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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第35話 事件当日(3)

リオの観光名所、ポン・ジ・アスーカルのふもと

 僕を乗せたパトカーはサイレンを鳴らしながら快晴の京都市内を疾走した。正直そこまで急ぐ必要があるのか疑問に思ったが、僕の気持ちとは反比例する勢いで、両車線の車に注意を促しながら、次々と赤信号の交差点に突っ込んでいく。パトカーの中は想像以上にサイレンの音が鳴り響いていて、大きな声で話をしないと会話ができないほどだった。例の警官が話しかけてきた。

「こんな朝っぱらから何してたんや」

 その口調は“警官”というよりも、“お巡りさん”という方が相応しい優しい口調だった。

「だから、家に入れなかったんですよ」

 お巡りさんは笑顔を浮かべながら「そうかそうか」と適当な返事をしてまた前を向いた。僕はこの瞬間にも、あの時家宅捜索さえしてくれていれば、こんなことにならなかったと思っていた。

 女子高を出発して10分足らずで警察署に到着した。警察署へ入ると、僕は付き添いの警官と署内のロビーで待たされた。しばらくして、お巡りさんの案内で2階へと上がり、奥にある灰色の鉄製の扉の前に立たされた。上着や所持品は没収され、ジーパンにロングTシャツという姿になった僕は、ベルトを取るように指示された後、扉の中に入れられた。そこはいわゆる“トラ箱”と呼ばれる保護室だった。

 トラ箱はビニール製の畳が敷き詰められた窓のない10畳ほどの殺風景な部屋だった。入って左手の壁は全面強化ガラスになっていて、それ以外の壁はクッションが施された壁になっていた。入口の右手にはガラス張りの和式トイレがあった。

 壁一面に貼られた強化ガラスの向こう側は、こちらの様子を観察できるよう小部屋になっていた。ガラスの下面には高さ20センチほどの鉄の格子がはまっていて、その一か所に飲み物など小さいものを出し入れできるだけの大きさの開閉式の扉が付いていた。

 特に説明もなく部屋に入れられ、僕はガラス越しに警官に観察されながら時間を過ごすことになった。その光景はさながら動物園で珍獣でも観察するような構図になっていた。

 外部から隔絶されたこの空間にいると、時間の経過がまったく感じられなかった。ガラスの向こう側には、僕のことを観察する一人の警官が折り畳みの椅子に座っていた。話しかけてもまったく返答してくれず、奇声を発しても何の騒ぎにもならない。ガラスを叩いてみても、その警官は微動だにしなかった。

 警官の気を引くようなことを色々してみても何も起こらない状況に、僕には一つの妄想が芽生えていた。

 もしかすると、僕は一生この檻の中でこうして観察されながら過ごすことになってしまったのではないか――まさに未開の地で捕獲された珍獣のように、ここで“奇人”として飼育され続けるのではないかと思いはじめた。

 外界との接触もなく、この先どうなるのか情報も与えられないなかで、僕は妄想による不安に強く駆られ、目の前の警官に叫び声を浴びせた。しかし、相変わらずリアクションはなかった。

 とにかく、ここから出るためには、目の前の警官とどうにかしてコミュニケーションを取らなければならない。不安が増すにつれ、僕のテンションは上がり、叫び狂う興奮状態となっていったが、目の前の警官に届くことはなく、虚しく強化ガラスの壁に吸収されていった。

 どうにかして警官を振り向かせたい一心で全裸になってみる。いわゆる裸踊りをしてみるが、それでも反応はない。やれることをすべてやってみようと思った僕は、自分の脱いだパンツを頭にかぶり、自己流の奇妙な踊りをしてみた。しかし、その警官はにこりともしなかった。まるで無機質なロボットのように僕のことを監視し続けた。

 体を張ってもこの状況を打破するきっかけにすらならない。僕は心の底から恐怖を感じていた。それでも、一度呼吸を整え、服装を正して、心を落ち着かせた。そして、両腕を勢いよく振り上げながら、あらん限りの声量で叫んだ。

「天皇陛下万歳!!!!!」
「天皇陛下万歳!!!!!」

 その時頭をよぎっていたのは「恩赦」であった。もし僕が何かの法を犯してトラ箱にいるのであるとすれば、恩赦が出ればこの状況から解放されるかもしれない。この国に忠誠を尽くす一国民であることをアピールすれば、せめてこの部屋から出してもらえるのではないか。僕は渾身の想いを込めて両手を振り上げ続けた。それでも、状況は何一つ変わらなかった。

 一体どれほどの時間が経ったのだろうか。僕は相変わらず一心不乱にアピールを続けていた。その頃には僕の精神状態は不安定や興奮を通り越し、半狂乱となっていた。

 その時、小部屋の奥の扉が開き、警官に付き添われた僕の両親と眼鏡をかけた中年の男性が保護室に入ってきた。僕は完全に錯乱状態にあり、なぜここに両親がいるのかよく理解できなかった。

 母は落ち着いた様子で、小さなコップに入った液体を僕に飲ませた[1]。僕はそれが何かもわからず飲み込む。ほどなくして僕の頭は冷静になり、落ち着いて話ができる状態になった。眼鏡の男は僕にいくつかの質問をする。僕の目をのぞき込んで状態を確認する[2]。やり取りが続くなか、薬の作用で僕の意識は次第に朦朧としていき、次に気が付いた時には、僕は東京の実家の部屋で寝ていたのだった。

  • [1]^母親が僕に飲ませた薬は、ブラジルの精神病院で処方された液薬だった。
  • [2]^この男性は精神保健福祉士で、もし僕が暴れ続けるようだったら精神病院に緊急入院になっていた。