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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

ひきこもりだった僕から(part3)

 ひきこもりの定義について、ぼくは「閉じこもってそれが自分で苦しいこと」「経済生活がないことではないこと」「現在、『怒り』と『恐怖』が表裏一体となって身動きできないまま硬直していること」「コミュニケーションが伝わらないことについて徹底して絶望していて、『声を出すこと』にものすごい屈辱があること」ではないかと考えているが、伝えることに絶望した鬱憤は、「うるさい!」などの貧し過ぎる言葉となって表面化し、周囲との関係をさらに悪化させる。「声が聞こえていない」という煩悶は、親サイドにも当事者サイドにも、苦痛の核心に位置している。

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 『「ひきこもり」だった僕から』の著者である上山氏は言う。
 親御さんから金をもらってひきこもりの人に訪問する時点で、「親=世界」の側の人間についてしまう。「親が連れてきた」ということで、もう会ってくれない。訪問して本人と会えたら、「話の内容は親には言わない」と約束して「親サイド」と切れていることを具体的に示す必要がある。
 仕事をする場合には、自分の価値観や倫理観を犠牲にしなければならない。するとからだが悲鳴を上げるというジレンマ。一生懸命アクセルをふかすのだが、その動力が有効な形で外部世界につながっていかない無力感。「天職の模索」とは、規格品でない自分に合ったクラッチとタイヤを見つけ出すことなのだが、努力が全部潰えて、倉庫の奥で腐るのを待っている、という状態。
 自分だけ世間のスタンダードから外れていると責め続け、原因を作った人間たちが何の苦痛もなく暮らしていることがうらやましくて許せない。無力感にますます怒りがつのる。この世は「鈍感な人間」が生きやすく、「あれこれ考える自分のような人間」はバカを見る。理不尽だ。ひきこもり100万人は「弱過ぎて負けてしまった正義感」に苦しむ、「正義の芽」100万個である。炭坑のカナリアである。だから「まず仕事」ではなく「正義感を共有できるようなまず人間関係」だと。
 ぼくが思うに、彼らは昔なら過激派が受け皿になって社会に出ていく人たちで、今はネット右翼になっている人と肌触りが一緒だ。しかし右翼では仕事にならなくてネットで吹き上がるくらいしか居場所がない。

 彼によると、深く挫折しているのは「もう自分はセックスも恋愛も結婚も、一生ムリだ」という「性的挫折」であるという。ひきこもりからの自立とは、「親と関係ないところで自分の性的関係、生活をつくっていく」過程であり、だから誰かが親から金で依頼を受けて訪問しても、「たとえ親の望まない形の自立であってもかまわない」と親には説得するしかない。
 彼は、「(60も過ぎた)親が変われ」というカウンセラーのアドバイスを「親子のコミュニケーションにこだわり過ぎる」と批判し、「親は勝手に親の人生を始める」ことを勧めている。あるいは「うちにはこれだけの金しかない。親の老後にいくらほしいから、お前はいくらほしいのか?」と真剣勝負してほしいとも述べている。
 親の側は親亡き後を思い詰めているのに、本人にその気持ち、悩みを伝えられない。そうなると「正攻法」しかない。親には全身全霊をかけた勝負に出る会話をしてほしい。具体的な「希望」を一緒に考えてほしい。「お金・性・死」の問題は最も家族の話題に馴染まないからこそ、今まで家庭内で抑圧されてきた。そこにカギがある。そこに親子と抑圧されてきた話題を共有する、第三者が必要だ。実は、生活保護という親亡き後の生活のツールがあることも伝えるべきだと思う。そして、本人申請だから、第三者に付き添ってもらってでも本人が市役所の窓口に行く必要がある、ということも。餓死しないために。
 また彼は、愛情による心配から、過剰に世話を焼く親を批判している。中1を過ぎたら、もう独立した性生活が始まっている。関わろうとするのは、近親相姦の欲望だ。それに対して親の思い通りになる場合しか協力しない親がとても多いのも事実だ。
 またひきこもりに「自分だけ特殊」はない。「陳腐な条件の組み合わせ」にすぎないから逆に安心していい、とも言う。しかしぼくは、障害が関係しているひきこもりの場合は、問題はそこそこ複雑だと思う。
 彼は、ひきこもりを悪くいう人は、実は「ものすごくつらい思いをして我慢して我慢し抜いてひきこもりから脱出した元当事者」が多い、と言う。ひきこもりに留まれる人がうらやましくてしょうがない。ぼくも経験があるが、精神病者でも同じで、苦労して我慢して就労を続けた人が一番精神病者を差別する。病気が悪かったころは、自分の中で一番見たくない過去のものだから。彼は「会社参加と社会参加とは別のものだ」と、ぼくと同じようなことを言っている。

 彼は過去ずっと「優等生」だった。「相手の望むことをして、初めて受け入れられる」という「公」の世界でやってきた。ひきこもることで、「私」の世界で「親の望まないあり方」で「ごめん」ですむ世界で、初めて「甘えさせてもらう」経験をしている。「公」だけに生きてきて疲れ果ててしまった。「とにかく就職しろ」というだけでは、「公」や「私」の価値観の問題は置き去りだ。
 ぼくは最近、「人の役に立たない」ことに自信を持ち、優等生でなくなることはとても大切だと思うようになった。甘えた存在であることはとても大切だと思っている。「自立」をはき違えてはいけない。「人の役に立たない」「わがままである」ことは、動物の本性だ。多くの人は役立ちから逸脱すると「自らの無価値感」を感じてしまう。色々な場面で「自分は役立たずだ」と堂々とわがままを通すことは、とても大切だ。
 彼は「働かなければ生きてはいけない」と言う。ではなぜ「働いてまで」生きていかなければならないのか。「生きること」になぜそれほど執着しなければならないのか。「死ぬ」ことより「働く」ことのほうが怖いという葛藤に、常に直面している。「自分のため」に働くなら、自分が死んだほうが楽になれる。ある精神科医の「自殺しないためにひきこもっている」という言葉を思い出すけれど、あまりにも白黒付け過ぎるのではないだろうか。多くの人は白の時は白のモードに、グレーの時はグレーのモードに切り替えている。でも調子が悪くなると、黒一色になったりもするが。
 また彼は「ひきこもりは病気か?」と言えば、「人間は孤立するとおかしくなる」と答えている。外の世界とつながりができてくると自然に「病的」な言動をする必要がなくなる。「自分が精神病だという診断を受けるのではないか」という恐怖は、「自分一人だけが「狂人」として世間から排除され隔絶され「矯正」されてしまうのではないか」という知らない世界が、怖くて不安なのだ。
 また精神科医などが「客観的」な知識を開陳して、「何かを言った」つもりになっていることを強く批判している。すでに「当事者」として巻き込まれているリスクの自覚なしに、「いったい何ができるの?」という問いに答えず、「正論」を言うことは、逃げでしかない。ぼくにも向けて言われていると覚悟し、同時に元気をもらった。
 最後に彼ははずかしいなかで最もはずかしい、最も耐えられない傷であった「ひきこもっていたこと」を逆手に取って社会活動を続けている。「今までできる最悪の限りを尽くしてやれ!」と自分に語る。トンネルを抜けた人だけに許される感動的なまでの開き直りだ。


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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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