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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

困った人

 障害のある人の支援者の中に、処遇困難事例のことを「困った人」と表現する人がいます。

 それぞれの人の立場によって、さまざまな「困った人」が登場します。仕事ができることを盾にハラスメントをする上司、誠意ある対応の限りを尽くしても折り合いをつける気の全くないクレーマー、景気が良くない、と社員の給料は上げないけれども会社の金で贅沢三昧を重ねる経営者、架空の領収書や屁理屈をこねて政務活動費や政治資金を私物化してやまない政治屋…。

 「困った人だ」と、眉をひそめて対応方策に心を砕き、額に汗して何とかしようとする人の側に、多くの場合、筋の通った義があるため、何とか切り抜けてほしいと励ましたい気持ちにかられることもしばしばです。

 しかし、一部の支援者が、サービスを活用する障害のある人を前にして「困った人だ」と言う場面に対して、最近とくに、強い苛立ちを覚えるようになりました。その理由は、簡単です。適切な支援ができていない支援者の側の問題を棚に上げたまま、障害のある人の側にある問題として「困った人」だと決めつけてしまうからです。

 この点は、7月4日のブログで指摘した「拘束の同意書をとる施設」や高知市立特別支援学校の体罰事案の世界に通じる問題ではないでしょうか。

 虐待事案または不適切な行為の発生した現場における事例検討の中で、拘束や体罰が「支援として必要」であることを客観的に示すアセスメントやこれまでの記録に出会ったことは一度たりともありません。当たり前のことですが。

 つまり、十分なアセスメントをしたことはなく(アセスメントシートの記載がないか不十分、最悪の場合、アセスメントをする必要さえ知らない支援現場まであるのが実態です)、障害特性に関する専門的知見もない。すると、それぞれの障害のある人に最適化した支援を組み立てる営みそのものが、追求しきれていないのです。

 特別支援学校の体罰事案は、次のようでした。掃除の時間になって、掃除をしようとしない児童生徒の背後から雑巾を手で押さえつけて机の拭き掃除をさせようとすると、子どもが嫌がって頭を左右に激しく振ったため、今度は先生が子ども頭を両側から手ではさんで動きを止めようとした際に、顔中ミミズ腫れの引っ掻き傷を作ったというものです。この時おそらく、先生は児童生徒に対して大声も張り上げていたでしょう。

 「困った人」はこの先生です。体罰をこうむった児童生徒は、掃除をすることそのものが分かっていないか、掃除の時間であることは分かっていても自分の行動としては理解していないか、先生の言語的指示が頭に入っていないか…。つまり、その時、本当に困っているのは児童生徒本人です。

 自分を取り巻く状況や先生の期待する行動が分からなくて困っているところに、「掃除の時間に掃除をするのは当たり前」「先生の言うことを聞くのが当たり前」などと、「言って聞かせる」か「体で覚えさせる」などという極端に貧しく誤った指導方針から、自らの意に反した体の動きを強制されて混乱したところに大声で怒鳴られでもしてパニックに陥り、その状態にさらに力で言うことを聞かせようとして体罰に行き着いているのです。

 福祉の支援現場においても、これに類する虐待または不適切な行為が後を絶ちません。その上、何か頑迷固陋な構造ともいうべき問題が虐待事案の発生する法人事業者にはあるように思えてなりません。

 まず、利用者主体の取り組みの発展を阻む支配構造があります。とりたてて専門性はないのだが、法人事業所内の権力闘争を勝ち抜いただけの「羊の皮をかぶった支配欲の塊」が長として全権を握っている場合や、「自分(たち)の施設」としての個人的または集団的私物化に傾斜した支配構造があるなどです。

 そして、数十年前に学校で学習した知見に少し毛の生えたような程度の知識水準のままの管理職や施設長を中心に、結局は、経験則とパターナリズムによる職員支配・利用者支配を貫いているのです。

 措置費制度から利用契約制への移行に伴う消費者主権主義的な範囲での権利さえ、実質化されているとはいえません。サービスを提供する側にある圧倒的な力の優位性を堅持しようとするのですから、措置費制度の時代と実態は何も変わらないのです。

 鳥取県立施設で20年間にも及ぶ拘束事案が明るみに出た後にも、全国の障害のある人のご家族から、「うちも同意書をとられて5年間は拘束されている。施設と話し合って意見を言うとするだけでいい顔をしないか、はぐらかされてしまう」というようなご意見が、山のように寄せられました。

 わが国が子どもの権利条約を批准したとき、大人の反応が鈍く、とくに学校の教師の受け止め方に多大な不十分さのあった問題が指摘されました(竹内常一『少年期不在』、青木書店。1998年)。竹内さんの指摘によると、わが国の教師に巣くう家父長制的な文化性が、教育をする側に軸足を据えたまま、子どもの権利から出発する教育への転換を阻んだ面があるということでした。

 これと同様に、障害福祉サービスの領域においても、障害者権利条約が締結されたことへの反応は鈍く、障害のある人の権利が議論の出発点に据え直すというよりも、支援する側のパターナリズムの枠組みを前提して「保護する」という発想があまりにも強固な文化性であるよいに思えます。

 障害者権利条約を取り上げても家父長制的な文化性を引きずっている場面にしばしば出くわします。社会権保障の課題は法人事業所を利することに直結する点を留意して行政に対して声を張り上げるが、市民権保障の課題で障害当事者とともに力を合わせて取り上げようとはしない点は、ここに起因する問題です。

 障害者権利条約をわが国が締結したときに、サービスを提供する事業者団体の中に、祝賀会を開催したところが果たしてあるのでしょうか。このような話を一つとして聞かない事実に、問題の本質が端的に表されていると考えます。

さて、わが家は今、ブラックベリーとゴーヤの最盛期。あまりの豊作に、スロージューサーを買い込んで、ブラックベリーは生ジュースとフルーツソースにしています。問題は、ゴーヤ。グリーンカーテンに鈴なりに生るのはいいが、とても食べきれない。

そこで、一計を案じて、ゴーヤのポタージュスープを作ってみました。これがなかなかです。クリーミーな風味に苦みがほどよく漂うスープでありながら、一口含んだ後にやや時間差を置いて、まことに爽やかな香りが喉の奥を満たしてくれます。苦みは想像していましたが、この爽やかな香りは、実に意外でした。グリーンカーテンのゴーヤの処理にお困りの向きには、おすすめです。作り方は、以下参照。

ゴーヤのポタージュスープの作り方

◇材料

ゴーヤ5本、牛乳1ℓ、無糖練乳1缶、生クリーム100㎖サイズ1箱、
コンソメスープの素、小麦粉
(お好みに応じてきのこ類を適宜、カロリー控えめの場合は生クリームを除く)

◇調理
  • (1)ゴーヤはスロージューサーでジュースにする
  • (2)(1)に無糖練乳と牛乳を入れ、かき混ぜながら中火で煮る
  • (3)温まったところに、コンソメの素(固形ブイヨンと混ぜてもよい、胡椒もお好みで)で味を調え、小麦粉を茶漉し等で振りながら混ぜ加え、お好みのとろみに仕上げて完成です。