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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

日常生活世界と「虐待」の連続性

日常生活世界と「虐待」の連続性

 3回にわたる福島県グループホーム世話人研修を終えました。少しホッとしています。さまざまな虐待防止研修の機会を通して、「虐待」という言葉とその無理解が、虐待防止の妨げになっていると感じることがあります。

 虐待とは「極端」に程度の重い暴力・抑圧であり、「ごく一部の特殊な人がする行為」という偏りのある理解が、自分たちの日常生活世界とのつながりで「虐待」という事象を捉えることなく、虐待防止の契機を日常から喪失している気がしてならないのです。

 これまでは子どものことを十分に慈しみ、「虐待」などとは無縁であった共働き家族の母親が、職場で理不尽な目にあい、姑から嫌がらせを受けて、こともあろうに夫は浮気をしたというような、幾重もの困難が重なったとき、思わず子どもに当たってしまうことは、普通に起こりうることです。

 このような過重なストレスが、一時的なものにとどまらず、数年も継続するような場合、当初は小さな暴力から始まった虐待が、重症化していくこともあり得ることです。一方で、ストレスが一過的であったために子どものへの暴力は一時的なもので終わり、親も十分に反省するゆとりがもてたケースもあるでしょう。

 このように軽症で済んだケースと重症化したケースとの不連続だけに眼をとめて、虐待に関する無理解を生む落とし穴があると思います。

「ちょっとしたことで子どもに当たってしまうことは誰にでもあるけれど、そこで歯止めがかからずに暴力を繰り返し、悪化させていくのは、虐待者に特異な問題があるからに違いない」として、自身の暴力は一時的な「行き過ぎ」であり、虐待とは異なるものとして正当化します。

 体罰については、「しつけ」や「指導」のために積極的に容認する考えから、「やむを得ない場合に限り体罰もあり」とする消極的容認まで、大きな開きがあります。しかし、「子どものためになる体罰なら意味がある」と容認する点では体罰を正当化する共通性があり、そこから「子どもためにならない暴力である虐待」とは異なるとの恣意的な線引きが行われます。

 子どもや障害のある人の指導または支援に、熱意あふれる親・教師・支援者であればあるほど、本人も周囲の人たちも、暴力や脅迫行為を「熱意のあまりに行き過ぎた行為」だと正当化し、「虐待とは違う」という線引きにつながっています。

 子ども・障害者に対する力の優位性をもつ親・教師・支援者による暴力や脅迫行為は、程度の軽い重いにかかわらず、すべて虐待です。つまり、「行き過ぎ」ることなく「程度をコントロール」できれば「虐待ではなく、しつけや指導としての意味をもつ」とする正当化は、実は、程度の重い虐待と同根であり、連続性を持っています。このことの理解がなかなか広がらない。

 何が、このような正当化の背景にあるのでしょうか。

 一つは、誤った経験主義です。ときとして、「成功体験」としての意味さえ持つ場合があるなど、多様で広範囲な内容を持ちます。「自分もここというときに叩かれたからこそ成長できた」、「ほかの親や支援者もこの程度のことはしている」、「ためしに痛い目に少し合わせてみたら、言うことをきくようになった」等々。

 これらの言い分のすべてに理論的な吟味をくぐった形跡はなく、「経験的に正当化されている」だけです。このような暴力や脅迫行為は、たとえ支援現場でルーティン化していたとしても、絶対に事例検討に出されることはありません。それは「行き過ぎ」た行為に過ぎないと片づけられてしまうからです。

 もう一つは、「少々荒っぽいことをするのはやむを得ない客観状況がある」とする正当化です。この点は、今のところ、行政は見て見ぬふりを貫いています。

 アクシデントが一つ加わると子育てや支援が破綻してしまうような、貧しい限りの子育て条件・支援条件の問題です。いうなら、シーボーム・ラウントリーの貧困研究におけるセコンダリ―・ポヴァティ・ラインの水準に、多くの家庭の子育てや障害のある人の支援現場が置かれているのではないでしょうか。

