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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

春の分厚い白い手

「木蓮の白」
  
木蓮のつぼみが
人が祈るときの掌の形をして
まだ春浅い冷たい風にゆれていた
両手で優しく包むと
産毛に包まれたつぼみは
ほのかに温かかった

凍えた幼い私の両手を
大きな柔らかい白い手で包んで
「コウちゃんの手よ
 コウちゃんの手よ
 花開け」
と、息を吐きかけてくれた母

いく日かすると
その木蓮のつぼみは
真っ青な空に向かって
真っ白に開いて
冷たい風にゆれた
そして、本当の春の温かさを知らぬまま
いつしか散って
茶色に汚らしく朽ちていった
その白さを
私の心に残したまま

日々の悲しみは
木蓮の花びらのように
いつか消えてなくなっていくけれど
愛の喜びは
木蓮の白のように
いまもずっと生き続ける
認知症の母とつないだこの手の中で
ずっと生き続けている

      white.JPG
      イラスト=藤川幸之助

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 私の住む長崎では、白木蓮が咲き始めた。この花の白を見ると春の訪れを感じる。梅の花は他の花に先駆けて咲くことから、「花兄」と呼ばれる。梅の花は花の兄ならば、さしずめ白木蓮はその白く分厚い大振りな花弁の優美さからすると花の姉だろうか。まだ寒い風が吹く晩冬の殺風景な中、白木蓮は開き始める。白く明るい光のようでもあり、希望のようでもあり、そこに春が舞い降りているようにさえ見える。
 高校を卒業して、詩人になろうと思い立った。白い紙に、何枚も何枚も詩を書いた。問われたことの答えでなくていい。この白い紙には何でも書くことができる。自分自身をそのままぶつけた。先のことなんて何一つ決まってなかったけれど、白い色は希望の匂いがした。春、木蓮の白く分厚い花弁が開くと、この時の紙の白さを思い出す。その白さは、この世界から切り取られた別の世界への入り口のようにも、新しい世界の始まりのようにも見えた。
 それから、本当は詩だけ書いて生きていきたかったけれど、詩人では食っていけなかったので教師になって詩を書き続けた。教師をしながら、認知症の母の介護を私がしなければならなくなった。認知症という病気が恨めしかった。詩を書くのに、母がとても邪魔に思えた。教師をしながら、週末母のいる熊本に行って母の世話をするだけで精一杯だった。詩を書く時間なんて全く見つからなかった。しかし、全てから解放されて独りになったとき、言葉が次から次に浮かんできた。母の詩だった。それをまとめて詩集『マザー』ができあがった。多くの人に読んでもらった。そして、講演依頼が来るようになった。母の詩集を数冊作った。読者も増え、講演の依頼も更に来るようになった。詩を書いて、食べていけるようになった。
 私の詩人になるという夢は、認知症の母が開いてくれたのだ。母がその分厚い白い両手で私の手を包み、私の花を開いてくれたのだ。母は、私の花を咲かす春だったのだ。今でも私は白い紙を用意して、毎日毎日詩を書きつづる。私のような文学の素養も才能もない人間は、書き続けることでしか、書くことは分からない。まるで、生き続けることでしか、生きることの何であるかが分からないのと同じなのだ。梅の花が花の兄で、白木蓮が花の姉ならば、もちろん春そのものは母になるのだろう。私の花を咲かせてくれた春の手のように、白木蓮が白く白くどこまでも白く咲いている。白木蓮の花弁が、母の白い分厚い両手のように咲いている。

◆紫陽花さん、コメントありがとうございます。「こんにちは、暫くお邪魔できなくなりました。姑が風邪を引き自宅看護になり時間が作れなくなりました。」と、紫陽花さん。お姑さんが回復されて、紫陽花さんとまたこのブログでお会いできるのを楽しみにしていますが、私のブログは、3月23日号で最後になります。この号を含めて後3回でおしまいです。お姑さんの風邪が快方に向かい、お元気になられるように祈念しています。「手元に本が届きました。看護しながら読ませていただきます。」とも、紫陽花さん。拙著を読んでいただき心から感謝します。ありがとうございます。

◆まほさん、コメントありがとうございます。
「わたしは「おばあちゃん」という呼び方、違和感ありません。(中略)家族にも聴いたのですが、わたしと同じ意見でした。感じ方の違いなんですね。おばあちゃんと言うやさしい響き、好きですけれど…。」と、まほさん。呼称や「ちゃん」付けなどに対するいろんな考え方があるのは、それに対する思いが人それぞれだからだと思いますが、「おばあちゃん」という言い方への反応については、もう一つの見方があると思います。「老い」を受け入れるか、「老い」を拒絶するのか。「老い」を自然の流れであると受け入れるか、「老い」を敵と見なし遠ざけていくか。前者を日本を含め東洋的な母性原理社会の典型的な考え方で、後者を西洋のブライズムの父性原理社会の典型的な考え方だと、河合隼雄さんは言いました。これは、自然の捉え方に起因するんだとも河合さん。東洋では自然は植物で人間を育むものであり、ヘブライズムが広がった西洋では自然は砂漠であり人を殺すものだという考え方です。なんとも、難しく、ためにならないことを長々とすみません。


コメント


長崎の木蓮は早いのですね。
横浜の我が家の木蓮は、やっとつぼみができはじめたところです。
咲き始めの木蓮の白は純白で、まるで女学生のような初々しさがありますが、茶色くなって散っていく様がどうにも切ないです。まるで、自分の老いに直面させられているようで、辛いと思っていました。
でも、藤川さんの詩を読んで、そんな初々しい思い出も胸に、老いを生きていくんだなということを感じました。茶色くなった自分を見られることも、それはそれで、人生の醍醐味なのかもしれない、そんなことを考えさせられた詩でした。


投稿者: アラカンおばちゃん | 2010年03月16日 09:42

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


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著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
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