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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、昭和女子大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

今はもう言葉は見つかりました。

 衝撃的な相模原市の事件から一週間ほど経ちました。犯人についていろいろ分かってきましたし、障害者福祉などの当事者や支援者の団体から続々と声明が出されてもいます。

 私はこの間、人の持つ「価値基準」について思いを巡らせました。事件が、人間存在の是非を問う価値基準と深く関わっていると思うからです。

 価値基準は、いわばモノサシのようなものですが、このモノサシには、少々厄介な性質があります。それは、一つのモノサシは一つのものしかはかれないという点と、私たちは、この性質を忘れ易いという点です。

 ですから、過度の一般化など、無自覚のうちに詭弁を弄しがちであるとも言えます。

 たとえば、「見るな」と書かれた標識があるとします。標識はそもそも、人が「見る」ためのものですが、そこに「見るな」と書かれているのですから、人は途方にくれます。これは、標識がその存在理由である「見る」ことを自らが否定しているからです。

 過度の一般化ではこの逆に、一つのものしかはかれないモノサシではかったことを根拠に、あれこれ結論づけてしまいます。

 看板に「このはしわたるべからず」とある橋の真ん中を堂々と歩き、問われて「この端渡るべからず」と切り返した、という一休さんのトンチのようなものです。

 看板に書かれた(モノサシではかった)ことを、自分に都合よく解釈して結論を出しているわけです。トンチなら笑って済ませますが、犯罪や虐待の言い訳となると深刻です。
 ところで、価値基準の異なる場合、ヘーゲルの弁証法のように正反合(ある判断(正)と、それと反対の判断(反)と、正反二つの判断を統合したより高い判断(合))といけばよいのですが、なかなかそうもいきません。

 ですから、よく双方相打つ葛藤が生じます。そして、相手をねじ伏せようと攻撃したり、兵糧攻めに(放任)したりしたうえで、優劣が決することになりますが、その後の両者の関係性は、いくつかのタイプに分かれます。

 まず、優位なほうが劣位なほうを支配や溺愛により一方的に干渉し、劣位なほうはそこに依存するか、優位なほうが劣位なほうを一方的に放任し、劣位なほうが孤独に陥ることになります。

 しかし、こうした関係性が即ち問題だというわけではありません。依存先を喪失したり、孤独さに耐え切れず不安定になったりしたとき、はじめて問題が顕在化してきます。

 ただ、弁証法的に止揚できないことは、問題発生のリスクではあるため、自分と異なる価値基準を持つ多様な人々と交流し、止揚のトレーニングを積むことは大いに有効だと思います。その価値基準が正しい正しくないかという問題の以前に、多様性を否定すると将来ろくなことにならない、とさえ言って良いくらいに、です。

 大いに、ディベート(明るい未来の扉を開くのは「ギャップ萌え」)やクロストレーニング(「事例検証という学習スタイル」)を積みたいものです。

「意外と似合うねぇ…」
「やった!ワードローブ倍増!!」