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詩人 藤川幸之助の まなざし介護

「聞く」ということ

「さびしい言葉」

ある病院で母と同室だったばあちゃんは
母と同じくらい認知症が進んでいた。
母とちがうのは言葉が話せること。
看護師さんが来ると必ず
「お願いします死なせてください」なのだ。
看護師さんが母の世話をしているときも
背中越しに
「お願いします死なせてください」
時には私に向かって
「お願いします死なせてください」
また時には認知症の母に向かって
「お願いします死なせてください」
「さびしい言葉ね それはできないのですよ」
看護師さんが言うと
「いやできるはず 死なせてください」

ある日「死なせてください」を
繰り返すばあちゃんに
「息がきついのよね」
看護師さんが優しく言うと
「はいきついんです死なせてください」
「さびしいのよね」
「はいさびしいんです死なせてください」
その日はそれからばあちゃんは
ひとことも喋らず安心したように眠った。
そしてその日もばあちゃんの所へは
誰も見舞いには来なかった。
これで一ヶ月にもなるらしい。

「死なせてください」
というばあちゃんの願いは
今日もかなえられなかった。
夜静まりかえった病棟。
私の頭の中でめぐり続けるばあちゃんの声。
本当の願いは
「さびしいのです
 誰か一緒にいてください
生きていたいのです」
と私には
もっとさびしい言葉に聞こえるのだ。
      『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規)

SDIM1073.JPG
写真=藤川幸之助

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 小学校の教員をしていたとき、介護老人ホームに研修に行ったことがある。母が認知症になる前のことなので、認知症のことも介護のことも全く知らなかった。専門的なことも分からないので、施設の職員の手伝いというより、入所している高齢者の相手をしてくれということだった。相手といっても、何もやることがないので、話を聞くことにした。
 私が話しかけると、若い頃の話や家族の話、故郷の話を、数人の方から聞いた。一日中、聞き役に回った。長い人になると、1時間以上話し続けた。人の話を聞くと言うことは、自分の口を噤(つぐ)むということ。私は、何をすると言うこともなく、時に相づちを打ち、合いの手を入れながら一日中ただ黙って話を聞いた。その施設を去るとき、私と話した高齢者の方が私の所に来て、涙を流しながら「こんな楽しかったのは久しぶりだ」と言ったのを覚えている。
 ここの高齢者の人は、施設の人に世話をしてもらってはいるが、話を聞いてはもらっていないんだと思った。食事の世話や下の世話などとても重要なことであるけれども、それと同じくらい入所者にとっては、話を聞いてもらうというのは重要なことだと思った。入所している高齢者に限らず、人は話を聞いてもらいたがっているんだとも感じた。
 その時教師だった私は、こうも考えた。こんなに親身になって、子ども達の話を聞いてやったことがあったかと。いつも忙しさにかまけて、目も見ずに相づちを打ち、適当に話を聞いていた自分の姿が浮き彫りになった。しっかり子ども達を見つめもしないで、子ども達一人一人の話も聞いてやれないで、子ども達のため子ども達のためといつも忙しくしている。何のための忙しさだと思った。私が研修に行った施設も少ない人数での高齢者の世話で、多忙で「話なんか」聞く暇がなかったんだろうとも思った。子どもや高齢者相手の仕事なのに、子どもや高齢者の心を置き去りにしているのかもしれないと、どうしようもないディレンマとともに深く考え込んだのを覚えている。
 話を聞くということは、自分の口を噤むということ。自分の話や自分のことを一時棚上げすることなのだ。つまり、今は自分のことよりあなたのことを大切にしていますと伝えることであり、話を聞くというのは、あなたを受け入れていますよと伝えるに他ならない。また、話を聞くというのは、その人のために時間を使うということ。あなたに関心を持っていますよと伝えることでもある。自分のことを思ってくれている人がいて、自分は独りではないんだというサインを受け取ることができる身近で、簡単な行為なのだ。家族から離れて、施設に入ったり、入院したりしている人にとっては、人やこの世界とのつながりを感じる唯一の入り口かもしれないとも思う。口を噤み、その人を感じること、それだけのことで救われる心があるのだ。
 「死んでしまいそうだから、眠れない」と言うおばあちゃんもいた。「私は生きてますか?」と何度も何度もナースコールを押していた。このおばあちゃんは「死にたくない。死にたくない。」の繰り返しだった。一方、詩の中のおばあちゃんは「死にたい。死にたい。」の繰り返し。この二人の言葉はとても対照的に聞こえる。しかし、その対照的な言葉が表す心の叫びは同じだ。「側にいて、私を見つめていてください。話を聞いてください。」なのだ。
 傾聴ボランティアというのがあるらしい。このようなおばあちゃんの話を聞いてあげるボランティア。「聞いてあげる」ことの重要性を認識した活動があるのに、私は安堵した。しかし、それと同時にその「聞く」ということが、ボランティアであることの危うさを感じる。それは、ボランティアの方々が専門家でないとかいうことではなく、専門家の仕事から「聞く」ということが切り離されていくのではないかという杞憂である。忙しさのために「聞いてあげる」ことができないという前提の上で、医療や介護の仕事が成り立っていく危うさである。
 医療現場は忙しい。その忙しい中でも、看護師や医師は、言葉を失った母に「キヨちゃん、キヨちゃん」と顔を見ながら声をかけてくださる。言葉がないからと、母の心をないがしろにしていた自分にはっと気がつく時さえある。忙しい中でも、声をかけ、必死に一人一人の高齢者を支えているのが、医療や介護の現場の実情だと思う。
 医療や介護のだけではなく、学校など「現場」と呼ばれるところは、いつも多忙だ。その「多忙」の意味と内容をもう一度吟味する時がきているのかもしれないと思うのだ。「聞くことができない」ところに、「現場」の問題が潜んでいるのではないかとも思うのだ。これは、医療行政や政治と大きく絡んでくるので、私が出る幕ではないが、医療や介護機関の人手を増やし、一人一人の医師や看護師、介護士の負担を減らしていくしか方法はないのである。
 「心」という漢字は「うら」とも読む。「裏」と同語源で、表面にあらわれず隠れている意。隠れて見えないならば、その言葉に隠れている心をどう感じるか。ましてや言葉がない人の心を感じるのは容易ではない。その心(うら)を感じるほどに人を見つめなければならない。減った負担の分、心に余裕ができてくる。人は自分の心に余裕ができて初めて、人へその心を向けることができるのだ。裏が心であれば、表は体であり、目の前の人であろう。時に、裏に隠れているものに、表を支え助けるヒントが隠されていることもある。

