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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

私たちがかえる場所

「捨てる」

ある日
突然
母が車の窓からゴミを捨てた
ティッシュが花びらのように
車から遠ざかる
セロファンが春の光に
キラキラと光って
私たちから遠ざかっていった

後続の車の人から怒鳴られた
事情を話し、頭を下げた
母がその大きな怒鳴り声を聞いて
笑うものだから
怒鳴り声がさらに大きくなる
母の笑い声はいつもよりまして
高らかだった

母は言葉を捨てた
母は女を捨てた
母は母であることを捨てた
母は妻であることを捨てた
母はみえを捨てた
母は父を捨てた
母は過去を捨てた
母は私を捨てた
母はすべてを捨て去った
そして一つの命になった
でも私には
母は母のままであった

母が認知症という病気を脱ぎ捨て
生きることを捨てて
あの世への階段を上る時
太陽の光を浴びて
命は輝き
あの時のセロファンのように
私から遠ざかっていくのだろうか

   詩集「手をつないで見上げた空は」

1.JPG
「天国への階段」イラスト=藤川幸之助

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 母が「キヨちゃん」と看護師さんなどに呼ばれると嬉しくなる。親しみ深く母に接してもらっているようなありがたい気持ちに、私はなるのだ。しかし、講演会でこんな人に出会った。「母が○○ちゃんと、ちゃん付けで呼ばれるのが嫌なんです。だから、病院で自分の母をちゃん付けで呼んでいる人がいたら、その場で注意します。」いろんな受け取り方があるもんだと思った。普通は「ちゃん」は、親しみを込めて人を呼ぶときに使う接尾語だが、子供にたいして使う場合が多いので、その人は自分の母親が子供扱いされていると感じたのだろうと思う。
 「子供扱い」とは、辞書によると「大人を子供のように軽く見くびって扱うこと」。子供は見くびられているのだ。大人に比べて、子供には常識や知識がないからだろうか。自立している大人に比べると、子供は支えられているからだろうか。小学校の子供達の前で、認知症の母の話をした。何も言わずに母の写真を見せると、大声を出して笑う子供が数人いた。叱るつもりは毛頭なかった。笑いたいものを笑うのは当たり前のことだからだ。そこで笑った子供達は、感性が豊かな子だった。ものを忘れていく恐怖や自分のまわりの世界が分からなくなってしまう認知症の母の不安を話し、認知症という病気を抱えながら必死に生きる母の姿やその母を支えた父の姿や思いを話していくうち、どの子も真剣に話に聞き入っていた。特に笑っていた子供達の大部分は目に涙をためて話に聞き入っていた。
 そして、話し終わった後、一番大声を出して笑っていた子供が私の所に来て、「先生、人を思いやると言うことは、可愛そうだと思うことではなく、何かをその人のためにしてあげることですね」と言った。大声で笑えると言うことは、心の痛みもしっかりと感じる感性がそこにあるということなのだ。この子供は、これから認知症の滑稽な姿を見ても笑わないと思う。子供を常識や知識がないと見くびってはいけない。むき出しの感性で、世界を感じ取っているのだ。常識や知識に隠れて自らの感性が見えなくなり、頭の中で嘲笑や差別を抱えながら可愛そうだと真剣な顔をしている訳知り顔の大人に比べ、子供の心の豊かさは計り知れない。
高齢者が加齢によって子供のような心の状態になるのを「子供返り」という。認知症になってから、母も徐々に子供に返っていっていると感じることが多くあった。みんなでお菓子を食べていると、等分して分けて食べているにもかかわらず自分だけが少ないと不満を言った。みんな仲良くしているつもりなのに、自分だけに話しかけてくれないので、自分は独りぼっちだと言った。子供のようにまわりの反応にとても敏感で、すぐに言葉に出し駄々をこねるような態度をとった。常識や世間体を捨てながら、母は子供へ帰っていると思った。しかし、そんな子供のような母の姿を見て、情けなくなって、叱ったこともあった。
 歳を取りながら、常識や知識、世間体というものを捨て、人は子供へと帰っていくのかもしれない。そして、常識や知識、世間体というものに隠れて見えなかった、むき出しの感性をもう一度子供の時のように取り戻すのではないだろうか。人は学び、知識を増やし、常識で身を固め、世間体の中で生きながら山の頂上へ昇る。そして、山を下りながら、今まで手に入れたものを捨て、自分自身を解きながら歳を取って行くのだろうと思う。岡本太郎は、人生は積み重ねではなく、積み減らしだと言った。捨てれば捨てるほど、命は分厚く、純粋にふくらんでくると。母も、常識を捨て、奇行を繰り返し、言葉を亡くし、歩くのをやめ、食べるのをやめた。いろんなものを捨て去って、母は純粋な命そのものになっていった。セロファンを車の窓から捨て、喜んでいた天真爛漫な母の顔を思い出す。
 同時に人は、捨て減らしながら、得ているものがある。得ているというよりも、取り戻しているものがある。それが子供の持つ感性ではなかろうかと思うのである。ベッドに寝て、赤ん坊のように泣きたいときは泣き、笑いたいときには笑う母。「子供返り」というより、子供という存在の先にある。いや、子供という存在の前にあった、私たちの生まれる前の場所に母は向かっているのだと思うのだ。

