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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第39話 母の上洛

リオデジャネイロ植物園

 Cちゃんと付き合うようになって、僕は少しずつ前向きになってきてはいたものの、時折調子が悪くなることがあり、その際には実家から母が下宿先に泊まり込みに来て、面倒を見てもらうこともあった。

 僕の家族はもともと仲が良く、一般的な家庭よりプライバシーの敷居は低く、僕も幼い頃から学校での出来事をはじめ、友達とどこへ行った、何をしたなど、すべてを母に話していた。付き合う女性についても同様で、彼女ができるたびにその子を家に招待し、家族に紹介した。馴れ初めから、どういう交際をしているのかなど、なかなか普通の家庭では親が知りえない情報も、うちでは家族で共有するのだった。そんな距離感なので、母は、母親としての威厳を持ちながらも、友達のような人間関係を僕と築いていた。

 そんな母が、調子を崩したり薬の量が増えたりすると、東京から泊まり込みで“乗り込んで”きた。しかし、部屋の間取りは6畳半のワンルーム。決して広くない僕の部屋に一か月も二人きりで同居するとなると話は別だった。

 母は完璧主義者で、なんでもパーフェクトにこなすことを美学とするような人である。僕の下宿に来てしてくれることは、家事をはじめとする僕の身の回りの世話である。
 僕は僕で、下宿している部屋は自分の“城”のようなイメージを持っていた。自分が生活しやすいように色々なものがセッティングされていたり、配置されていたりする。決して整理整頓されているとはいえない部屋でも、何がどこにあるということは自分で把握している。いわば自分の生活スタイルを周りに散りばめたような生活空間なのである。そして僕のような“配置に意味を感じてしまうタイプの人間”[1]にはなおさらその気持ちが強かった。

 6畳半の部屋は座っていても大抵のものに手が届くという広さだ。しかし、体調がすぐれず自堕落に陥っている時は部屋の整理もままならず、雑然となっていたことも多かった。それでも、居心地が悪くならないよう、最低限同じものは同じ場所にまとめる程度のことはしていた。

 母が到着して次の日、僕がなんとか大学の研究室へ行き、家に帰ってみると部屋が整理整頓されていた。「今日はいっぱいお仕事できたわ。あなたの家の近くにはスーパーがあって便利ね」などと言いながら、母は夜ご飯の支度をしていた。

 僕の部屋はきちんと整理されてはいたが、自分にとって心地よかった雑然さがなく、人の部屋にお邪魔しているような馴染みのない空間になっていた。確かにきれいさっぱりしているが、自分の城を人の手で片付けられると、こんなにも居心地が変わってしまうものなのか。だが、母の気持ちもわかる。「ありがとう」と感謝を言い、僕は母との共同生活を続けた。

 体調が著しく悪い時は、朝目覚めてもベッドから起き上がれないこともあった。目を覚ましても、目を開けるのが精一杯だった。母は起きた瞬間に「起きたの?おはよう」と声を掛けてくる。すでに母は朝の一仕事終えて、テレビを見ながらお茶を飲んでいる。僕が何かを言う間もなく、「お茶飲む?」と聞いてきた時には、すでにお茶を入れる準備をしている。「お茶が入ったわよ」と言われても僕はベッドから起き上がることができない。「昨日洗濯したからタオル乾いているわよ。畳んで置いてあるから、顔洗ったらそれ使いなさいね」と、ベッドで寝ている僕に告げる。鼻をすすれば、ティッシュの箱が差し出される。僕の行動を先回りして動く母。僕にとってはティッシュの箱を手元に持ってくるのも一仕事なのだ。それを何とかして自分のもとへ持ってくることができた時の達成感。そういう小さな喜びを支えに日々日常を過ごしていた。

 先回りして世話をする母に対して、僕はやりすぎだと感じていた。なんでもかんでも世話をされると、せっかく自分でやる気になったことも自分でできず、“世話されなければ生きていけない”という病気に対しての敗北感を強く感じてしまう。

 薬の副作用によって体調が悪くなってからは、当たり前のことができなくなっている自分に対して、工夫をしながら生活していた。「目覚めてから1時間で布団から出られた」、「トイレに行きたいと思った瞬間にトイレに行けた」、「シャワー浴びに浴室まで行けた」、「時間は遅くなったけど、研究室まで行けた」。そういう時に「自分偉い!」、「やればできるじゃん!」と、自分を褒めることにしていた。そうでもしないと自分を保てないほど、僕は精神的に落ち込んでいた。

 しかし、母が一緒にいることによって、自分を褒めることもできなくなっていた。自分がチャレンジしようとすることをすべて先回りされてしまうのだ。しかし、母は母で僕のためにやってくれている。厚意であることが余計辛かった。やめてくれとも言えなければ、不快感を表わすこともできない。母の僕を想う気持ちに逆らいたくはなかったのだ。

 母との生活はジレンマとの戦いによるストレスのかかる苦痛の日々だった。もしかしたら幼い頃からの過保護がストレスの蓄積となり、自分の病気の原因になったのではないか。自分の意思を通すことを許されず、意思決定を母に先回りされたり、コントロールされ続けてきたことがこの病気の発症と関係があるのではないか。

“病気の根源は母にある”

 そう思い込むことで、この理不尽な病気から逃れようとしていたのかもしれない。だが、母が下宿に来るたびにそう思わずにはいられなかった。