◆還暦姉ちゃんさん、コメントありがとうございます。還暦姉ちゃんさんのコメントは、心に沁みます。「因みに姑(87歳)は「おりゃよかバイ」と言ってます。」と、還暦姉ちゃんさん。長崎の人は、この意味が分かるでしょうが、全国の人がこのブログを読んでいると思うので、蛇足ではありますが方言の解説を共通語で。「わたしは、死ぬときには、いろいろ治療をしないでいいよ。そのままでいいよ。」これじゃ、あまりにも味気ないですが、この言葉におばあちゃんの潔さを足すとピッタリの訳になると思います。


コメント


傍に居て欲しい・話を聞いて欲しい・・・そんな気持ちでナースコールを一日中握りしめてる患者さんが私の病棟に何人かいます。スタッフもコールが鳴っても「またか・・・」と嘆き、何度も何度も部屋に足を運びこちらの都合を言って帰ってくる状態。認知症なのか寂しいからなのか・・家族にその状況を伝えても面会の回数や時間はあまり増える事がない現状があります。家族は仕事があり家で一人にして置くのが可愛そうだからと入院させているが、家族の安心は保障されても患者さんの「寂しさ」は何も変わってない。むしろ入院したことでカーテンだけで仕切られた部屋で落ち着いて眠ることも、愛する家族との面会も自由に出来ない殺伐とした状況に追いやっているように思える。「病院に居るのに孤独」という事が少しでも軽減できるよう、もっと看護・介護・医師はゆっくり腰を据えて話を聞いてあげられる時間を確保しないといけない。傾聴ボランティア自体は必要ではあるが、本来の私達病院スタッフがもう一度考え直す時期でもある。忙しい・・・は心を亡くしている状態。言い訳ばかりしていては、折角の看護師国家資格が泣いてしまいます!今回の藤川さんのブログをもし同じ看護師の方たちが読んでくれているのなら、「自分達の本当にやりたかった看護」「患者さんに寄り添うとは、どういうことか」を考えるきっかけになれば・・・と感じました。


投稿者: たっちゃん | 2009年09月13日 20:48

母はなくなる半年前に私の知人と3人で食事をした後に、私の居ないところで「楽には死ねんね」と言ったそうです。その3ヵ月後歩行が困難になりました。

今日は夜勤です。ナースコールがなっても心穏やかでありたいなと思っています。そして明日の朝「おはよう」と笑顔を見せたいと思っています。家族の方から「御泊りをして帰ってくるとばあちゃんをに優しく出来るんです。」と言われました。在宅生活を長く続けられるように、家族の息抜きも必要です。

何かの本に「忙しい」は心が亡くなるとかきますが「大変だ」に言い換えると大きく変わると書きます。そうなんですよね・・


投稿者: ぷー | 2009年09月15日 00:35

「おりゃよかバイ」の言葉をありがとうございます。
想像した母の気持ちではなく、87歳の方の言葉なので、
真っすぐ気持ちに入ってきました。
潔く生きて、潔く逝く姿が、浮かびます。
88歳の母もそうなのでしょう。
鏡の様だった母で私がイラツイテいたり、落ち着いていたりすると、直ぐに母に移っていました。それで今は病院に行く時には、体調を整えて気持ちを落ち着かせて行こうと心がけています。
無理に通って疲れた顔を見せても母は喜ばないだろうと、思うのです。
頻繁に行かなくても、母はわかってくれると思い甘えています。どんな姿になっても母であり甘えています。


投稿者: kiki | 2009年10月06日 21:18

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。

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プロフィール
藤川幸之助

(ふじかわ こうのすけ)
詩人・児童文学作家。1962年、熊本県生まれ。小学校の教師を経て、詩作・文筆活動に専念。認知症の母親に寄り添いながら、命や認知症を題材に作品をつくり続ける。2000年に、認知症の母について綴った詩集『マザー』(ポプラ社、2008年改題『手をつないで見上げた空は』)を出版。現在、認知症の啓発などのため、全国各地で講演活動を行っている。著書に、『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)、『ライスカレーと母と海』『君を失って、言葉が生まれた』(以上、ポプラ社)、『大好きだよ キヨちゃん』(クリエイツかもがわ)などがある。長崎市在住。
http://homepage2.nifty.com/
kokoro-index/


『満月の夜、母を施設に置いて』
著者:藤川幸之助
定価:¥1,575(税込)
発行:中央法規
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