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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

対談 藻谷浩介×内田樹

 雑誌『新潮45』8月号(60-73頁、新潮社)に掲載された藻谷浩介さん(もたに こうすけ。日本総合研究所主席研究員)と内田樹さん(うちだ たつる。「凱風館」館長、神戸女学院大学名誉教授)の対談「地に足のついた話をしよう」に目が留まりました。

 この雑誌を買い込んだ第一の目的は、一年ほど前に佐世保市で起きた「高1女子同級生殺人解剖事件」のノンフィクション記事を読みたかったからです。神戸「少年A」の連続児童殺傷事件と同様に、この事件の背後には、高1女子の子ども期に虐待があったのではないかと私は推察しているからです。

 これとは別に、冒頭に挙げた対談も、とても示唆的で考えさせられるものでした。ジャーマンウィングスのジェット機が副操縦士の自殺行為によってアルプス山中に激突し、どこかの国の国会が反知性主義で覆われ、新幹線では焼身自殺する高齢者まで出来するという、にわかには理解しがたい昨今の状況を解く手がかりになる内容だと受けとめました。

 冒頭で「社会的承認欲求だけが肥大化した時代。極端な欠落感と全能感が世を覆い、言葉からリアリティが失われるなか、どう生き抜くか-」とあり、対談のタイトルが「地に足のついた話をしよう」となっています。対談の柱にそって、私の関心から若干内容をかいつまんでみます(正確には、原文を購入してお読みください)。

 まず、〈メディア・ベースド・ソサエティ〉の問題です。メディアは現実を伝える媒体に過ぎないのに、それが逆転し、メディアに登場しないものは現実でないと思い始めているからこそ、社会的承認が欠如していると思っている人は何よりも「話題になること」を求めます。

 ここでは、「こういうわけで私はこのようなことをしでかしました」と分かりやすく説明するのでは意味がありません。むしろ、「謎の人物が、意味のわからない行動」をとることによって大きな話題となり、様々なメディアが競い合うように有識者を引っ張り出しては「彼はなぜこんなことをしたのか」と騒ぎ立てる対象となるのが、「現代人の社会的承認欲求の標準になっているような気がします」(内田)とあります。

 ドイツのジェット機の副操縦士や新幹線の焼身自殺者は、人目を避けて一人自殺するのではなく、大勢の人を巻き込み、耳目を引きつけて自殺するというのがこれに当たります。

 このようにして、他人に「謎」を投げて話題になる、内心を忖度される側に回る政治家の劇場型政治が〈『公』がどんどん弱くなる〉ところで深められます。

 根拠のないことを「断言」して人心をひきつける大阪の政治家や、公務員として憲法遵守義務を果たそうとしない政治家の実態を明らかにすることによって、「私益私権を拡大するために公を道具化」していると指摘します。それは「リバタリアンの人たちの発想」に近いといいます。

 〈アクセス数だけが評価基準に〉では、ネット上の評価が「アクセス数」を基準にするだけでなく、学術論文の価値さえ格付けされたジャーナルにどれだけ「被言及回数、被引用回数」があるかで決められることが取り上げられます。論文の価値の判断基準は、本来、多様であるものなのに、単一の評価基準で数値化されてしまう。

 つまり、アクセス数の多い人気のある私見が、有名な私見となり、公的な判断基準となるという点で、まさに「メディア・ベースド・ソサエティ」と同じ問題だと指摘します。

 私の個人的な見解ですが、理研の小保方事件も、注目度が高まり、人気のある有名な「学説」となると、公にも真実に接近しているかのように思い込んでしまう構造が関係者に形成されていたのかもしれません。

 〈攻撃性は耳目を集める〉では、欠落感を競い合う現象がネット上や他者に対する攻撃性として拡大していることを取り上げます。心に闇を抱えている人がネット上では強者であり、他人をあげつらい攻撃するという生産性ゼロの作業に時間が使えるのは欠落感がないと無理なことで、他人にも欠落感を強要して同じような欠落感がないと許さないというような雰囲気さえあると指摘します。

 〈極端な欠落感と全能感〉では、現実の複雑な構造を見極めようとするのではなく、全肯定か全否定かで割り切った議論をしたり、極端な欠落感と全能感の併存する事態が現れていると指摘します。

 「日本経済はもうダメではないかと恐怖しつつ、アベノミクスで日本再生は確実、と信じる」ことは、まさに極端な欠落感と全能感の併存する例と指摘します。藻谷さんが根拠となるデータを示した上で、アベノミクスは「残念ながら株が上がっても個人消費は増えない」という話をすると、「じゃあどうすればいいんだよ」と問われるそうです。

 これは、canとmustの区別がつかない議論であり、「例えば医者から末期がんを告げられて、このまま手術しても危ないし、放射線治療をしてみるけど効かないかもしれませんと言われて、じゃあどうしたらいいんだよと文句を言っているようなもの」(藻谷)だと指摘し、「つまり、あらゆることが自分の意思でどうにかできると思っている」全能感だといいます。人間や社会の実際は、「生もの」として複雑な仕組みだから、それを制御し最適解を求めて行動するということでやってきたにもかかわらず、「生ものを扱わなくなって」、「経済がマニュアルで動くみたいに」思いっていると指摘します。

 最後は〈リベラルアーツとメタ認識〉。内田さんが以前、京都大学で「人文科学に未来はあるか」という講演をしたとき、フロアから経済学部の学生が「文学部に存在理由があるんですか」という質問を受けたと言います。

 「たぶん経済学部では教師も学生も『文学部なんかに存在理由はない』というような暴言を日常的に言い交して」いることを反映した挑発だろうと考えて、内田さんは次のように応えたそうです。

「文学は虚構を扱っている。欲望や夢想や幻想を扱っている。でも、経済学が扱っているものだって全部幻想でしょう。貨幣も市場も欲望も株価も全部幻想でしょう。君たちは幻想を現実だと思っているけれど、僕たちは幻想を幻想だと知っている。正気の度合いは文学研究者の方が上だよって。」

 現在の人文社会科学系縮小を目指す国立大学改革の問題、虐待対応の割り切れない複雑系の営み、「生もの」としての人間と生活を見ずに「ケアがマニュアルで動くように」思っている有資格者の問題等、さまざまな現代の事象に通じた対談で、とても有益でした。みなさんにも「割り切らずに」読むことをおすすめしたい対談です。

四万十川源流域で獲れた鮎-絶品です!

 さて、先日、四万十川源流域の旧大正町で「ヒッカケ」という技法で獲られた「生もの」の鮎を頂戴しました。清流の鮎にストレスをかけず瞬間的に獲る技法ですから、この旨さは格別の天下一品です。

 獲れたては、刺身にして戴くそうです。私は塩焼きでいただきましたが、ほろ苦さの風味も、白身の旨味も、雑味や生臭さが全くなく、鮎ならではの実に繊細なお味でした。やっぱり、「生もの」のリアリティこそ一番でしょ!