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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

手紙を入れたガラスびん

「母からの手紙」

 誰かと言い争ったとき、誰かの言葉に傷ついたとき、誰かを傷つけてしまったのではと不安な夜、私は認知症の母へ手紙を書く。返事の来ない手紙を書く。ただいつものようにお元気ですかで始まり、寂しくないかと付け加え、元気でねと母へ手紙を書く。言葉のない母は、手紙を読みもしないで、口にくわえてしゃぶると聞いた。

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イラスト=藤川幸之助

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 熊本の老人ホームに住む母を訪ね、その手紙を母に読んであげる。これじゃ手紙の意味がないじゃないか。母にはもう必要のない言葉を、母の代わりに読む。母のできないことを、一つ一つ母のためにやっていく。そうしているうちに、母のことを気遣い思いやっている自分に、驚いてしまう。いつの間にか私自身が、私が母に生かされ、母に支えられていることに気づく。言葉のない老人とろくでもない者が向き合って、その足りない部分を埋めあって生きている。
 誰かと言い争ったとき、誰かの言葉に傷ついたとき、私は何のために生きているんだと不安な夜、母からの手紙が届く。文字のない、無言の紙も字もない手紙が届く。いつものようにお元気ですかも、寂しくないかの付け加えもなく、元気でねとどこにも書いてない母からの手紙が届く。私の心の中に届く。「その自分を生き抜け」と。私の心の中に響く。
『満月の夜、母を施設に置いて』中央法規に関連文

■今日の詩は散文で書いた詩で、散文詩と呼ばれているもの。12月の最終週に書いた「数を数える」や7月の第2週に書いた「こんな所」などもこれに当たる。形式は散文で、内容は詩的な情緒を表現した文学作品*1を散文詩と呼ぶ。1899年に浅野和三郎が提唱したというので、短歌や俳句に比べればまだ歴史は浅い。読む者にとっては、それが詩であろうと散文であろうと、はたまた散文詩であろうと関係ないだろうが、私は明確にかき分けている。上記の詩と同じ題名で、ほぼ同じ内容で、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)に書いている文は、今日掲載の散文詩をもとに書いた散文だ。編集者のリクエストで、少々説明と出来事の背景を加えながら散文詩を散文にした。
 元をたどれば、今日掲載のこの散文詩から始まっているわけだが、詩にはそのまた元がある。ポエジーと呼ばれていて、詩の「種」のようなもの。「種」と言っても粒ではなく、心の中に浮かぶ雲のようなものだ。表現せずにはおられない、詩に書かずにはおられない感覚のようなものだ。それは、感じ取った感覚のようなものなので、必ずしも言葉で書かなくていけないということでもないし、言葉では書けないときもある。今日の詩の元になったポエジーは、言葉というより絵で描く方がたやすかった。この詩を書くときは苦心惨憺したが、その合間に絵はさっと描けた。その絵が、今日の詩に添えた絵だ。

 母に手紙を書くことは、「手紙を入れたガラスびん」を海に流すようなもの。返ってこないかもしれない。いや返ってくることはないだろう。返ってこなくても、母のもとに、母の心に私の心が届きさえすればいいと、私はせっせと言葉の分からない母へ手紙を書いた。言葉が分からない者へ、言葉で書いた手紙をせっせと送るのだから、はたから見たら意味がないことかもしれない。でも、これしかないと思った。言葉を言っても通じない。施設の人に母を電話口まで連れてきてもらった、電話で話しても母には分かっているかどうかも分からない。手紙を書くことは、最後に残された母に対する私の思いの表現の仕方だった。
 海の写真が多いですねとよく言われる。私は海の写真を撮るとき、母と海とを重ね合わせて海を見ているときが多い。言葉がなく、大きく広く私を包んでくれる存在として母も海も私の瞳には映る。母も海も、言葉や意味を超えて、もっと大きなイメージを私に与えてくれるのだ。だから、この絵のように海へガラス瓶に入れた手紙を流すイメージと、言葉のない母へ手紙を書くのとは、私にとって同じことなのだ。せっせせっせと手紙を入れた瓶を海へ流すように、私はせっせせっせと母に手紙を書いた。
 その私から届いた手紙をなめ回すと聞いた。手紙を読まずになめ回すというのは、普通に考えたら異常なことなのかもしれない。しかし、息子に手紙をもらった喜びを自分に残された表現方法で表現したのだと思う。私が詩でなかなか書けずに、絵で表現するのと同じこと。言葉で伝えられないから自分にできる表現で、自分の心を表したまでのことなのだ。表現は様々で、感じることを自分なりに自分にできることで表現することを、母はやっただけのことだ。それを異常な行動と捉えるか、喜びの表現と捉えるか、見る側のイマジネーションと感性、その人を分かろうとする心に関わることなのである。

言葉のない母と向かい合うとき、言葉を捨てなければならない。感じる母と向かい合うとき、言葉や意味に頼らず、こちらも感じなければならない。海を前にして、瞳を閉じる。波音で海を感じる。母を前にして、瞳を閉じる。母の命を私は深く感じる。情報が氾濫し、分かる分からないで人を判別していくこのご時世。感じることが、あまりにもおろそかにされる。感じることも、分かることと同じくらい重要なことなのだ。認知症の母に接していくうち、そう思うようになった。心静かに瞳を閉じて、この世界を感じることを大切にするようになった。

