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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第43話 再出発

ルームメイトだったチアーゴの実家

 7年間住んだ京都には並々ならない思い入れがあった。親の赴任でサンパウロに住んでいた頃のエピソードがきっかけで、京都の大学を学びの場所として選択していた。

 ブラジルの大学にはさまざまな人が通っていた。高校卒業して進学する人はもちろんのこと、午前中働いて午後大学に来る人もいれば、会社をリタイヤしてから大学に通う人もいた。貧困層が国民の多くを占めるブラジルにおいて経済的な余裕が十二分になければ大学で学ぶことはできない。日本のように大卒が当たり前というわけではないのである。ブラジルでは大学に通う者はその時点でエリートとみなされる。それゆえ大学へ通っている者の知への探求心は非常に高かった。

 ある日クラスメイトに「第二次世界大戦が終わった後、日本の天皇はどうやって国民にその事実を伝え、どのように責任をとったんだ?」と質問されたが、僕はその質問に一切答えることができなかった。それ以前に質問の意味すら正しく理解できなかった。

 僕は日本人なのに、日本のことを知らない。そのブラジル人のクラスメイトの方がよっぽど日本に対して興味があり、日本を知ろうとしていた。それにひきかえ僕は自分の意見も述べることができなかった。痛切に自分の無知さを恥じた。「日本人として日本のことをもっと知らなければならない」と決意した瞬間だった。

 僕は東京に実家があり、親族も東京に暮らしている。もし、日本に帰国して、東京の大学に進学したら、卒業後は東京で働き、僕の人生は東京で完結してしまう。そんな気がしていた。東京以外の地で生活するチャンスは大学在学中の4年間しかない。そして、京都に住めば、僕が知らなかった“日本”について知ることができるかもしれない。少なくとも京都は東京よりもよっぽど日本らしいのではなないか。そう考えた僕は大学生活を送る地として“古都京都”を選択したのだった。

 しかし、入学してからの最初の3年間はあまり京都らしさを感じることができなかった。住んでいた場所は市内ではあったが、京都らしい町家建築や、昔から続く京都らしさと出会う機会がほとんどなかった。しかし、音楽を始め、色々な人と交流する機会をもつにつれ、京都という街や人がより身近に感じられるようになっていった。また、左京区に引っ越してからは他校の学生と交流する機会が増え、思想哲学などの見分も広がった。徐々にではあったが、僕の求めていた京都らしさを感じながら、未知だった知識や経験を吸収しながら生活できるようになっていた。京都に住んだ約7年間で、わずかではあるが“日本”というものを知れた気がした。

 かくして東京に戻った僕は、不安よりも自信に溢れていた。きっと何かと出会える。僕はさながら大航海時代の船乗りの気分だった。

 東京に帰ってから間もなくして、僕は実家近くで飲食のアルバイトを始めた。まったく勝手の知らない仕事よりも、ある程度経験のある飲食店で働く方が、かつ家から近い職場の方が、ストレスが少ないのではないか。そう考えてのことだった。

 仕事の内容は難しくはなかった。最初はホールスタッフとして採用されたが、すぐにキッチンスタッフになった。飲食店の勤務経験はあったが、キッチンは初めてだった。不安があったものの、さすが大手チェーン。マニュアルが徹底しており、誰でも同じように作業できるように工夫されていた。午後4時から0時までの勤務で、月20日程度働き、月収も自己最高を記録した。仕事に向かうまではだるさや無力感があるものの、働き始めるとスイッチが入るのか、そういったネガティブな気持ちを忘れることができた。働くことに対して不安や恐怖感を感じていた頃と比べると大きな進歩だった。

 少し前までは、薬の副作用により社会生活は営めないと思っていた。作業所で働き、わずかばかりの収入を得ながら、交友関係も遮断し、家族に支えられながら自立することなくひっそりと人生が終わっていく。そんな未来ばかりが頭に浮かんでいた。しかし、今は実家暮らしをしながらフリーターとして生活できている。元気だった頃のさまざまな夢が改めて心の中に蘇ってきていた。「まだ間に合う」「今からなら何でもできる」そんな楽観的な思考に満たされ、僕の未来は再び明るいものになっていた。

 東京に帰って2カ月程経った頃、付き合っていたCちゃんと別れた。原因は距離だった。京都を離れる際に遠距離恋愛を選択した僕らだったが、結果的にその距離が二人の関係を変形させた。離れていてもお互いを想い合う気持ちや、尊敬し合う姿勢に変わりはなかったが、会うことで気持ちを確認しあわないと、関係を前進させていくことが困難だった。二人の気持ちがまだ近かっただけに苦渋の決断だったが、だからこそ納得のいく別れだった。運命を約束した二人なら、きっと再び一緒になれる。こうして、僕らは恋人から再び親友へと関係を変えたのだった。

 苦しい時、楽しい時、嬉しい時、悲しい時。すべての瞬間を共有し、病気というネガティブな暗闇に光を与え続けてくれたCちゃん。僕にとりついていた病魔を取り払ってくれたことは間違いなかった。数えてみると、約4年間の付き合いだった。