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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

疑い続ける“つもり合意”


 人として生きる姿…  僕がこう表現するようになってからずいぶんと経つが、今ではよく目にするし耳にする。
 でも、そう言っている人たちが描く「人として」や「姿」について、じっくりたっぷり意見を交わし合ったことは、ほとんどないに等しいのではないか。
 この業界によくある、何となく「つもり合意」で「合っていると思い込んでいる」ということだが、これってかなり危うい。

 この「つもり合意」は他にもいっぱいある。
 「認知症とは、認知症ケアとは」「地域」「家族」「その人らしく」「連携」「包括」「周辺症状と呼ばれる行為・行動」「自立支援」「アセスメント」「リハビリ」「動くことが大事」などなど、書き出したらキリがない。

 和田さん的言い回しで言えば、世の中に発信している人には大きくは2タイプあって「学問から思考動している人」と「世の中から思考動している人」がいるのではないか。もちろんそれ以外にも、学問を積んでいるわけでもなく世の中を見据えているわけでもなく、単なるひとのふんどしで相撲を取っている人もいるだろうが…。

 先日亡くなられた俳優のお父さんは、自分がいきなり俳優になった経験から、息子には「一通り社会に出ていろんなことをしてから役者になれ」とアドバイスを贈ったそうだが、それとて同じで「世の中から思考動できる役者であれ」ということではないだろうか。

 僕は、ほとんど後者で、「人として」や「姿」についても、世の中のあり様を「ものさし」にして、「人として生きる姿を支援する」ことを追究し追求しているタイプだが、その思考の中で気をつけていることがいくつかある。
 そのひとつが「自分はオンリーワン」でしかなく「人の群れはオンリーワンの集まり」であり、「人は一人では生きず、他人と社会を構成し共通・共有・共感など“共に”で生きている」「人が自然界で生きていく上で自然を取り込んであみ出したこと=文化をもっている」と考えていることである。

 つまり、「人として生きる姿」に落とせば、ここで言う「人」は「人類に共通すること」であり「姿」は「社会を構成し文化をもってその中で生きる人の姿」ってことだ。

 平たく言えば、人は世界中どこに住んでいても、人として二足歩行を基本とし、人として群れによる社会を構成し、人として言葉を使ったコミュニケーションしているなど、「共通するものさし」があったとしても、社会のありようも言葉も、食うものも食い方も違うってことだ。

 僕は、要介護状態にある人を「世話する対象」「保護する者」とは思えていない。要介護状態だろうが認知症という状態だろうが地球上に住む人類の一員であり、日本国が定めた憲法に基づいて生きる「国民」の一員であり、「その人」であり、「地域の住民」だと考えている。
 だからこそ、人として生きる姿の基本を「自分でできることを自分でする・人と人が互いに関係を織りなして助け合って生きる・社会とつながって生きる」におき、それを自力で成せない状態を要介護状態と捉え、それを成せるように取り戻すようにする専門職が僕らだと言い続け、それを追求し実践してきた。

 端的な一例として排せつをあげると、「自分の排せつ」では「トイレで排せつをするときに他人がいてくれたほうがいい」という人がいたとしても不思議ではなく、それが「その人の排せつ行為」という趣味・嗜好の話。
 でも、少なくとも「日本人の排せつ」という視点から考察すると「排せつ時に他人が傍にいる」のは生まれてからしばらくの期間で、ある時期からは「ひとりぼっち」が基本(日本人に共通する一般的な姿)ということがわかる(日本国以外の地域は?)。
 それを「日本人の排せつの姿:日本人に共通するものさし」にして「介護」を考察すると、平気で他人の排せつ場面に立ち会い、「早くおしっこしてェ」なんて言っている「介護」の異常が浮き立つ。
 まずは「異常さが見えること・異常だと思えること」が大事なのだが、どうも「介護」に携わる人たちにありがちなのは、「安全確保」「不安解消」など、異常な行動をしているのではなく「本人のことを思って適切なこと・正当なことをやっている」「しょうがないじゃないか」と言い訳を先にしてしまうことだ。

 同じような理屈をもてば、薬で動きを止める、カギをかけて閉じ込める、カメラで監視する、人前でおむつを交換する、嫌がることなんてことも平気でできるのだろう。

 きっと「世話する対象や保護する者」という捉え方が「介護の異常」を見えにくくしているのだろうが、だったら要介護状態になったら「人じゃない、憲法は及ばない」くらいに言いきったほうがわかりやすし矛盾がないのに、そう言いながら、そうやりながら「人として」なんて語るからおかしくなるのだ。

 そんな実践をしている人同士が「人として」を語り合っても「つもり合意」があれば矛盾を生まない。だから修正されていかない。だから「人として」を語る人が増えても「人とは思えない姿のままに置かれている人」がまだまだたくさんいるということではないか。

 まずは身近な同僚たちと「つもり合意」になっていないか、ひとつひとつのことを確認し合ってみてはどうだろうか。

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 グループホームの入居者と一緒にパンを買いに出かけたときのことです。いくつかのパンを物色した婆さんですが、ふと「これでよかったのかな」と不安がよぎったようで、一緒に行った婆さんに聞きました。
 ところが聞かれた婆さんも憶えていないため、二人の間の確認行動は延々と続く羽目に。
 わかったつもりになってお互いを確認しない、相手の本意(意思や気持ち)を確認もしないで他人を責める僕らよりも、そのために何百万年もかけて言葉を発達させてきた人として、婆さんのほうがよっぽど真っ当ですよね。
 どっちの脳が壊れているのか???ですよね。