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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第8話 強制入院前夜3―待合室

筆者が診察を受けた病院の待合室

 僕は精神病院の中に入るとその空気の違いを肌に感じた。見舞いに来ている人やブルーの衣服を身にまとった患者たちがいたが、その周りでは時間がゆっくり流れているようだった。何ものにも拘束されず、自分の時間流れの中で生きている人ばかりがいる。僕はそれを好ましく感じた。

 待合室に通されると白いポロシャツにジーンズ姿の黒人の青年を見つけた。彼はベンチに座りタバコを吸っていた。まるでスローモーションのようだ。煙がゆらゆらと風に流され彼の体に絡みつく。彼を包むゆったりとした時間の流れの中でその煙は戯れているかのようにゆっくりと行き先を変える。煙が意思を持って彼にまとわりつき異空間を形成していた。

(すごい・・・)

 窓から差し込む太陽光が白のポロシャツとタバコの煙を浮き上がらせ、その姿は神々しくさえ見えた。

 僕は、その姿に興味を持ち、近づきたい、その空気感を感じたいと、彼を邪魔しないように配慮をしつつ近づき彼の横に座った。軽く挨拶をしてみる。彼も僕に挨拶をする。その動作の速さはさっきまで見ていたものと同じだった。僕は興奮した。両者にとって一方的だったそれぞれの意識が、その挨拶を通して相互的なものへと変わった瞬間だった。

 僕は自分が日系人ではなく日本から来た日本人であることを彼に伝えたくて、ポケットから紙切れを取り出し鶴を折り始めた。指先まで神経を集中し、彼を包む空気感を乱さないように細心の注意を払いながら、僕は折り鶴を折る。幸い彼のタバコの煙が一本の柱となって僕たちが共有する空間を支えてくれていたので鶴を折ることに集中できた。[1]彼も折られていく小さな紙に意識を向けていてくれるので、僕たちを包んでいた繊細で穏やかで特別な空間は破綻することなく持続された。僕は鶴を折り上げ、そっと、彼の目の前に差し出した。彼は優しく手の平で受け取り、「美しい」と一言だけ発した。僕は「日本の文化はすごいだろ」と誇らしかったが、彼と多くを語ることを避けた。僕のつたないポルトガル語が余計な刺激を彼に与え、彼が発するナチュラルな波動と干渉してしまい、空間を壊してしまうのではないかと恐れたからだ。

 しばらくして彼は折り鶴とともに去った。僕は彼のエネルギーに日本という新しい色が加わってくれればと願った。

 しかし、すごいところに来た。こんな場所があることが僕には驚きであった。

 しばらくするとコロ付きの担架で黒人の若者が母親に付き添われて運ばれてきた。体が緊張により硬直して辛いのか、よだれを垂らしながらうめき声を上げていた。母親は困った顔をしていた。どうやら運んできた医師の帰りを待っているようだ。

 僕はその若者を見て思った。きっとこの若者は愛に裏切られてこういう風になってしまったのだろうと。

 全ての病気は憎しみや憎悪などが持つ負のエネルギーによって全ての病気は引き起こされると僕は考えていた。愛に満たされ愛に生きてきた僕なら目の前の彼の苦しみを解放してあげられるかもしれない。しかし、その方法がわからなかった。僕はおもむろにポケットをまさぐると、昼間に買ったグミの袋が入っていた。そこで閃いた僕はその母親に語りかけた。

「ここにグミがちょうど3つあります。偶然3つあるのです。この偶然に賭けてみましょう。1つはお母さん、もう1つは僕、そして最後の1つは彼に。そして、このグミに正のエネルギーを込めましょう。それは、僕の愛と、お母さんの愛です。愛のグミを3人で同時に食べるのです。同じタイミングで食べることで、3人が繋がり、正のエネルギーを3人で共有するのです。」

「ありがとう」

 彼女は僕から2つグミを受け取った。

 僕と彼女はグミを1つ口にいれ、残りの1つを彼女の息子の口へ運んだ。硬直している彼の口は最初グミを拒んでいたが、母親の叫びに近い命令により開かれた。

「食べなさい!噛んで!噛むのよ!」

 僕らは同じタイミングで偶然の3つのグミを同時に食べた。

 母親が苦しんでいる彼の頭を撫でると、今まで硬直していた彼の体の緊張がほぐれていき、うめき声も収まった。そこまで作用すると思っていなかったので驚いたが、僕は今まで自分が信じてきたものが間違っていなかったと確信した。

「ありがとう。あなたがこの瞬間にここに居てくれて助かったわ。日本人なの?」

「そうです。日本人です。」

「やっぱり。日本人にもわかる人がいると聞いてたけど、本当だったのね。」

 僕はその「わかる」いう言葉が具体的に何を指しての言葉なのかはあえて聞かなかったが、初めて会う彼女と同じ何かを共有しているということが嬉しかった。

 しばらくすると白人の医師が帰ってきた。

「あんなに苦しがっていたのに…。不思議だ。」

「ほんとにあんたにうちの息子任せて大丈夫なの?」

 彼女はそう医師に言いながら僕にウィンクした。

 僕は楽しんでいた。この病院で出会う人たちが、自分と近い世界に生きていることを目の当たりにし、今までブラジル留学中に体験したこと全てのことがここでは通用するという気分になっていた。僕は一人ではない、ここには仲間がいる。

 しばらくすると僕は名前を呼ばれた。医師との面談が始まるのだ。パーテーションで区切られた場所には医師と大学のカウンセラー、チアーゴが座っていた。

1.^当時、自分ではコントロールできない不思議なパワーを帯びた空間に包まれているような感覚になることが多々あった。その空間は非常に繊細で、気の流れのようなものに逆らった瞬間その空間が崩壊してしまうような感覚に陥るのである。この時はタバコの煙により、視覚的に気の流れを確認することができていたので鶴を折る動作に集中できた。