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トウシツの歩き方――国境を越えて、統合失調症を越えて

フラーノ・哲平(ペンネーム)

ブラジル留学中に統合失調症を発症した著者が、2016年にはリオ五輪を控えているブラジルの文化を交え、悪戦苦闘しながらも症状を乗り越えていく軌跡を綴ります。(隔週木曜連載)

プロフィールフラーノ・哲平

1981年ポルトガル生まれ。東京・ブラジル育ちの日本人。ブラジル留学中に統合失調症を発症し、現在投薬10年目。日本に帰国後、症状に悩まされながらもなんとか大学院を修了。得意なポルトガル語を駆使したアルバイトを続けながら、いわゆる「フツー」に生活できるまでに寛解した。2012年10月にとある企業に就職し、仕事の合間にこよなく愛するブラジル音楽を演奏する日々を送っている。体育会系太鼓チーム『Baqueba(バッキバ!)』所属。

バッキバHP:http://baqueba.blogspot.jp/

第25話 帰国

カポエイラで行ったブラジル南部、
サンタカタリーナ州ガロパーバという街の宿にて

 日本に帰国したのは12月の末だった。ブラジルが真夏本番ではなかったとはいえ気温差は激しく、全身の毛穴が開き切った状態で過ごすには厳しい寒さだった。

 自宅に戻り荷ほどきもそこそこに、帰国した次の日には大学のある京都へと向かった。もちろん母も一緒である。大学は冬休みに入る前日だった。大学に到着した時間が15時を過ぎていたこともあり、学生の数はまばらだった。僕はブラジルを発つ前の2か月間、規則正しい服薬を続けていたため、相変わらず頭はボーっとし、身体の動きも鈍く、人とのコミュニケーションもうまく取れなくなっていた。母の付き添いが無ければ自分は何もできないと思っていた。

 こんな状態で大学の友人たちとは再会したくはない。しかしその想いとは裏腹に、大学には複数の友人がたむろしていた。その集団の中に入り、話がしたいという衝動もあったが、それができる自信はなかった。教務部に行くのが本来の目的であったので、母に「教務部に先に行こう」と促し、友人たちを避けるように教務部へと向かった。ブラジルからやり取りしていた職員と挨拶を交し、課題の件や、留学中の単位を認めるかどうかなどの学校側の見解の説明を受けた。

 僕は「派遣留学」という制度を使ってブラジルへと渡っていた。この制度は留学中の単位を日本の大学の単位として認め、帰国後落第せずに進級できるという留学制度だ。ブラジル留学中の単位が認められなければ落第の可能性もあった。しかし、教務部も留学先から課題の件を聞いていたので、その課題が送られてくるのを待とうという話に落ち着いた。教務部の職員からも「大丈夫か?ゆっくり休むんやで」と、優しい声を掛けられたが、感情がうまく表現できない僕は「はい、ありがとうございます」と無表情で応じることしかできなかった。それでも精一杯の感謝の表現だった。

 事務的な用事が済んだあと、友人たちがたむろしている校内のカフェへ行こうということになった。挨拶くらいしておきたいという気持ちが勝ったのだった。カフェへ行くと、皆驚いた表情を見せた。それもそのはず、他の学生はまだ留学中なのにもかかわらず、僕だけ2か月も前倒しで帰国したからだ。それでも、皆温かく迎え入れてくれた。その中の数名は僕の母と面識もあり、母が対応してくれた。留学前と全くテンションの違う僕に気づいているのだろうか。母が話題の的になっていることをいいことに、僕はあまり発言することもなくその場をやり過ごしていた。ブラジルにいた頃は、輪の中で沈黙していてもそれが僕のパーソナリティだと判断されれば、無理に話に巻き込まれることはなく、黙っていても自然だった。しかし、快活であった以前の僕を知っている友人の中で、黙っていることはかなりの苦痛だった。僕は母に「帰ろう」と耳打ちをしてその場を去ることにした。翌日からの冬休みに向けてテンションを上げている皆の話についていくことができなかった。話に加わるどころか、話していることがうまく理解できなかった。その場から逃げ出したい気持ちで一杯だった。皆の注目の中で発言しなければならない恐怖に押しつぶされたのだった。

 次に大学に行くのは3月だった。同時期にブラジルに留学した学生に対する試験が予定されていた。それまで僕は自宅で静養することが許された。僕は母に完璧に管理され、服薬させられながらも、セイヨウイガクが僕に下した診断に納得がいっていなかった。僕は自分が何を考え、何をしたかをはっきりと覚えているし、それらは自分の意思でやったことだった。この休みの間に、ちゃんとした診断を下してくれる医師のところへ行き、僕は病気ではないということを証明する必要があると強く思った。

 しかし、それが人生最悪の事態を招いてしまうとは予想していなかった。