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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

「自然愛誤」「人権擁誤」

 春を告げる鳥のツバメが渡ってきました。しかし、私の生活圏の範囲では、個体数が著しく減少しているように思えます。

何とか探し当てたツバメ

 さいたま市の荒川沿いにある秋ヶ瀬公園は、日本有数の野鳥の生息地です。秋ヶ瀬公園に接して建てられたさいたま市桜区役所の建物で、ハヤブサの仲間であるチョウゲンボウの営巣を確認したこともあります。ここで、毎年4月5~12日の間にツバメが渡来し、かつてはおびただしい数のツバメを確認することができました。

 「おっ、今年もやってきましたね」とツバメの渡りに気づいて2~3日の間に、個体数が増えます。空を見上げると、大勢のツバメたちがみんな無事に渡ってきたことをお祝いするダンスパーティーを開いているかのように飛び回っていました。それが、近年、探しまわらないと姿を見かけることができないまでに減っていました。

 それが今年は、ついに1羽のさえずりがようやく確認できるまでに減りました。三上修さんによると(三上修著『身近な鳥の生活図鑑』、174-189頁、ちくま新書、2015年)、ツバメの減少を裏づけるデータはないのだが、ツバメの巣が作れる場所が少なくなったことと、餌となる飛翔性の昆虫の減少から、ツバメもスズメと同様に減少しているのではないかとありました。

 私の勤め先である埼玉大学は、20年前ならキャンパスのいたるところにツバメの巣がありましたが、今や一つもありません。この間に大学の建物に耐震改修が入ったとはいえ、現在も奥行きのある軒下に巣材となる土は十分にあり、ツバメの営巣環境としては「超優良物件」の条件を備えています。

 それでも巣は一つもありません。そこで、一番大きな問題は、飛翔昆虫の減少ではないかと疑っていたところ、例えば、アキアカネ(いわゆる「赤トンボ」)は1990年の千分の一にまで減少し、壊滅的な打撃を受けているというデータのあることを知りました。ツバメが減少するのは、当たり前です。

 ナベヅルや白鳥に大型ワシタカ類を「保護する」取り組みは、これらの野鳥が減少した生態系の構造的問題を問うことなく、その野鳥種だけの保護を自然の生態系から切り離して実施してきただけです。スズメやツバメに、この手のまやかしの保護はまったく通用しないのです。

 ネイチャーフォトの写真家である宮崎学さんは、イノシシが増えた問題について次のように言います(雑誌『アサヒカメラ』2016年4月号、147-151頁-以下は要約です)。

 「山鯨」と言って、日本人の貴重な蛋白源であったイノシシが家畜のブタに代わり、漢方薬に使われた「宍の胆」が化学薬品になり、農業の大規模化による市場に出せない農作物の「餌づけ」状態が出来し、冬のスリップ防止剤として全国の道路にまかれる塩化カルシウムがイノシシの貴重な塩分補給のサプリメントとなって身体と繁殖力を強めている。

 「このような人間社会の変化を踏まえた野生動物の生活史」を見届けずに、「自然を愛でて賛美する」だけの現代人の自然の見方は「自然愛誤」である、と。

 かつて我が国のコメの輸入自由化が政策上の論点に浮上した時、作家の井上ひさしさんは、次のような主張を展開していましたね。日本の水田と米作りそのものが巨大な自然環境保護装置になっているのに、それが解体されると日本の自然そのものが蝕まれるだけでなく、それに対応する自然保護のために別途莫大な政策費用が必要となるために、おコメの値段が安くなることだけを取り出して議論すべき問題ではない、と(井上ひさし著『井上ひさしと考える日本の農業』、2013年、家の光協会)。

 ところが、この考え方に対する反論は、農作物の生産と消費に関する合理性と自然保護の問題をないまぜにして議論するのは筋違いであり、自然保護の課題はそれとして議論すべきだという主張が「自由化推進論者」から必ず出てくるのです。簡単に言えば、コメはコメ、自然保護は自然保護というそれぞれの枠組みに区別して議論するべきだという進め方です。

 銀行ATMが昼間の時間帯であれば、すべて無料だった時代がありました。バブルがはじけて銀行に国費が投入されるようになった時から、ATMの利用に「使用料」が徴収されるようになりました。この問題について、「お金持ちだけでなく、お年寄りや生活困窮者にも一律に有料化するのはおかしいのではないか」という疑問に対して、竹中平蔵氏は「それは社会保障政策の課題で、金融政策の問題とは分けて考えてください」とNHKの番組で語っていましたね。

 これらに共通することの運びは、ATMの有料化だけは実現するのだが、有料化によって生まれた「社会保障政策の課題」は見事に放置される点にあります。コメも大規模化して輸出作物として儲けを生むようになることだけは進んでいくのですが、自然保護の課題は放置されるかうんと後回しにされるのです。

 さまざまなつながりで生きて支え合うまとまりを断片化し、切断したところで、支配力を濫用して自らの利害と欲の実現を優先する。このような近代以降のあらゆる領域における理論と実務の様式が根本的に問われているのではないでしょうか。

 障害者の権利条約がつくりあげようとする人間と社会の姿も、問題を断片化することなく人権を行使し合う主体としてのつながりとまとまりにあると考えます。

 ところが、この間いつのまにか成立してしまった「成年後見制度利用促進法」は一体なにものなのでしょう。権利条約からまず求められる意思決定支援型の制度への転換を行うのではなく、当事者団体の反対を押し切って「Nothing About Us,Without Us」をも踏みにじっています。

 弁護士ら(弁護士、司法書士および社会福祉士等)の専門職後見の不正が史上最悪(http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2016041302000258.html)となっているので、家庭裁判所による監督が行き届くように人的体制を強化すると言いながら、何と新法の施行に伴う予算はわずか7000万円(弁護士の佐藤彰一さんの次を参照:http://bylines.news.yahoo.co.jp/satoshoichi/20160410-00056455/)。

 こちらは、成年後見ビジネスにあやかりたい人たちの「人権擁誤」ではないでしょうか。