど、なにせ、自分たちは戦後の第二次ベビーブーム世代。いわゆる「団塊ジュニア」で、もう超のつく就職氷河期でしたから、全然うまくいかなかったんです。

 どうしようか、と思っていたとき、たまたま高校時代にアルバイトしていた会社の社長さんが、「知り合いが特養ホームを立ち上げるから働かないか」と紹介してくれたのです。

じゃあ、誰がやるの?

 それで、22年前の4月、開設時から、この太陽の郷で自分は働き始めたのですが、大変でした。僕が未経験の20歳で、その下に同じく未経験の18歳の子がいて、あと、職員12~13人で回していたんです。

 開設当時の理事長は、もともと土木関係の仕事をしていた人で、すごく厳しかったです。

 身なりとか身だしなみとかに始まって、一般的な社会ルールというか、そういうことを守らないみたいなことには、特に厳しかったですね。

 仕事は、最初びっくりしましたよ。食事介助とか入浴介助とかは、どうということはなかったのですが、やはり排泄介助はねえ。20歳の自分には、びっくりでしたよ。でも、仕事ですから、それをやらないという選択肢はないわけですよ。嫌と言っても、「じゃあ、誰がやるの?」ということですから。いつの間にか馴れて、まったくふつうのことになってしまいましたが、仕事って、そういうものなのだと思いますね。すごいですよね。

 ともかく、就職して20年以上、ずっとここで働き続けています。

開設以来、ずっと、です

 2年前に、ついに田川からこの職場のある飯塚市内に引っ越してきましたが、その前は、地元の田川でお祭りとかあると、よく休みをもらって祭りに出たりしていました。

 地元好きの祭り好き、そういうことですね。

 結婚したのは自分が26歳のときで、実は、妻も開設当時から、一緒にここで働いていました。彼女のほうは子どもが生まれる27歳まで、ここで働いていました。

 子どもは、今、娘が中学生で、息子が2歳。可愛い盛りですね。

 ま、気がつけば、自分は二人の子持ちになっていて、妻も、娘が3歳になった後は、別の施設でまた、介護職として働きはじめ、共稼ぎで頑張ってきたわけです。ここの職場では、4組のカップルが誕生しているのですが、僕たちが、第1号のカップルなんですよ。

 彼女は、当たり前のように、自分の親とも同居してくれて、いろいろ大変こともあったと思うけれど、彼女が引いてくれてうまくやってくれたので、感謝しているんです。

辞めたいと思ったことは、何回かありました

 20年もこの仕事をしてきましたから、辞めたいと思ったことは、何回かありました。でも、いろいろあって、気持ちが「辞めたい」にまではいっても、その先にまではいかんかったなあ、と思います。どういうときに辞めたくなったかというと、なんだかわからないけど働き続けることに疲れて、何かが変わったらやれるかなあ、というか、そういう波もありましたね。それと、なんらかの仕事への行き詰まり、これ以上、自分は無理かなと。特に、自分の失敗で利用者さんに怪我させちゃったりみたいなことがあって、その後、どういうフォローしたらいいのかわからなくなって、すごくへたってしまって、というようなことで自信を失うことがあったんですよ。

 結局は、主任さんもいるし、理事長さんもいるし、施設長さんもいるし、周りのスタッフがいろいろ配慮してくれて、支えてくれているし、と思うことで続けられたのですけれど。以前、壁に職員の顔写真を張り出していて、そこに各自、思うことを書いていたのですが、自分は「七転び八起き」って書いたんですよ。

 そのときは、いろんなことがあっても、あきらめないで立ち上がって続けよう、ここのスタッフの一人でい続けようという覚悟を持って書いたつもりですね。今、主任になってからは、自分が周りを支える立場になったのだ、と思っています。

自分の20年を超す人生のドラマが、ここにある

 ここで長く続けてきて、自分が変わったのか、成長したのかはよくわかりませんが、さすがに最初のなんにもわからなかった頃から比べれば、専門の知識はすごく増えました。医療のこととか、リハビリのこととか、それから、周りを見る余裕ができたせいでしょうね、チームワークの大事さを思い知りました。協力し合わなければ、いい介護はできない、ということですね。

 そのためには、ここの施設の介護理念、介護方針を守って、それを、みんなで貫くことが必要ですね。主任として、そのことをしっかり自分がやっていかねばならないということも。

 ともかく、利用者の方は50人いたら50人違うので、一人ひとりの方のことをよく知り、それに合わせた対応をすることが大事で、それぞれがいろんな動き方をしますから、必ず見守るスタッフを配置し、すぐにフォローに入れるようにしておくということ。それから、離職対応としても、やはり、息抜きがないとこの仕事はやっていけないので、スタッフに休みはしっかり取らせるようにも考えないといけないと思っていますね。

 施設長は同世代ですし、いつもフォローしてくれたり、相談に乗ってくれますね。温かいです。どこの施設でもそうなのかどうか、他を知らないのでわからないのですが、利用者の方がおだやかでのんびりした感じあるということは、いいかなと思っています。

 ともかく、20歳だった自分の20年を超す人生のドラマが、ここにあるということです。

ケア・コンテストで優勝した香月さん


【久田恵の眼】
 若い頃は、かなりヤンチャだったように見受けられるお祭り好きの香月さん。福岡県の募集した「ふくおか介護フェスタ2013」のケア・コンテスト、筑豊地区で優勝を果たしました。「いやあ、介護福祉士の資格試験で、同じような実技試験を受けて、体験済みでしたからね、これってたいしたことないんですよ」と謙遜する。でも、さりげない口調と笑顔に介護の仕事の世界で培ってきた確かな自信を感じさせました。
 いろんなホームにうかがうようになると、そのホームが、どんなところか、利用者の皆さんの表情が物語っていることに気がつくようになります。そこに漂う空気感。ほっこりとして、のんびりとした日常感。誰もバタバタしていない。そういうホームは、利用されている方にも働いている方にも、居心地のよい場所なのだと思います。太陽の郷には、そんなほっこりな空気感が漂っていました。