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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

人は関係性の中で生かされている

「紙おむつ」
  
ポイントが五倍も付くというので
特売日に母の紙おむつを買った
この際にと欲が出て買い込みすぎた
この重さが母の残された命かもしれないと
重さをしっかり受け止めて
汗だくで歩いた

いつものように病院の棚に
母の紙おむつを積み足す
減った分を補い
煉瓦のように並べていく
母の命を必死に取り戻すように
手際よく紙おむつを並べる
このどの辺りかで母は死ぬかもしれない
棚いっぱいになった紙おむつを見つめた

母のおむつを替えた
使用済みの温かい紙おむつの
重さ、臭さ、黄色の鮮やかさ
母は生きている
減っては積み足し
積み足しては減っていく
まるで月の満ち欠けのようだ

減った一つ分の紙おむつを積み足すと
母の病室の窓から月が見えた
明日にも消えてしまいそうな三日月
三日月はなくなってしまうのではない
見えなくなるだけだ
母の命も同じだと
何度も何度も自分に言い聞かせて
病院を後にした

tunnel.JPG
イラスト=藤川幸之助

 去年の春4月、桜の咲く頃このブログを始めた。母の病院に咲く桜を見ながら、母が桜を見るのは今年が最後になると思っていた。来年の春は母のいない春だと。おむつを棚に並べながら、「このどの辺りかで母は死ぬのかもしれない」と思った。病室を離れる時、「生きた母とはこれが最後になるかも」と毎日毎日思った。2時間の講演が終わった後、携帯電話を見るのが怖かった。母が亡くなったとの知らせを聞くのが怖くて怖くてしょうがなかった。そんな、小心翼々な私を余所に母は今も元気でいる。
 その母とのことを書いてくれとこのブログを頼まれて、1年間書き続けてきた。この1年間はとにかく忙しかった。北海道から沖縄までいろんな所で講演をし、いくつかの雑誌の連載を掛け持ちで書いて、本も作った。そんな中で、ブログを書いた1年だった。旅先で、列車の中で、飛行機の中で、空港で、駅のホームでブログを書いた。書いてきたものを振り返ると、自分のことながらよくもこんなに毎週毎週書いてこれたものだと感心する。もしかすると私が書いたものではないのかもしれないと錯覚のような感じさえする。
 毎週、読者の皆さんのコメントが書く励みになった。講演会に行くと、「ブログ読んでいます。頑張ってください。」という励ましに、書く意欲が湧いた。時には、ブログの中の○○ですと、講演後の本のサイン会にブログのコメントを書いた方が現れて、励ましてくれた。このブログ担当の編集者が、毎回毎回私の拙文を読んで、褒めてくれた。これは、私だけで書いたものではないなあと思う。このブログを読んでくださる皆さんに支えられて書き続けられたのだと、つくづく思うのだ。
 私が1年間書き続けたこのブログで一番書きたかったことは、「介護」のことでも、「認知症」のことでもない。「人は関係性の中で生かされている」ということ。母と私がそこに居て、存在しあうこと自体に大きな意味があるということを、このブログを通して感じていただければと思って書いてきた。そして、読者の皆さんがこのブログの向こう側にいて、そのブログを読んでくださっているということが、どれだけ書き続ける私の励ましになったか。不遜を承知で書かせていただくと、皆さんにとってもブログ全てとは言わないまでも、その中の一つのブログが、もしくは私の詩やブログの一文が、励ましになり、支えになった時もあったのではないかと思うのだ。読者あっての物書き。「人は関係性の中で生かされている」ということを、深く感じた1年だった。このブログを閉じるにあたり、このブログを読んでくださった方々一人一人に心から感謝したい。

最後に詩を2編。

「皺(しわ)」
          藤川幸之助

母の病院へ自転車で向かう。
道路の起伏がよく分かる。
上り坂がくると
尻をサドルからあげて
ひとこぎひとこぎ
坂の頂上を見つめて上っていく。

上ったら下らなければならない。
下ったらまた上らなければならない。
この上り下りは
ただ平坦な道より
私の足腰を鍛える。
道の凸凹にあわせて前に進む。
道の凸凹を全身で感じる。
通りすぎる風を肌で味わう。
この道のことがよく分かってくる。

病院へ着くと
母は大きないびきをかいて眠っていた。
上り下りする額の皺と
私の知る母の人生の浮き沈みを重ねてみる。
このどこら辺で父と出会い
このどこら辺で私が生まれ
このどこら辺で母は認知症を患い
私が母のオムツを
替えはじめたのだろうかと。

いびきがあんまりうるさいので
咳払いをすると
母が顔をしかめて
額の皺を一段と深くした。
このどこら辺で母は…。
「お母さん、息ばせんばんよ。
 きつか時には呼びない。
 すぐ来るけんな。ゆっくり寝ないよ。」
これが生きた母に会うのは
最期になるかもしれない。
毎日必ず言って別れる
明日会うための呪文のような言葉。