参考文献
「自分の中に毒を持て」青春出版
「デジタル大辞泉」小学館

■みのこんさん、コメントありがとうございます。「小学生対象の認知症サポーター講座について投稿したものです。」と、みのこんさん。このような子供達の講座をされるときは、子供達に何を伝えるかもとても大切ですが、認知症という病気に子供達がどう反応し、それにどう反応していくかも同じくらい大切だと思います。つまり、生の子供の心をどう扱っていくかがとても大切だと思います。十数年小学校の教師をしていて、やめる前は新規採用の教師の指導をしていたので、説教臭いコメントですみません。

■ぷーさん、コメントありがとうございます。「あっ 本州の端の話ですが、西側の方です。」と、ぷーさん。ぷーさんは、下関ですか(個人情報というのがこの頃やたらとうるさいので、違ってても返信はいりません)。ちなみに、「端」という言葉が気になったので、島はのぞいた北海道、本州、四国、九州の中での東西南北端を調べました。●最北端は宗谷岬(北海道稚内市)●最南端は佐多岬(鹿児島県肝属郡南大隅町)●最東端は納沙布岬(北海道根室市)●最西端は神崎鼻(長崎県佐世保市)だそうです。参考になさってください。

■まっちゃんさん、コメントありがとうございます。拙著「満月の夜、母を施設に置いて」も読んでいただき心から感謝します。「私も海が大好きで、今回の写真もほっとさせていただきました。幼少のころ海を見て育ちました。心がしんどくなると、水が見たい・・と思ってしまいます。」と、まっちゃんさん。私も心は窮屈になると、海を見に行きます。海を見ると、小さく縮んでいた心がフワッと広がります。でも、まっちゃんさんと違うのは、私は山のある街で育ちました。小学4年生ぐらいまで海は見たことがありませんでした。初めて海を見たときの感動が、尾を引いて海の写真を撮り続けているのです。

■たっちゃんさん、コメントありがとうございます。「だれか一人でも心が通う人が居てくれることが幸せなんだと思います。」と、たっちゃんさん。「だれか一人でも心が通う人が居てくれることが幸せ」いい言葉ですね。自分のことを考えてくれる人がいる。それがたった一人であっても、そう感じることができることが生きる力になっていくんだと、健康で何処にでも行ける私でも思います。ベッドに横たわって、言葉をなくしてしまった人にとってはなおさらのことです。介護で何かをしてあげることも大切ですが、何もしなくても自分にまなざしを向けてくれる人がいてくれることは、何よりの心の支えだと思います。その人にまなざしを向け、見つめるという行為は、限りある大切な自分の人生の時間をその人にプレゼンし、その人のために使うということですから。


コメント


こんにちは。
このブログを読むまで、私も「ちゃん」づけは嫌だなと思っていました。これまで何の関わりもない、しかもずっと年下の人に「ちゃん」で呼ばれるなんて、自分だったら嫌だなと思うのです。
でも、藤川さんのような考え方もあるんだぁと興味深く読みました。藤川さんの意見には賛成です。
でも、きっと「ちゃん」づけで呼ぶ人は、藤川さんのように深く考えていなくて、たんに子供扱いしてるだけじゃないかなって思います。
介護職の人には、ぜひ「自分に置き換えて」、考えて、行動してほしいと願います。


投稿者: ひよこ | 2010年01月19日 11:45

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


『満月の夜、母を施設に置いて』
著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
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