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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

ひきこもりだった僕から(part1)

 『「ひきこもり」だった僕から』(上山和樹著、講談社)を読んだ。
 「まず、「与えられた自分」を「自分で選び取った自分」に転化させようとして失敗し、途方に暮れてしまったのが、あの状態(ひきこもり)だった…。」というのが、最初の書き出しだ。

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 ぼくも同じような感覚を味わったことがある。ぼくは医者の父を持ち、小さい時から医者になるものだと漠然と思っていたし、進学校に迷わず進んで、高2になった。ここで迷いが生じた。今まで親の敷いたレールにしたがって生きてきて、「いい子にするにもほどがある」と思ったのだ。
 考えるようになったきっかけは、学校でいくらお勉強をしてもしても、世界にある知識の量は膨大で、一生かかったって、わかる量はほんのわずかであることへの気づきだった。結果、お勉強に挫折してしまって、大学に行くこともバカらしくなり、目標を見失った。自分を振り返ると、「自分は世間のことを何も知らず、大人にもなれない」と思った。当時、下火になってきていた学生運動がかっこよく見えた。しかし周りにそういう人はいなかったので、運動に入るきっかけもつかめなかった。
 小さい時には音楽や美術が好きだったのに、いつの間にか受験校では、芸術分野の授業はまったくなかった。高1のときに音楽と美術が週に1時間あったのが最後だ(高2でも美術だけは1時間あったかもしれない)。高校生活も終わるころに、大学案内の本を見ていて、美大とか音大とかがあることを初めて知った。しくじったと思った。
 今の自分にはデッサンもできないし、楽器だって何もできない。高校の美術の宿題で、ジョルジュ・ブラックという人の絵を模写して持っていったところ、酷評されて、それ以来この歳になるまで絵筆に触っていない。
 そのころ、ランボーや中原中也の詩が好きだったので、文学部なら行けるかもしれないと思い、父に「フランス文学をやりたい」と言った。父からは「英語を中1からずっとやってきて、ものにできていないのに、フランス語を大学の4年間でものにできる訳がない」と言われ、「その通りだ」と納得してフランス文学を諦めた。
 しかし可能性は開けているのに、自分には何もないことに絶望して、「医者になるしか道は残されていないのか?」と、とりあえず医学部を受験したが、結果落ちた。家から離れたかったので東京で浪人することにした。しかし東京生活は寂しいものだった。友達ができないのだ。そして自分が世間知らずだと思いつめていたので、苦労しようと思って、仕送りを切って肉体労働ばかりやっていた。
 浪人1年で無事私立の医学部に入学したが「医者になんかなるものか。人の命を救うなんてバカらしい」と思っていた。それで好きなロックの同好会に入り、授業にも出ずにドラムばかり叩いていた。バイトも肉体労働ばかりではキツクなったので、時々は皿洗いや荷物運びなどもやっていた。結果留年した。ロックをやめて授業に出るしかないと思った。でもそのころから幻聴の言うとおりに操られたりして、学校にも行けず、深夜徘徊をしていた。お腹が減らなくて食べるものも取らず、夜も眠れなかった。

 「与えられた自分」から「自分で選び取った自分」に転化させようとあがいた末に、統合失調症という病気になって、下宿から外出もせず、ひきこもった。散らかりきった下宿の部屋の中で、何もできなかった。それを偶然、昔の友人が尋ねてきて、親に連絡が行き、東京を引き払って、退学して、九大病院の精神科への4年にわたる入院が始まった。ぼくは病棟で途方に暮れるしかなかった。
 今思えば、父の生き方しか知らなかった。父は徹底した仕事人間で、もちろん家族は大切にしてくれたが、真面目一方で遊びがなかった。「人生を楽しむ」というゆとりを感じられなかった。父の背中から、「大人になるということは、社会の歯車の一つとして生きていくしかない」というメッセージを受け取っていた。若い時には複数の女性と付き合っていたことも、随分後になるまで知らなかった。母がヒステリックになるので、とてもそんなことを父が言える家庭の雰囲気でもなかった。ぼくの知っている父の趣味は囲碁だった。大人になることはひどく禁欲的なことに思えた。
 しかし父も歳取ってパソコンを楽しんだり、池の鯉を可愛がったり、愛媛マラソンに毎年出場したり、趣味の幅が広がって、今なら「生きることは楽しむことだ」と背中で語っている。


コメント


 初めまして。僕は子供の頃から生活保護世帯に住み、その事が子供ながらに世の中にたいしてとても恥ずかしくて他人には言えずに育った。
 そのせいか、集団生活に馴染めず登校拒否をして、一人で野山を遊びまくった。その後定時制高校にかよい、建設会社で働き、その社員旅行で売春に目覚め、会社も定時制もやめ、神奈川の姉を頼り働いては売春にあけくれていた。
 その頃、空手を習った。いつの日かこのままではいけないと思い家に戻り、父が内職をした金で車の免許をとり、職を転々とし、最終、大手の運送会社の長距離ドライバーになり結婚もし子供ももうけたが、売春もやめられず、仕事に遊びに明け暮れたある、日自損事故だが飲酒をしており3年間の免許取り消しとなったが、上司のおかげで会社を首にならず、4年後に大型免許を取得し、また長距離ドライバーに復帰したが酒も売春もやめられず、妻のおなかに4人目の子供がいるときに同僚とトラブルをおこし、統合失調症を発症し精神病院に入院となり、妻とも離婚し、閉鎖病棟と解放病棟を行ったりきたりしたある日、二階から飛び降り足のかかとを怪我し整形外科へ二ヶ月入院した後、病院の経営する社会復帰施設に入所し、今の妻と知り合い仕事にもつき、県営住宅に入居したが会社の人間関係が上手くいかず会社を辞めてしまい現在にいったている。
 妻は入退院をくりかえし現在閉鎖病棟に入院中です。二人の障害年金で生計をたてています。


投稿者: 無名の長野県人 | 2009年07月13日 07:10

 わずかな長さの告白ですが,とても重く人生が凝縮されています。ぼくがレスを付けるにもあれこれ、言いづらい、迫力があります。飲む打つ買うは男の甲斐性、という言葉がありましたが、昔気質なのかもしれません。お子さんとは会えていますか?


投稿者: 佐野 | 2009年07月14日 20:10

 子供の親権は放棄してしまったので会っていません。というか、前の妻から連絡もないので、今は子供達のことを知るよちもありません。
 そのせいか、子供の事を考える事がほとんどありません。これは病気のせいかもしれませんが、子供に対する愛情がまったくありません。というか、今の僕は子供に何もしてあげられません。


投稿者: 無名の長野県人 | 2009年07月16日 05:13

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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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