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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

慌ただしい新年度

 この4月3日、高知県四万十市にある社会福祉法人一条協会の虐待事案に関する第1回検証委員会が開催されました。大学は新年度を迎え、新入生・在学生のガイダンスが続く時節ですから、例年以上に、慌ただしい年度はじめとなりました。

新河岸川の桜堤

 この法人・事業所の虐待事案の特徴は、一年余りの間、通報が間断なく続き、複数の虐待が事実確認されているにも拘わらず、虐待がなかなか止まない点にあります。

 この虐事事案の発生要因とメカニズムを明らかにすることによって、虐待防止に必要十分な教訓と知見を得ることに検証委員会の目的があります。現在、倫理審査委員会の審査も介しながら、この検証活動で実施する調査やヒアリングなどの内容と手順を作成しているところです。

 山口県下関市の障害者支援施設で発生した虐待事案の中間報告書(山口県知的障害者福祉協会)では、虐待事案の発生した法人・事業所の職員が、検証委員会のヒアリングに対して「(マスコミ報道されたことなどに)被害者意識」を抱く一方で、虐待事案を克服する当事者意識や自覚は希薄であるとの指摘を行っています。

 虐待事案の発生したいくつかの法人・事業所の事例においても、虐待の事実に目を向けようとしない、虐待防止の責任についての自覚が欠如しているところは決して珍しくありません。

 なかには、見て見ぬふりをしてきた日常があって、虐待が通報から外部に明らかにされた時点から、事業所の職員が徒党を組んで虐待を正当化する「意志統一」まで行うところがあるのは事実です。この首謀者はもちろん施設長等の幹部職員ですが、「施設を守る」などという口実の下で、利用者の家族が加担するところさえありました。

 いったい何が、虐待の事実認識を阻むのか、虐待という人権侵害行為を克服するための道をふさいでいるのかを徹底して明らかにする必要性を感じます。

 人間は、一定の環境条件を構成するシステムの下で、権威ある人間の存在と指示によっては、いくらでも残虐になることができることをミルグラム実験は明らかにしました。この実験は、別名をアイヒマン実験と言い、おびただしい数のユダヤ人をガス室に送り込み続けたナチスの責任者であるアイヒマンの残虐さを明らかにすることが目的でした。

 アイヒマンは裁判の中で、大企業や官僚機構の凡百のサラリーマンのように「命令に従っただけだ」との主張を繰り返しました。私生活の面では、夫として結婚記念日に花束を妻に贈り、子どもたちに対しても子煩悩な普通の父親だったことが分かっています。

 どこにでもいるような「ただのサラリーマン」が、歴史的な残虐行為の責任者であったのはどうしてなのか? 『人間の条件』(ちくま学芸文庫)で有名なハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、「イスラエルのアイヒマン」というレポートの中で、アイヒマンの残虐な悪が、凡庸で陳腐なものであったことを指摘した事実は有名です。

 アイヒマンの主観は、「自分は組織の一員としての役割を、組織の命令に従って果たしただけだ」ということにあります。「やむを得ずにしただけの行為」が、客観的には、究極の人権侵害行為だったというギャップ。このような点に、虐待のパラドックスがあり得るのです。

 そうすると、家族内部で子ども虐待や養護者による虐待が、高齢者・障害者の福祉サービスに係る支援現場では施設従事者等による虐待が、それぞれおびただしい数で発生しているという事実は、わが国の暮らしを営む親密圏において、「凡庸で陳腐な悪」が日常化していることを示しているのかも知れない。

 少なくとも、障害者支援施設そのものが「虐待の温床」であるかのような明らかに間違った「陳腐な」理解に還元することなく、問題の本質に迫る責任を感じています。

 高齢者虐待の領域で、例えば『あれは自分ではなかったか-グループホーム虐待致死事件を考える』(下村美恵子・高口光子・三好春樹著、2005年、筒井書房)が示すところは、虐待の発生が、暮らしのユニットの規模の大小(大規模施設なのか、小規模施設なのか、ユニットケアなのか、グループホームなのか等)よりもむしろ、暮らしを彩る親密圏の質に問題の焦点があるということでしょう。

 だから、支援現場の職員の人間関係の良し悪しは、常に虐待の発生要因の一つとして浮上するのです。施設長や理事長の選出が民主的な手続きと合理性に裏打ちされているのか、人事考課や昇進人事は公開された基準に基づく公平さと公正さを担保しているのか、上司や職員間にハラスメントはないのか等の管理運営の問題は、虐待防止の観点から必ず問われなければならないのです。少なくとも、支援現場における絶対権力の存在は、間違いなく虐待の発生関連要因です。

 これからしばらくの間、相当の労力と時間をこの虐待事案の検証活動に費やすことになりそうです。いささか厳しい毎日となります。

 さて、桜の時節となりました。私の自宅近くにある川越の新河岸川も、桜が満開となりました。今年は、日本人だけでなく、ベトナムや中国の方もお花見にたくさんお越しです。満開の桜に包まれて笑顔になる人たちの姿に国境はありません。

人々を魅了し続ける桜

 在原業平の歌に、「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」とあり、桜さえなければ春は穏やかな気持ちで過ごせるのにと言っています。平安時代の貴族は、今でいうお花見に当たる「観桜会」をしていたというのですから、桜はやはり日本人の文化の奥深くに錨を降ろしているのでしょう。

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