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ルポ・いのちの糧となる「食事」

下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

食べること、好きですか? 食いしん坊な私は、食べることが辛く、苦しい場合があるなんて考えたことがありませんでした。けれどそれは自分や身近な人が病気になったり、老い衰えたりしたとき、誰にも、ふいに起こり得ることでした。そこで「介護食」と「終末期の食事」にまつわる取り組みをルポすることにしました。

プロフィール下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

出版社勤務を経て、1994年より公衆衛生並びに健康・美容分野の書籍、雑誌の企画編集を行うチームSAMOA主宰。構成した近著は「疲れない身体の作り方」(小笠原清基著)、「精神科医が教える『うつ』を自分で治す本」(宮島賢也著)、ほか。書籍外では、企業広報誌、ウェブサイト等に健康情報連載。

第131回 認知症当事者に学び、 患者家族時代を振り返る

はじめに

 先日、若年性認知症当事者の方の講演を聞きました。専門職の方も多く参加しておられたようですから、けあサポ読者の方々の中にも、認知症当事者の方のお話を聞く機会に、積極的に参加しておられる方はきっと多いでしょう。
 体験に基づく、貴重なお話を聞きながら、一般的にまだ誤解や疑問が多いとされる若年性認知症について、自分自身も理解不足だったことに気づかされました。そして、すこし勉強して分かっているつもりでも、当事者の方の生活上の困難を思いやる気持ちに欠けていたと感じました。
 改めて、当事者の声を聞くことの大切さを確かめながら、ふと認知症の場合と同様に、「食べられない」状態にある人の場合も同じではないかと思い、同時に、家族でありながら無理解だった自分を振り返りました。

病名・症状名がついた途端
“できない人”にされてしまう

 それは、さまざまな病気や障害のケースでも同じだと考えられるので、誰も無関係ではないことです。
 誰でも病気をしたり、ケガをしたり、障害が残る可能性をもちながら生きていて、さらに、トラブルを起こしたり、失敗したりするリスクと共に生きています。
 ところが、その人が病気と診断されたり、嚥下障害があるなどと診断されると、その後のトラブルや失敗は病気や症状のために起こるものと考えられ、当たり前の幸福と同時に、当たり前のリスクもすべて奪われかねません。
 たとえば私など今も、日に何度も探し物をしていて、人生でどれくらいの時間を“物探し”しているか分かったら恐ろしいと思うほどですが、もし認知症と診断がついたら、前からしょっちゅう探し物をしていたにもかかわらず、認知症のための見当識障害だと考えられ、自立した生活ができない人などと判断されてしまう可能性があります。
 「前からよく忘れ物をするし、家の中でもしょっちゅう探し物をしていた!」と自己申告したら、言葉を受け止め、病気による症状と分けて、見直してくれる人がどれだけいるでしょうか。
 同様に嚥下障害と診断が出ると、誤嚥や肺炎といった問題が起こるリスクを回避することが最優先に考えられ、口から食べなければ危なくない、となる可能性大。実際に私は患者家族だったとき、医療のそうした判断を仕方がないことだと受け容れました。患者自身も、激しいむせが苦しく、仕方がないと口から食べることを諦めました。
 その時点では、それでやむを得なかったのかもしれません。
 しかし、その状態がしばらく続いても、誰も、再び口から食べるために何かできることはないか? と考えませんでした。患者は食べることについてどのような思いがあるか、尋ねる人もいませんでした。
 私は自分もそうだったので、誰のことも責められないです。しかし、そのように「もうできない人」として扱い、疑わないことが慣例になるのは、周囲の誰もがその人を“患者”と思い、病気や障害ばかり見ているからではないか。若年性認知症当事者の方の講演を聞いて、そう思いました。私も患者ではなく、病気や障害のある人だと、生活を思いやる気持ちに欠けていたと感じたのです。
 誰かひとりでも可能性を考える人がいると、事態は変わるかもしれません。ケアの現場で往々にしてあることではないでしょうか。
 「もうできない人」とレッテルを貼られ、可能性を考えてもらえないなんて、自分がされたらどうだろう。せめて話くらいよく聞いて欲しいだろう。すこしだけ勉強している身としては、さらに病気や障害のある当事者の声を聞く耳をもちながら、このタイミングでしっかりとICFを学びたいと思いました。
 私は、ケアの専門職として他者のケアに携わることはおそらくないと思いますが、自分の大切な人や自分自身のために、学ぶ必要を感じています。