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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第20話 初めての断薬

シモーネと再会した日。
リオ・デ・ジャネイロのサンバスタジアム[1]、“サンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイ”をバックに

 数々の神秘体験を経て、悟りに近い境地にいると思っていた僕は、シェアハウスの同居人に医者を呼ばれ、精神病院に強制入院するはめになった。病院は数日で退院できたが、その代わりに与えられた最大の課題は薬を飲むことだった。[2]

 処方された薬は全身の力を奪い取り、思考までをも制限するものだった。思いついた考えが全くまとまらない。頭に浮かぶアイディアはそれについて考えようとしている間にどこかに消えてしまう。体を動かそうとしても全身におもりを巻き付けられているようで、機敏な動きなど到底無理である。歩くスピードも亀の歩みといったところだ。とにかく僕がしようとすることは全て鈍く、まるで目に見えない緊縛を受けているようだった。

 簡単な外出もままならない状況だったが、入院前からシモーネ[3]と再びファベーラにある彼女の家に遊びに行くという約束をしていた。重たい体を引きずりながらシモーネと約束した待ち合わせ場所に向かうが、街の中で僕一人だけが妙に不自然な歩き方になってしまっているように思えた。まるで老人のように、一歩、また一歩と足元を確かめながら目的地を目指した。普段ならちょっと確認すれば渡れる横断歩道も、車が来ないか十分に確認する必要があった。小気味よく闊歩する人々の中で自分だけが別の時空に存在しているような感覚になり、周囲との間に大きなギャップを感じていた。それでも何とかバスに乗り、シモーネとの待ち合わせ場所へとたどり着くことができた。

 シモーネはテキパキ動くタイプの女性で、再会の挨拶もそこそこに次に乗るバス停まで僕を案内してくれた。僕の動きが鈍いことにも触れず、彼女は近況を一方的に話し始めた。僕は鉄仮面のようにこわばった顔面を一生懸命動かし、精一杯の相槌、精一杯の微笑みを浮かべながら必死に彼女の会話についていった。30分程バスに揺られると目的のバス停に到着した。リオ・デ・ジャネイロで開催されるサンバカーニバルのスタジアム近くに辿り着いた時、彼女はデニムをまとった長い足を止め、オーバー気味なゼスチャアを交えながら僕に改まって問いかけた。

「テッペイ、一体あなたに何があったの?!歩くのは遅いし、表情も冴えない。何よりそのうつろな瞳はテッペイらしくないわ!何かあったのなら私に話してちょうだい!」

 彼女は今まで僕が近況を話さなかったことに苛立っていた。ブラジルでは再会までの間に何があったかを報告し合う習慣がある。相手に興味があろうがなかろうが、それが挨拶代りなのだ。“シモーネが一方的に話し続けるから話す間が無かった”と反論したかったが、ここで議論する体力は持ち合わせていなかった。一息ついて何があったかを順を追って話すことにした。

 ゆっくりと歩きながら彼女は親身に僕の話に耳を傾けてくれた。強制入院の経緯を一通り話し終えると、彼女は困惑の表情を浮かべ大きなため息をついた。そして体を正面に向けて僕に言った。

「テッペイ、私はあなたが薬を飲み始める前からあなたのことを知っているわ。あなたはしっかりしているし、快活で元気な人よ。どう見ても異常な人じゃない。今あなたがそうなってしまっているのは薬のせいよ。その薬は人から生きる活力を奪うのよ。」

 シモーネは少し遠くを見ながら一呼吸おいて話を続けた。

「私の親友もみんなにおかしいと言われて病院に連れていかれた。医者はその子に薬を処方し、その子は真面目にその薬を飲み続けたの。そうしたら彼女、だんだん元気がなくなって今のあなたみたいになってしまったわ。そして、どうしていいかわからなくなった彼女は自殺したの。」

 シモーネの表情からかなり近しい親友だったことが窺えた。

「だから、テッペイ、私はあなたにそんな薬飲んで欲しくないわ。あなたはフツーの人だし、そんな薬必要ない人よ。そして、私はまた友達を失ってしまう気がして怖いの。」

 彼女は強い口調で僕にそういうとしばらく黙り込んだ。僕に歩調を合わせながら、彼女は過去を思い出したのだろう、悲しい表情をしていた。僕は彼女の気持ちを嬉しく思っているのだが、薬のせいで熱い気持ちは込み上げてこなかった。心配してくれる気持ちに対して「ありがとう」と伝えるのが精いっぱいだった。

 それきり僕の症状について話はしなかった。彼女の家に数時間滞在し、彼女の家族とふれあった後にシェアハウスへと帰った。

 退院してから数日、シモーネとの再会によって嫌々飲んでいた薬をやめる決心がついた。やはり飲んではいけない薬なのだ。セイヨウイガクの使徒が僕の飛びぬけた特殊能力を封じ込めるために処方した薬なのだ。きっとこのままこの薬を飲み続ければ、僕はシモーネの友達のように自ら命を絶つだろう。これがセイヨウイガクのやり方なのだ。そうはさせてたまるか。

 僕はこの日を境に薬を飲むふりをして、トイレに入っては便器に薬を流した。この行為が誤ったものではない様に!……祈る気持ちで、薬が渦の中に流れていくのを見るたびに手を合わせた。

 しかし、この判断が後の留学生活を大きく狂わすことになってしまったのだった。

  • [1]^リオのカーニバルスタジアムには小学校が併設されており、カーニバルの時期以外は学生たちの運動場として利用されている。
  • [2]^第6~11話参照
  • [3]^第13話参照
toushitsu1113-1

【次の記事】

第21話 祈りの朝
toushitsu1211-1