「命に寄り添う」
                藤川幸之助

命に寄り添う
私のイメージ通りに動かない認知症の母
思い通りにならないことが
当たり前の空間
私も母のそのままを受け入れ
母も私のそのままを受け入れる

命に寄り添う
その命の少しの変化も見逃さないこと
その命の少しの変化にも動じないこと
深い深いまなざしを
その命に向けること

命に寄り添う
深いイマジネーション
言葉のない母の心を読み取る
言葉のない母の心の痛みを
自分のこととして感じる

命に寄り添う
思い通りにならない人生の流れ
その川底の石ころのように
重なり合い
寄り添い合う
寄り添う私が
母に寄り添われ
母と一つであったことを
私は思い出す
体という境界線を越えて
母が私になり
私が母になる
支える側が支えられ
支えられる側が支え続ける

◆岡山太助さん、コメントありがとうございます。nobimamaさん、コメントありがとうございます。今日はお二人のコメントが体験からの言葉であり、とても深く関連していますので一緒に取り上げて、私のコメントを書かせていただきます。「在宅介護も10年を超えました。」と、岡山太助さん。岡山さんのこの10年、いろんな経験をされた10年だったと思います。講演で全国を回るうちに、在宅で介護されている方々にいっぱいお会いしてきましたので、岡山太助さんのこの10年は私の想像もつかないほどの大変な毎日だったと思いますし、その辛さゆえ、ともに生きる日々の喜びもまた一入であったのではと思います。「我が親を施設に託す息子・娘さんたちとは距離を置いてきました。というか、いろんな事情があることを承知してはいるのですが、どうしても嫌悪してしまうのです。」と、岡山太助さん。私が母を施設に入れたときのことを思い返すと、岡山太助さんのおっしゃる「嫌悪感」を自分で自分に向けていたように感じます。それが、nobimamaさんが書いていらっしゃる「主介護者だった父が亡くなり施設利用せざるを得なくなり母をだます形で病院に入院させました。帰るときは申し訳なさで涙が止まりませんでした。」ではないかと思うのです。コメントの後半で、在宅介護されている岡山太助さんは、「今日に至っては、愛おしくて仕方ないのですけれどね。」と、療養型の病院にお母さんを入れていらっしゃるnobimamaさんは「母を愛おしく思うことができるようになりました。」と。どちらもお母さんを愛おしく思っていらっしゃるだなあと思いました。最後のブログなのに、全くまとまらないコメントで恐縮です。一年間こんな感じのコメントでしたので、今更恐縮することはないのですが。
◆「自己変革していく私がいることに少々驚いています。自己中心的思考から、少しは他人様の心根が理解できるようになれたご著書に感謝!」と、岡山太助さん。お役に立てて嬉しいです。拙著を読んでいただき、こちらこそ心から感謝しています。ちなみに、「岡山太助さん」と書いて、ずっと私は「ハッ」としていました。ここまで書いて、その「ハッ」との謎が解けました。私の好きな芸術家「岡本太郎」に似ていたからです。
◆「行くたびに「王様の耳はろばのみみ」を読みます。でも最後の「立派な王様になったということです。おしまい」というと手たたきながら「拍手喝采」と言うのです。多分聞き慣れた娘の存在を感じ、子どもを褒めるために一生懸命拍手してくれているのだと私自身も感じています。」と、nobimamaさん。拍手でnobimamaさんを褒めるお母さんの顔が目に浮かぶようです。優しいお母さんですね。子供の前では「母性」はしっかりと顕現するんですね。それこそ、今日のブログの題「人は関係性の中で生かされている」と言うことだと思います。


藤川幸之助さんのブログ「まなざし介護」は
今回で最終回になります。
1年間、誠にありがとうございました。
本ブログをまとめた詩集『夕凪の海で見つけた詩』
(仮タイトル)を夏頃に発行する予定です。
どうぞお楽しみに!

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コメント


 1年間お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。
これからも藤川さんの本を楽しみにしています。
ずーと、ずーと。


投稿者: 次女N子 | 2010年03月24日 14:47

久しぶりにブログにお尋ねしたら・・・・・
本当に残念です。短い期間です。もっと早くお尋ねしたかったです。でもご本に逢えた事で我慢します。大切にします。もう少しお話して元気を頂きたかったです
くれぐれもお体を大切にお母様と素敵な日々が続きますようお祈りいたします。
また、『夕凪の海で見つけた詩』を楽しみに待っております。


投稿者: 紫陽花 | 2010年03月25日 12:28

藤川さん、一年間お疲れ様でした。

毎週更新されるブログは僕にとって
一種の『心の教科書』のようなものでした。
とは言え、読んだからといって豊かな心が
手に入る訳ではないですよね。

『今』からひとつひとつ目の前の事を眼張って生きていく。
そうする事でまた新しい何かに出会えると
藤川さんとの出会いを通じて思えるようになりました。

藤川さん、これからもお身体にはくれぐれも
お気を付け下さい。
そしてお母様との生活が末永く続く事を
お祈りしております。

本当にありがとうございました。
『夕凪の海で見つけた詩』楽しみにしています。


投稿者: SAK | 2010年03月26日 01:15

藤川さん、出会えまして、すぐにお別れ、本当にさみしいです。藤川さんの詩に触れさせていただくとともに、読者さんのコメントも併せて読ませていただきました。そうして、いろんなことを感じさせていただきました。お忙しい中、ご丁寧なお返事をありがたく思っておりました。夏ごろにまたご著書が出るとのこと、ぜひ読ませていただきます。どうか、おからだを大切にお元気で。本当にありがとうございました。こうしてご縁をいただき、繋がっていけますこと感謝です。


