メニュー(閉じる)
閉じる

ここから本文です

宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

信用金庫と社会福祉法人

 文化の日の11月3日、朝日新聞朝刊に「原発事故と私たち」というオピニオン記事が掲載されました。ここで、城南信用金庫元理事長の吉原毅さんの「流されない個人、自ら行動を」と題するオピニオンに目が留まりました。

 城南信用金庫は「2011年4月1日、信用金庫として、脱原発宣言をしました」からはじまります。しばらく、同新聞に掲載されたオピニオン記事から引用させていただきます。

「被災地を支援するなかで、福島第一原発の事故の影響で、営業区域の半分が立ち入り禁止区域になり、店舗の半数を閉めざるを得なくなった信金があることを知りました。地域の人々の生活や企業の活動をそこまで変えてしまう原発のおそろしさに気づいたのです。」

「あれから6年半、福島の原発事故を機に、各国で自然エネルギーの技術革新と普及が進み、世界は大きく発展しています。一方、当事国の日本は乗り遅れている。電力会社、大株主、大手金融の3者の反対で原発をやめられない。衆院選でも大きな争点にならず、人々もそれを許していると思います。」

「原発事故とその後の社会状況には、日本が抱える問題が集約されています。前例にとらわれ方向転換できない『官僚主義』、地位とカネにしがみつく『サラリーマン化』。そして、生きる目的や正しさを見失い、誰もが損得だけで動いてしまうようになる『大衆社会化』です。日本人は人がよいが論理を軽視する。周囲に流されやすく、大衆社会化が進みやすい。その中で原発も忘れられていく。」

「一人ひとりが社会全体を引き受け、自分の頭で考え抜き、行動する。意見が違う人を排除せずに話し合い、共有できる理想を見つける。それこそが、周囲に流されないための防波堤になるのです。」

 信用金庫としての脱原発宣言を出した2011年4月1日当時の城南信用金庫理事長は、ほかならぬ吉原毅さんです。角川書店刊行の『原発ゼロで日本経済は再生する』(角川oneテーマ21、2014年)の著者でもあります。

 原発事故を引き起こす日本社会の抱える問題である、官僚主義・サラリーマン化・大衆社会化を解決するためには、「魔法のような解決策はないと思います」と吉原さんは断ったうえで、討議と民主主義と基盤とする「流されない個人、自ら行動を」と主張されるのです。私見によれば、吉原さんのオピニオンは、ユルゲン・ハバーマスの討議と人権に関する主張と重なっています。

 さて、すべての信用金庫の理事長が、脱原発に関する吉原さんの見解と同じだとは思いませんが、吉原さんのオピニオンは、信用金庫のレーゾン・デートルそのものに立脚したものであると思えてなりません。銀行は株式会社組織の営利法人であるのに対して、信用金庫は地域の協同組織としての金融機関という特質を持つからです。

 一般社団法人全国信用金庫協会のホームページに掲載されている信用金庫の説明は、次の通りです(http://www.shinkin.org/shinkin/difference/)。

「信用金庫は、地域の方々が利用者・会員となって互いに地域の繁栄を図る相互扶助を目的とした協同組織の金融機関で、主な取引先は中小企業や個人です。利益第一主義ではなく、会員すなわち地域社会の利益が優先されます。さらに、営業地域は一定の地域に限定されており、お預かりした資金はその地域の発展に生かされている点も銀行と大きく異なります。」

 「利益第一主義ではなく、会員すなわち地域社会の利益が優先される」とは、地域社会に基盤を置いた金融機関として、地域と共に生き、地域の持続可能性を拓く宿命を負う組織だということになるでしょう。このような組織の性格は、事業内容は異なるとはいえ、社会福祉法人と共有するものではないでしょうか。

 ところが、地域社会に基盤を置いた福祉(CBR=Community Based Rehabilitation)を一貫して追求している社会福祉法人は、少数派ではないかとの印象を私は払拭することができません。虐待の発生する法人・事業所を典型として、官僚主義・サラリーマン化・大衆社会化の巣窟と化しているところさえあるのではないかと懸念する機会が多くなりました。

 施設基盤型福祉(IBR=Institution Based Rehabilitation)からCBRへの転換が叫ばれて久しいと思います。ここで、「施設入所と地域生活」を対立的二項関係に置き、不毛極まりない論難を繰り返す輩がいる一方で、地域社会に基盤を置いた新しい施設のあり方を考え切れていない入所施設もあるのではありませんか。

 自分の施設・事業所の利用者のことしか考え切れていない施設(実は、自分のところの利用者のことだけさえ考え切れていない施設も多いのでは…)は、地域社会に基盤を置いた福祉事業を展開しているとはいえません。従来はそれぞれの施設・事業所が自己完結的に支援を実施するイメージでしたが、今日の支援は、特別の支援ニーズをもつすべての人がその人にふさわしい地域生活を実現するための支援を連携によって創造する時代になっています。

 したがって、従来の入所施設は入所者のことだけを考えていれば良かったのかも知れませんが、地域社会に基盤を置いた福祉の担い手としての施設の今日的なあり方は異なるのです。

 地域福祉のセンターとして、困難事例に関するコンサルテーションやケースカンファレンスを地域の様々な事業所の求めに応じて実施する、福祉・保健・医療・労働・教育の機関連携を紡ぐ結節点としての役割を果たすなど、共生社会の形成視点に立った福祉事業の展開が求められていると考えます。

 社会福祉法人とその施設・事業所は、「地域と共に歩む」ことの内実が今ほど問われている時代はないと思います。日本知的障害者福祉協会の雑誌『さぽーと』9月号(№728)に拙著「共に生きる地域生活の実現に資する施設入所支援の役割」が掲載されています。

 この論稿を前に、施設入所支援は障害者権利条約で否定されていないことだけに「安堵」するような受け止め方はもってのほかです。CBRの社会資源として生まれ変わるべきだというところに、この論稿の主旨が置かれています。

 「地域社会の利益を優先する」城南信用金庫のように、明確な形で「社会福祉法人として、脱原発宣言をしました」と言えるところは、はたしてどれほどあったのでしょうか。

深まる紅葉

 先日、日光に立ち寄った折に、深まる秋を実感しました。今年の紅葉は、例年より美しいと思います。