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健康とスポーツを科学する

長尾光城(ながお・みつしろ)

20歳からトレーニングを開始し、現在も10㎞を50分切って走ることができます。ウエイトトレーニング、空手も続けています。この世の中を元気あふれる中高齢者でいっぱいにする社会活動をしています。また、ジュニアからシニアにいたるスポーツ選手の外傷・障害予防にも携わっています。
あちこちで講演してきたテーマを精選し、読み応えある内容に書き起こしていきます。

プロフィール長尾光城(ながお・みつしろ)

著者略歴
1975年、東京学芸大学教育学部A類数学科卒業。大学時代に学習塾を開設。全身で体当たりする指導法は、生徒はおろか、父兄にも大きな影響を与えたという。その後、一念発起して、1984年、山梨医科大学医学部に再入学。
1990年、山梨医科大学医学部医学科卒業。
1994年、山梨医科大学大学院医学研究科博士課程修了。
1994年、山梨医科大学第二生理学教室助手。
1995年、川崎医療福祉大学医療技術学部健康体育学科助教授。
2001年、川崎医療福祉大学医療技術学部健康体育学科教授。
2003年~2007年3月、川崎医療福祉大学医療福祉学部保健看護学科教授・学科長。
2007年~、川崎医療福祉大学医療技術学部健康体育学科教授・学科長・医療技術学部長。
博士(医学)。
日本体育協会認定スポーツドクター。

その他役職
岡山陸上競技協会医事科学委員長(1999年~)。
岡山県体育協会理事(2009年~)。
倉敷市体育協会副会長(2009年~)。
スポーツ医科学員会委員長(2012年~)。

学会
日本運動処方学会理事、日本体力医学会評議員。

第13回 ある市民ランナー

貝畑和子さん

 12年前(2002年)に、「これから北米大陸横断レースを走りに行く女性がいますが、先生、興味はありますか?」と仲間の鍼灸師の先生から紹介されました(写真1)。トレドミル(運動負荷心電図)を走っていただき、最大酸素摂取量を測定したのを覚えています。一般女性として普通の値だったと記憶しています。この方、つまり貝畑和子さんのどこにこれから約5000kmを走りきる体力があるのだろうかと思ったものです。

 その後10年ぶり(2010年)にお会いしたのが、一般市民の方々を対象にした講習会の講師を私と一緒にさせていただいた時です。大腸がんのステージIIIで抗がん剤治療を受けて、御嶽100kmマラソン、ヨーロッパ大陸横断レース(イタリア半島の南端からノルウェーまで)4400kmを完走されたと聞いて、大変驚きました。人の持つ可能性について考えさせられました。

 そこで、今回私たちの学会運動処方学会の特別講演で講師をお願いしました。快く受けていただき、11月9日(日曜日)に私が質問をして、答えていただく形式で90分間の講演でした。(1)その中でなぜ走るようになったのか、(2)走ることを通じてどのようなメッセージを人々に伝えているのか、(3)最近の取り組みはどのようなことですか、などについてうかがいました。

 障害者(視覚障害、聴覚障害、知的障害)の方々25名をボランティア80名(モモタローパートナーズ)でサポートしているとのことでした。1999年に日本縦断3500kmを視覚障害の方と走り切っています。また、国内外の大会に出かけています。

 以下に、抄録と写真2(1994年のスパルタロン完走)を添付します。

夢を追いかけて地球を走る–倉敷市 市民ランナー・貝畑和子さん

 幼いころはからだが弱く、体育の授業にすらでることができなかった私が、「走ること」にめざめ、そして走ることを通して経験させていただいたことについて述べていきたいと思います。

【近所の主婦からの“走ろう”の誘い】

 1983年6月(当時30代)、小学生になったばかりの次男を白血病で亡くし、1年余り引きこもっていた頃、近所の主婦から“走ろう”という誘いがあり、それが走るきっかけとなりました。初めて走った距離は200mくらいだったと記憶しています。朝5時に静かな街を走り出すと、風がとても心地よかった。2か月後に出場した市民大会の一般女性の部(5キロ)で5位に入賞することができ、より一層やる気が出ました。そして、2年後にはフルマラソンに挑戦し、完走することができました。

【病との闘い】

 2008年、大腸がんの告知を受け、手術にて大腸を10cm摘出しました。その間、入退院を12回繰り返す日々を送ることとなりました。しかし、抗がん剤治療が始まって3日目には走り始めていました。

【家族の支え】

 私が大会などで不在のときは、夫が子守りや家事を引き受けてくれました。長男は高校時代まで一緒に大会に出場していました。北米大陸横断に挑戦したとき、長女は食事の世話などをしてくれました。そして、三男は大会にボランティアとして大会運営を手伝ってくれました。走っているのは私自身ではありますが、それまでの過程における家族の協力や支えは、大きな原動力となって、私を後押ししてくれています。

【走ることを通して、人に希望を!】

 治療中に知り合った20代の女性がん患者が「新しい夢に向かって一歩踏む出す勇気をもらいました」と言って喜んでくれました。自分の走る姿が他の人に希望を与えることができると感じられた瞬間でした。

【主なマラソン経歴】
  • ・欧州縦断マラソン(イタリア半島の南端からノルウェー北端まで約4500キロ)
  • ・北米大陸マラソン(アメリカ ロスアンジェルス~ニューヨークまで約4900キロ)
  • ・シベリア横断マラソン(韓国 釜山~ロシア モスクワまで約1万4900キロ)
  • ・大坂国際女子マラソンに18回連続出場
  • ・サハラマラソン(北アフリカ モロッコ南部のサハラ砂漠を231キロ)
  • ・がん撲滅を訴えるマラソンに参加し、視覚障害者ランナーに伴走(宗谷岬から佐田岬までの3300キロ)
※出場大会数 170以上
※総走距離 約3万4千キロ(地球一周=4万キロ)

 最後に、振り返れば倉敷の街中からスタートした私のマラソン人生、今では多くの人々のご協力の下、国境を超えて世界各国で走らせていただいています。夢を追いかけて世界中を走ってきたこの想いをみなさんにお伝えし、そして共有することができれば幸いです。

2002年の私たちとの一コマ

1994年のスパルタロン完走

 お話をうかがって、登山家の田部井淳子さんを思い出しました。同じように、好きなことを続けていると癌も逃げていくのでしょうか。
 案外、楽天的に生きることの重要性も学びました。
 みなさんも、くよくよせず前向きがいいと思います。