投稿者: まほ | 2010年03月26日 17:12

講演会で素敵な歌声を聴いて、ブログで度々コメントを頂き、遠いけど・・とても近くに感じる~そんな感覚がありました。現場で働く立場として、「命に寄り添う」とはどういうことか、そんな迷路から徐々に解放されつつあります。まだまだ、藤川さんの詩・写真・コメント・・・で元気をもらいたかったです。
また春が来て、去年と同じように季節は過ぎます。藤川さんのブログを何度も読み返し味わっていこうと思います。また、お会いできる日を期待してます。素敵な笑顔に逢いに行きます。1年間本当にありがとうございました!


投稿者: たっちゃん | 2010年03月27日 07:30

これで最後なんて寂しいです。ずいぶん前に“最期まで看させてもらおうと、奥様にもスタッフにも言おう”と書き込みをさせてもらった、まっちゃんです。なかなか結果の報告ができなくて。
実はあれから1ヶ月くらいで在宅の限界がこられ、今は入院されています。もう在宅に戻ることもたぶん選択肢の中には消えてしまったような状況です。そのとき自分の中に大きな穴が開き、仕事に向かう気持ちがしばらくなえてしまったままでした。奥様も毎日泣いてばかりでと憔悴しきってられました。何が正解になるのか、どこで間違ってしまったのか、考えても考えても答えはないとわかっていても・・どうすることもできない、そこに落ち着かせることしかできません。あれから何度か入院先に出向きお会いしました。胸をなでおろしたり、胸をつませられたり・・・複雑でやっぱりつらい。認知症の方にとってどこが一番生きやすい場所なのだろう。何を優先させたらいいのだろう。介護するものでもいいのだろうか。やっぱり本人なのだろうか。奥が深くて時に溺れてしまいそうになる。認知症の方というより人としての関係の中でこれからもずっと悩み続け、迷い続け、私たちは一緒に生きていこう、そう思っています。藤川さんとお母様ののご健康をお祈りしています。ありがとうございました。


投稿者: まっちゃん | 2010年03月28日 23:10

私の母は、認知症ではありませんでしたが、昨年の3月27日に72歳で亡くなりました。
そのすぐ後にはじまった藤川さんのブログが終了してしまうのが非常に残念です。
3月の半ばに主治医から「これが最後の桜になるでしょうね」と宣告され、日一日と徐々に押しても戻らなくなっていく母の足を揉みながら、東北の遅い開花を「早く」と待つような、永遠に咲いてほしくないような気持ちになったのを思い出しました。父が育てた鉢植えの桜の一輪の花が別れの日に咲いたのも偶然ではないような気がしました。

今年の桜の季節に母は居ませんが、ホームにいる認知症だけど元気な母親たちと楽しみにしています。

今年もお会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました。



投稿者: こん | 2010年03月29日 14:55

とっても不真面目な読者ですから、今日になってブログの終了を知りました。
何時でも読めると思っていたのに残念です。
一度だけ講演会に行かせて頂て、長距離介護のときにはお酒を飲まなかった、飲めなかった、とのお話がわが身と比べて恥ずかしく、強く印象に残りました。
動けなくなってから、動いて欲しくなり、喋れなくなって、話して欲しいのが人情ですけれど、人事だとばかり思っている自分に気付きました。
未熟なアラ還のオジサンは、日々反省を繰り返すばかり。
また何時かお目にかかりたいです。


投稿者: すたすた爺 | 2010年04月03日 06:52

ブログ・・終わるのですね。それを知ってから・・ため息ばかり出ています。講演会で、初めて藤川さんを知りました。これまでに色々な講演を聴きましたが、講演をする方が、《涙で声が詰まる》というのを、初めてみました。私の母も認知症であり、共感する部分も多く・・一緒に泣きました。それで1センチ眉毛が短くなったわけです(笑)。3月、誰も住んでいない生家に一人で行ってきました。船にのり、バスに乗り、またバスにのり、もう1度船に乗り・・。かなりの長旅でしたが、荒れた生家を見て、父と母の人生を想像する自分がいました。帰りの渡海船内で、島の学校が発行している便りを目にしましたが、その中に藤川さんの詩をみつけましたよ。インターネットも新聞もないこの島で、藤川さんの活き方に共感している人がいて、それを記事にしていることがとても嬉しく胸がキュンとなりました。そして、藤川さんの思いをブログで知る度に、私自身が、寝たきりになった父と認知症の母を、より好きになれたことを心から嬉しく思います。ありがとうございました。


投稿者: れこれご | 2010年04月08日 19:42

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


『満月の夜、母を施設に置いて』
著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
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