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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第40話 京都での新生活

サンタカタリーナ州ガロパーバの海岸

 彼女ができ、日常に張り合いができてくると、悲しく辛い日だけでなく、調子よく過ごせる日も増えていった。大学院生という時間に余裕がある身分だったので、生活が時間に支配されることもなく、その日の気分と相談しながら活動内容を決めることができていたというのもありがたかった。

 Cちゃんとはほぼ毎日電話で会話をして、週に1度位のペースで会っていた。なんでも受け止めてくれる彼女の存在は僕にとってとても大きなものだった。誰といるよりも自分らしくなれたし、何よりも居心地がよかった。僕は調子の悪い時を知ってくれている彼女に完全に甘えていた。「変わらないでいい」という彼女の言葉が心の中でいつも温かかった。

 それに加えて、大学時代に始めたブラジルの太鼓のグループ「イーリャ・ダス・タルタルーガス」[1]での活動にも積極的に参加していた。ブラジルの文化的活動をひとまとめに味わえるイベントを京都市内ですることになり、仲間たちと「ブラジリアンナイト」というイベントを企画した。普段の練習のほか、会場選び、出演者のブッキング、物販の準備、フライヤー制作など、イベントを成功させるための準備全般に携わった。イベントをゼロからみんなで作り上げていく喜びを味わっていた。初回のブラジリアンナイトは大盛況のうちに幕を閉じた。

 その後も大学院に通いながら、イーリャの活動を積極的に行った。みんなで息を合わせて、心を合わせて太鼓を叩く。理屈ではなく、みんなの気持ちが曇りなくチューニングされた時に響き渡る鼓動が何よりも心地よく感じられるようになっていた。

 メンバーも仲が良く、練習時間が4時間あったとしたら、そのうちの2時間ほどを雑談に費やすようなグループだった。15人程のメンバーに派閥もなく、皆僕の病気に関しても理解があった。多くの仲間は「それ病気ちゃうやん」と、僕が薬を飲んでいることに否定的だった。僕自身も投薬に関して否定的だったが、その頃には薬を飲み続けなければならないという意識が芽生えていた。

 それは、Cちゃんが飲むように勧めてくれていることが大きかった。彼女から一か月分の薬が、一回分に一包化されて渡されていたのだ。その袋ひとつ一つに可愛いイラストや、メッセージを書いてあった。彼女は薬を飲めば僕が良くなると信じてくれていた。その想いは僕の心の奥底にしっかりと届いていた。

 大学院に入学して2年が経った。統合失調症を発症して約3年。僕は大学院修了の時期を迎えていた。修士論文も無事にまとめることができ、僕は同大学の博士課程に進学する予定でいた。指導教授から承諾も得ていたため、就職活動はしていなかった。ところが修了式を控えた3月になったとき、突然内定をもらっていた指導教授から「君の研究を見ることができない」と告げられた。進学の準備しかしていなかった僕は4月からニートになってしまう。それでも、大学でポルトガル語を教えるという夢を追いかけるため、博士課程浪人となった。

 ちょうど同じ頃、イーリャのメンバーKちゃんから京都の左京区でルームシェアをしないかという話を持ち掛けられた。僕とKちゃんを含めた3人で、町家造りの長屋を借りて共同生活するというものだった。僕はブラジルでもルームシェアをしていたし、家賃も今の下宿よりかなり抑えられるので、二つ返事でその話に乗った。二軒長屋のもう1軒には、イーリャの他のメンバーが住んでおり、イーリャのメンバー5人が集結する基地のような場所になった。

 京都での新しい生活が幕を開けたものの、僕は博士課程浪人。研究のテーマは決めていたが、実際にどう動いたらよいのかわかっていなかった。日本では研究の前例がないテーマだった。そこで、研究を見てもらえる教授を探すことから始めた。ポルトガル語学科のある大学の教授にアポイントを取っては、話を聞きに行った。しかし、多くの教授に「日本でポルトガル語の教授になる夢は諦めなさい」と諭された。ポルトガル語というマイナー言語の教授というポストは非常に競争率が高く、その夢を追い続けても生活していくことは難しいし、教授になれる保証はないということだった。

 その中で最も心に響いたのが、ある教授の「君の動機は不純である」という言葉だった。

「研究が好きで好きで、3度の飯より研究が好きという人間が、その功績を認められ教授になるというのが、研究機関である大学教授のあるべき姿であって、君のように教授になりたいから研究するという考え方は間違っている」

 その通りだった。僕は研究がしたいのではなく、大学でポルトガル語を教えたいというのが目標だった。何も反論できないまま僕は左京区の家へと向かっていた。夢を追いかけることを諦めざるを得ない状況に追い込まれ、僕の頭の中は真っ白だった。

 帰り道、家から自転車で5分ほどの場所にある居酒屋の前を通りかかったときであった。“アルバイト募集”の文字が目に飛び込んできた。普段なら通り過ぎるだろうその店に、その時はなぜか引き寄せられるように入ってしまった。