 ラウントリーは、健康をぎりぎり維持できる栄養を賄うことのできる生理的生存水準を現に割り込んでいる場合を、プライマリー・ポヴァティ・ラインから割り出しただけでなく、通常ならプライマリー・ポヴァティ・ラインを上回るが、たとえば家族員の誰かが疾病や傷病に見舞われてしまうようなアクシデントが一つ加わるとすぐさまそれを割り込んでしまう貧困状態をセコンダリー・ポヴァティ・ラインから明らかにしました(B.S.ラウントリー著(長沼弘毅訳)『貧乏研究』、千城、1975年)。

 通常の状態なら、子育てする条件がある、障害のある人を支援する条件があると言えるけれども、一つアクシデントが加わると不適切な行為が発生し、発生したアクシデントが短期的に解決しない場合、明白な虐待に発展し重症化してしまうという虐待発生のメカニズムが存在します。

 ここで、「人手の足りない時間帯だから」「辞めた職員の補充が半年以上されていないのだから」、現状の人的体制の下で「いささか荒っぽい場面があるのはやむを得ない」とする正当化が日常化します。「行き過ぎ」る行為のあることは当たり前とする状況が不断に産出されているのです。

 このような虐待発生のメカニズムがあるからこそ、虐待の発生する施設の施設長の中に、「行き過ぎた行為はあったが、虐待とは認定されなかった」という、バカ丸出しの、つける薬のない、支援者のクズのような言い訳をする輩があちこちで確認されるのです。

 また、現行のグループホームの入居者の中には、障害の状態像が重く複雑なために、とても素人の「世話人」の手におえない支援課題があるにも拘らず、制度上も雇う側も「普通のおばさん」で採用しているのだから、「適切に対応できずに、手が出てしまう場面があるのは仕方がない」とする正当化が存在しています。

 ところが、適切な子育てや支援が遂行されている通常の状態と、虐待の発生する状況を機械的に線引きすることによって、虐待発生の連続性を客観条件の面から明らかにしようとはしないのです。グループホームの場合、「手が出てしまう場面」ばかりではないから「手が出てしまう場面」だけへの処方箋を提出しようとはしますが、虐待発生の制度的条件については等閑に付します。

 すべての人が虐待とは無縁ではなく、虐待の芽となる日常的な行為をしているか、そうするような可能性を必ずもっています。私が子育てをする親であったライフステージのすべてにおいて、そうであったことを告白します。そして、このような状態にさまざまな条件や要因の付加や媒介が加わることによって、それらが虐待に発展するのです。

 完璧な親・支援者が、存在することはありません。万人が、常に割り切れない日常生活世界の中でよりよい関係性や支援をつくろうともがいているのであり、その営みを慈しみ合う関係に向けて支える主体的条件と客観的条件を分かちがたいものとして、社会制度的に条件整備しているかが問われなければならない。

 虐待防止法の名称は「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」となっています。養護者が十分な養護を行いえないような状況にあるからこそ虐待が発生するという理解に立って、「障害者の養護者に対する支援」が明記されています。この問題発生の構造は、支援現場における職員についてもまったく同じです。

いわき市の馬の温泉

 さて、福島県いわき市には、JRAの運営する「馬の温泉」があります。ケガをした競走馬がキズをいやすための施設だそうで、馬も温泉の気持ち良さを実感しているようでした。おせっかいな私見ですが、「馬の温泉」は工夫次第でもっといわき市の復興に資する社会資源(観光資源等)になるのではないかと感じます。

 ただし、競走馬が「馬の温泉」を利用できるかどうかは、馬主の懐具合、勝ち馬になることのできる今後の可能性などによって、その運命が分かれるそうです。現在の日本人の多くが、ケガをした競走馬と哀れな心境を共有できそうです。わが国は、もはや先進国ではありません。セコンダリー・ポヴァティ・ラインを課題としなければならない19世紀末の先進国と同等であるか、アジアの辺境国に過ぎないのではないでしょうか。