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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。
さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

人権問題は改善に向かうのか

 先週、第11回ぜんしれん(一般社団法人全国知的障害者施設家族会連合会)全国大会in神奈川が横浜で開催されました。ここで、藤井克徳さん(日本障害者協議会・代表)は、「知的障害のある人にとって安心できる生活とは~障害者権利条約をベースに新たな社会づくりを~」と題して記念講演されました。

藤井克徳さんの講演

 藤井さんは講演の中で、制度とサービスの様々な変化がここ数十年の間にあったものの、障害のある人の人権が守られていない現実は基本的にはほとんど変わっていないのではないかと指摘しました。

 藤井さんはかつて、東京都立小平養護学校にお勤めの後、あさやけ作業所の設立に尽力されて所長をされています。養護学校勤務の時代は、障害のある子どもたちの「就学猶予・免除」が教育行政の職権によって一方的に決定された時代です。講演の中で、藤井さんは当時を振り返って次のように語りました。

「毎年、新入生の子どもたちを迎えるために、どの子の入学を認めるか、認めないかの職員会議を学校で開き、最終的には『多数決で』決めていました。『すべての子どもたちに教育権があるのでしょ』と発言しても、制度の壁は厚く、すべての子どもたちを学校に迎え入れるだけの条件も貧しく、教室の広さや教員配置が全く手当されなかったのです」

「そこで、新入生の定員が15名のところを学校内でギリギリ頑張って25名を受け入れることにすると、図書室を教室として使えるようにするために、(肢体不自由の養護学校だったので)広い廊下に本棚を並べて図書室の替わりにしていました」

「美濃部都知事による全員入学が実現すると、養護学校を卒業する子どもたちの行き場が圧倒的に不足している事態に直面して、地域にあさやけ作業所をつくることになりましたし、養護学校の最寄り駅にエレベーター設置の運動にも取り組んだりしました」

 バリアフリーに関する条例や法律が全くなかった時代、肢体不自由養護学校の最寄駅でさえ、駅舎にエレベーターを設置するには社会運動が必要でした(詳細は、次をぜひお読みください。今でも新品で入手できます。「西武鉄道・小川駅の改善をすすめる会」編集委員会『ああエレベーター-障害児をもつ母親の駅舎改善運動奮戦記』、みくに書房、1986年)。

 そして、障害者権利条約に向けたさまざまな制度改善に取り組まれて、今年、ふじいかつのり著『えほん障害者権利条約』(汐文社、2015年)を出版されています。このような歩みをもつ藤井さんが、障害のある人の権利をめぐる状況は「就学猶予・免除」のあった当時と基本的には変わっていないと言います。

 障害のある人の権利としてのディーセント・ライフの実現に、最低限必要な制度とサービスがすでに整備されていると考える関係者は、ほとんどいないでしょう。藤井さんのこれまでの歩みにあったさまざまな人たち(学校の教員、介護・福祉の職員、自治体職員、地域の人たち等)の協力協働は、現在の方がむしろ拡散し低下している傾向さえあるでしょう。

 特別支援学校高等部や就労移行支援事業の取り組みは、学校卒業後に「就労自立する」ことを基本目標に据えることになりました。このような制度の基本的理念の中に、財政支出の縮減に資する福祉サービスの需要抑制の意図が組み込まれている一方で、支援の現場は「何人が一般就労したか」が「成果」として問われるようになりました。「救護法の施行を遅らせ、救護法施行後も救護費を抑制するために、生活困窮者を就労自立させるための授産施設を創設した」時代と、人権問題としては確かに何も変化していませんね。

 学校は、どのようなところに進学者・就職者を何人出したかが「成果」として問われるようになっただけでなく、いたるところの中学校・高等学校・大学の校舎には、「全国○○大会」に「出場」「優勝」「準優勝」、「○○研究コンテストで○○大臣賞」などという懸垂幕や横断幕がぶら下げられるようになりました。

 このような垂れ幕が増えたところで教育や支援の質が向上するわけではありません。学校に、「競争によるサバイバル」が宿命であるとの意識改革に向けた道具に過ぎません。「成果」「差別化」「特色」「自立心」などをキーワードとするビジネス・モデルが教育・福祉へ強迫的に浸透する下で、障害のある子どもと成年の人権問題がなかなか改善されない事態が深刻化しているのではないでしょうか。

 浅薄なビジネス・モデルを乗りこえ、すべての人たちが慈しみ合うことのできるディーセント・ライフを無差別平等に享受できる中に、それぞれの人たちの得手や風合いや特色が花開く―このような地域社会の実現に向けて、さまざまな立場の人たちが新しい型の協働でつながり合う営みに参画することが障害者権利条約の時代の家族や支援者のレーゾンデートルではないでしょうか。

 最後に、藤井克徳さんのエピソードをちょっとご紹介しましょう。藤井さんがあさやけ作業所の所長だった時代に、当時の共同作業所全国連絡会(現在のきょうされん)の事務局のお手伝いを私が少しした経緯があって、気さくでユーモアにあふれるお人柄を知る機会に恵まれました。

 当時の藤井さんは、見かけに寄らず相当の大食漢でした。ファミレスやイタ飯屋に入るとM~Lサイズのピザと共に必ず「ライス大盛」を注文します。「ピザをおかずにご飯を食べるのがいいんですよ」と美味しそうに食べていたかと思えば、大衆的な食堂に入った時など「カツ丼とカレーライス」を同時に食べていたこともありました。今でも、当時の健啖ぶりが維持されているのなら、東京パラリンピックに「フードファイター」系の新種目をつくって出場すると、金メダルを狙えるかもしれません(笑)。