*1『日本国語大辞典』小学館

◆まほさん、コメントありがとうございます。
はじめまして。「また、拝読させていただきます。いろいろ学ばせて戴けて、ありがたいです。」と、まほさん。コメントから拝察すると、まほさんは現場のプロフェッショナルの方。このブログは、毎週講演会や原稿の合間に知恵を絞り出して書いているものなので、プロのまほさんが学ばれるほどの内容は私の文にはないかと思います。私のように母の介護だけをやっている人間は、医学的な知識やケアの専門知識など底が知れてます。ですから、まほさんが「学ばせて戴けて」というのは、私の文を読んで心で「感じて」いらっしゃるんだと思います。私は私の文章から、「知る」とか「学ぶ」というより、「感じて」ほしいといつも切に願っていることが、まほさんのコメントを読みながら分かりました。そういえば、私は詩人でした。

◆ひよこさん、コメントありがとうございます。「「ひよこちゃん、コメントありがとうございまちゅ」という一文に、笑い転げてしまいました。」と、ひよこさん。このブログの担当編集者も、私の先週のブログを読んで、その一文について同じことを言っていました。ひよこさんは、笑い転げましたが、編集者は吹き出して周りの人に怪しがられたということでした。種を明かすと、このレトリックは、ダイワハウスのCMで、役所広司が言う「ダイワハウチュ」からいただいたもの。この「ちゅ」を一度どこかで使いたいと思っていたのです。先週のコメントに比べ何とも内容のない返信ですみません。


コメント


今日は平戸での講演お疲れ様でした。先生とは小学生の時以来で久しぶりにお会いできて嬉しかったです。私も介護の仕事をしてるので今回参加して勉強になりました。認知症は奥が深いですね。私の働いてる老健でもいろいろな方がいらっしゃいます。私が利用者の方と接する時はなるべく笑顔で対応してます。あと歌を一緒に歌ったりスキンシップをして1日1日を有意義に過ごしてます。時々辛い事があるけど利用者の笑顔をみると頑張ろうと思えるので今まで介護を続けられてます。毎日が楽しいです。きっとこれからも介護の仕事を続けていくと思うので今の気持ちを忘れず日々精進していきます。今日はありがとうございました。私も頑張るので先生も頑張って下さい。これからも応援してます。


投稿者: 松本美沙子 | 2010年01月27日 21:48

感じること・・・投げかけた自分の感情を、丸ごと受け止めてくれる人を「1人」見つける事が出来たと感じた時、今までの頑なな感情が解きほぐされていく感覚が、人間臭くて堪らなく自分自身を愛おしい存在として感じます。最近、言葉の暴力で傷付いた経緯があり、唯一その1人の人には、自分の感情を投げかける事が出来ました。そして、感情を素直に表現しても良い・・その思いが本当の事ならば・・・そんな事も教えてくれました。全ての人に受け入れてもらう為の言葉選びは、結局自分を表現出来ず、不消化な想いが残ります。でも、本当の気持ちを一日の最後に出し切る事も、大事だと思います。
藤川さんにコメントを書くと、誠心誠意心を込めてお返事が返ってくる所が、このブログを読む沢山の方達の心に響く・感じることが多いのだと思います。愛情のある言葉がみんな欲しくて毎週読み続けているのかも・・・そんな事を感じました。


投稿者: たっちゃん | 2010年01月28日 00:11

久し振りに投稿致します。

ブログは拝読させて頂いていたのですが、なかなかコメントまでは余裕がなく、久々にまとまった時間ができました。

僕の母は認知症ですが、自宅介護ではなくグループホームへ入居。また、僕は介護職には就いていませんので、日常的に『介護』に携わる事はほとんどありません。
実際、僕は販売職に就いているのですが、藤川さんのブログは、母への思いはもちろん、『他者』への思いや関わり方など、多くの事を感じ、考えさせてくれるひとつの切欠となっています。

おこがましいかもしれませんが、僕はすべて『人と人』だと考えています。
僕の仕事からいくと『店員とお客様』会社的には『上司と部下』、家に帰ると『家族と自分』、性別で言えば『男と女』。
そう考えると種類数多、際限なく出てくると思いますが、『人と人』である事には何ら変わらず、ただ単にその関係性が違うだけでそこに弱者と強者の力関係は皆無なのだと思っています。
ですので『ちゃん付け』の件は、非常に興味深くコメントも含め拝読させて頂きました。
一人一人の相手によって異なってくる自分との関係性に配慮し、自分がいかに相手に働きかける事が相手にとって良いのか?
そして、その先に何が見え、何を求めていくのか?
が、自分の中でしっかりと根付いていれば、きっとどんな人とも分かり合える。と、考えています。

今回、久々という事もあり長々と綴ってしまい申し訳ありません。
また、稚拙な持論も展開してしまい、重ねて申し訳なく思っています。
しかし、藤川さんのブログを通して『自分の在り方』を自問自答する僕に、力を授けて頂いているような気にもなり、このコメントが嬉しさの表現とご理解頂けると幸いに思います。



投稿者: SAK | 2010年01月29日 03:15

まほさんの処から尋ねてきました。私(65歳)も自宅介護をしております。(姑)こんなに暖かい心で介護できておりません。これからもブログを読ませていただき学ばせて(できるかな~~~)頂ける様頑張って見ます。よく人は言いますよね頑張らなくって良いよって、でも介護は頑張らなくては出来ない事だと思います。頑張る事で介護の方法が見つかっていると思っております。


投稿者: 紫陽花 | 2010年02月05日 10:34

◆紫陽花さん、コメントありがとうございます。紫陽花は私の住む長崎市の花です。さて、紫陽花さんの書いておられる「頑張る」ということについて、2月10日のブログに紫陽花さんのコメントをもとに書きますので、返信に代えさせてください。


投稿者: 藤川幸之助 | 2010年02月09日 11:18

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


『満月の夜、母を施設に置いて』
著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
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