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和田行男の婆さんとともに

和田 行男 (和田 行男)

「大逆転の痴呆ケア」でお馴染みの和田行男(大起エンゼルヘルプ)がけあサポに登場!
全国の人々と接する中で感じたこと、和田さんならではの語り口でお伝えします。

プロフィール和田 行男 (わだ ゆきお)

高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。
特別養護老人ホームなどを経験したのち99年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は株式会社大起エンゼルヘルプ地域密着・地域包括事業部 入居・通所事業部部長。介護福祉士。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

としをとる


 年齢は重ねるものなのに、なぜ「とる」と言うのか。  気にしだしたら気になる程度のテーマだったのだが、もうすぐ60歳になろうかという御年になって見えてきたのは、残りの時間が減っていくことを「とる」と表現したのではないかということだ。

この国の男子の平均寿命は80歳、僕はあと20年。  時間の経過は「時間が減る=残りの時間をとる」ということ。

 若い頃は「残りの時間」の方が「使った時間」より多いと錯覚しているから「とる」という感覚に「?」だったが、これからは実感として「残り時間」は少なくなっていく。つまり「とられていく」のだ。

 でももっと突っ込んで考えると、僕の年齢までに命を終えている人もたくさんいる。しかも、本人の願いとは裏腹に。

 オヤジの家系でオヤジの人生42歳が最長と聞いていたので、僕も42歳までには終わると思っていたことを思えば、明らかに「憎まれっ子世にはばかる状態」で、特段ここまで生きることを願って、そのために努力してきたわけでもないのに生きているということをどう考えるか。

 そんな思考の結末は、つい「残り時間をどう使うか」と考えがちだった僕だが、それは正しくなくて、「どう使うか」ではなく「どう使えるか」であり、「使わせていただけるか」だということに気づいてきた。

 つまり、決して自分だけで生きることができているのではなく、自分だけで「今の自分の姿」に至れているのではなく、老いてゆくこの先はもっと「ひと様がいてくれるからこその人生となる」であろうことをあたまの真ん中に置いて「わが・まま」に生きていかねばと、ふと思ったのだ。

 生きている時間が増えれば増えるほどに、残り時間が少なくなるということが、それまでとは違う景色の中で過ごすことになるんだということを知って「としをとるのも悪くないな」と思え、年を重ねるほどに若い頃のようにはいかなくなっている自分にイラつくことが減り、「あるがまま」を受け入れられるようになってきた。  と偉そうに達観したような口をききたいところだが、電車に乗ったら切符をどこにやったかがわからなくなり改札口で二度料金を払う自分に嫌気がさし、メガネを置き忘れること何度目だろうか、あれがないこれがないと四六時中探し回る自分に、ただただ呆れ・怒り・イラつくこと毎日。

 他人に対しては寛容になってきた自分だと思えるが、自分に対しては「ぶん殴ってやろうか」と思うほど腹が立つことばかりの59歳児である。 まだまだこれが現実なのだ、ハハハ。

追伸

 先般のブログで「トークライブに参加希望の方はメールをください」と書きましたところ応募がありましたので、主催者に連絡を入れていただくようお伝えしておきました。お待ちください。

写真

 ♪街角にふと足をとめたりする~  というある歌の歌詞ではありませんが、若い頃と同じようにできると思い込んでいる僕の脳と現実の僕とのギャップを埋めてくれるのは「ふとしたコト」で、その瞬間を撮った一枚です。

 ガラ系の携帯電話にこだわってきましたが、買い替えるごとに機種が減り、僕にとって必要なカメラの性能が下がってきました。 だから撮るとイラつくので、電話を換えてから写真を撮ることがものすごい減りました(僕って短気なんです)。

 ちなみに携帯電話を換えたのは、携帯電話が「海水浴をしたため」なんですが…。

 僕にとっての携帯電話の価値は、電話やメールの機能よりもカメラのほうにウエートを置いていますので、いよいよ「こだわりを捨てるか・カメラを持ち歩くか」の選択をしなきゃならない時がきたって感じですが、自分がスマホを手に指で軽く「シュッシュッ」とやっているその自分の姿が許せないんですよね。