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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第42話 7年間の京都生活にピリオドを

友人の誕生日パーティに呼ばれて

 何かに導かれたかのように始めたアルバイトだった。飲食業は個人的に思い入れのある業種だった。僕は幼い頃から父によく外食に連れていってもらっていた。父は「おいしいものを食べるために働く」と公言するほど、食にこだわりのある人だった。そんな父が外食に家族を連れだす一つの理由が、母を含めた家族での会話だった。家で母がご飯を用意すると、母は台所に立ったままで、なかなか家族揃って食卓を囲む時間がとれない。外食をすれば着席から退店まで落ち着いて家族で会話ができる。家族中心の人生を望む父からすれば、外食して家族団らんの時間をつくるというのが大きな目的であった。そんな父に連れられてさまざまなレストランの雰囲気や店員さんとのさりげない会話を楽しんでいたので、僕は飲食業に対してとてもよいイメージをもっていた。

 ブラジルに留学する前に、ブラジル好きの友人D君と未来を語る時にいつも出てきたのは「ブラジル料理店を一緒にやろう」という夢だった。D君は“バカ”が付くほどのブラジルサッカー好きだった。そんな彼と情報交換、社交の場としてのブラジル料理店を将来一緒にやり、日本在住のブラジルサッカー選手などが気軽に集い、日本人のファンと交流が行えるようなそんな場を東京で提供しよう。僕が店舗作りを担当し、D君にはイベント、企画を担当してもらう。ノウハウの“ノ”の字も知らない僕たちだったけど、目を輝かせながらそんな話ばかりしていた。

 僕がバイトとして働き始めたお店は、京都大学からほど近い場所にあった。店内の雰囲気はレトロ調で居心地がよく、新鮮な露地もの野菜を多く扱い、日替わりの京のおばんざいをメニューに取り揃えるこのお店には、学生や、近所の住人、海外からの観光客など、幅広いお客さんが訪れていた。店の奥には座敷があり、二階にも座敷があったが、満席になることも少なくなく、忙しいお店だった。

 厨房は料理人2人、ホールはオーナーの娘さんが中心となって回していた。バイトの多くが学生で、僕はその中では年長だった。年の差はあったが皆優しく、すぐに受け入れてくれた。オーナーの娘さんはじめ、厨房の料理人にも良くしてもらい、環境としては最高だった。従業員に対してのマニュアルがなく、忙しい時も多かったが、スタッフの仲間意識は強く、みんなで声を掛け合いながらうまく回していた。そして何より、閉店後に一つの机を囲んでみんなで食べるまかないが僕の楽しみだった。和気あいあいと談笑しながらの食事。まるでお店が一つの家族になっているかのような時間だった。

 0時過ぎに帰宅し眠たくなるまで夜更かしして、16時の仕事の時間の直前に起きて、急いで家を出てバイトをする。そんな生活が始まった。完全に夜型の、バイト中心の生活だったが、張り合いがあった。体力を使う仕事だったため、以前よりも眠りが深くなった。活動することで得られる賃金は僕に自信を与えていた。依然として親からの仕送りに支えられてはいたが、病気になってから後ろ向きになっていた僕の気持ちが前向きになっていった。お給料をもらえるということは、誰かの役に立てていることを一番わかりやすい形で実感できる。自分の病気のことばかり考えて内向的になっていたメンタルが、働くことによって徐々に外向きになっていった。何より働いている時間は病気のことを考えている暇などないので、僕にとって勤務時間は何事にも代えがたいセラピーとなっていた。

 週末はイーリャでの太鼓の練習のために空けていた。昼過ぎから始まるので、いつもより早起きするのが辛かったが、スタジオに入ればそこにはまた心地よい時間が用意されていた。気の置けない仲間と太鼓を叩き、時間をかけて談笑する。毎週末の練習もまたセラピーとして機能していた。

 グループの活動自体もかなり盛り上がってきていて、月1度以上の頻度でライブ活動をしていた。ブラジルの爆音サウンドを叩き鳴らす僕らの存在は、京都のアンダーグランド・ミュージックシーンではかなり知られた存在になっていた。イベント出演のほかにも、ブラジリアンナイトからの延長線でイーリャ主催のイベントも定期的に開催した。回を追う度にノウハウも得てきて、僕らのやれることも拡がっていった。手作りが基本だったが、僕が京都を離れるころにはかなり高品質のイベントを開催し、集客もできるようになっていた。

 1年ほどフリーターをしながら音楽活動を続けた僕は、7年間住んだ京都を離れる決心をしようとしていた。1年間心が解放されるような生活を送った僕には自信が生まれ、ある想いが芽生え始めていた。「ポルトガル語を活かした仕事がしたい」その想いはやはりブラジルと直結していた。

 しかし、京都や大阪ではきっとマーケットが小さすぎて、ポルトガル語を活かせる仕事が少ないだろう。せっかく実家が東京にあるのであれば、東京という巨大マーケットで自分の未来を模索する方がよいのではないか。何かあてがあるわけではなかった。だが、自分の未来を探す旅に漕ぎ出たい。そう思い立った僕は、言葉では表現しきれないほどの思い出が詰まった京都を離れ東京へと向かった。
 統合失調症の発症から4年が経とうとしていた。