ページの先頭です。

ホーム >> 福祉専門職サポーターズ >> プロフェッショナルブログ
佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

こんな夜更けにバナナかよ(part1)

 『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史著、北海道新聞社)を読んだ。帯には「人工呼吸器を着けながらも自由を貫いた重度身体障害者と、生きる手ごたえを求めて介助に通う主婦や学生ボランティア。ともに支え合い、エゴをぶつけ合う、そこは確かに「戦場」だった…」とある。

続きを読む

 こんなエピソードがある。全身身体障害者である筋ジストロフィーの鹿野靖明氏が、入院して人工呼吸器を着け寝ている時、ボランティアで介助に付き添っていた国吉氏を夜中に起こして「腹が減ったからバナナを食う」と言う。国吉は「こんな夜更けにバナナかよ」と内心腹を立てながら、口には出さず、バナナの皮をむき、無言でシカノの口に押し込んだ。
 国吉が持ったバナナを、遅いスピードで食べ終わり、「もういいだろう。寝かせてくれ」と思ってベッドにもぐり込もうとする国吉に向かって「国ちゃん、もう一本」。国吉は「なにィ!」という驚きとともに、シカノに対する怒りが急速に冷えていった。「もうこの人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味立派だ」と思った。『こんな夜更けにバナナかよ』はこのエピソードに因っている。これは後に書く、気管切開の入院中のことだった。

 シカノは小学校まで歩けていたが、長時間歩くとつま先立ちになっていた。6年生の時に町医者で「筋ジストロフィー」という宣告を受ける。
 23歳の時に生活していた施設を飛び出し、生活保護を申請し、多数の介護者をローテーションで24時間集めて、アパートで自立生活をするようになった。
 自立生活を始めて12年後に、肺の筋肉が弱ってしまったシカノは医者から「人工呼吸器を着けなければ、この先の延命は難しい」と宣告される。人工呼吸器を着けるとしゃべられなくなり、たんの吸引とかは病院でしかできなくなり、病院生活を強いられる。しかし鼻マスクを毎日5〜6時間つけることで代替とし、無理矢理退院。
 ところが次の日の朝、容態は急変。救急車で再び主治医の待つ病院へ。意識もうろうとするなかで、主治医が「シカノさん、どうするの! 呼吸器着けないと死んじゃうよ!」と呼びかける。主治医の呼びかけに一瞬、意識を取り戻したシカノは「先生に…まかせます…。助けて!」。そういったきり、再び昏睡状態に陥った。
 気管切開の手術は行われ、シカノは呼吸器なしには生きられなくなった。心臓も拡張型心筋症になっていて、「あと余命1、2年だろう」と主治医から言われた。「人工呼吸器を着けるくらいなら尊厳死を選ぶ」という多くの筋ジスの人の選択など蹴って、ワガママを通して再び退院を強行。病院側もボランティアに対し、40ページにわたる医学的レジュメを作って講習を行い、支えた。しかしそれから5年後も、シカノ氏はどっこい生きている。

 介助者たちは言う。「シカノさんを話題にすれば一晩中場が盛り上がる。どういうところがいいかと言うと、ワガママなところでしょう! 逆にあのキャラがなくなったら、シカノさんの面白みの半分はなくなっちゃう」「障害あってのシカノさん。シカノさんの人格それ自体が、筋ジスと一体化している」。
 強がりや虚勢、ワガママを言い張っているかと思えば、急に熱を出し、憔悴しきって周りを心配させたりする。それが誰しももっている「助けたい」「やさしくしたい」「役に立ちたい」という、保護本能に直接訴える、抗しがたい魅力となる。「憎めない」としか言いようのない人。まさにシカノがこれまでの自立生活を通して、血肉としてきた経験が培った個性、まさに「障害は個性」である。
 シカノと深くかかわっているボランティアほど、「放ってはおけない」と「もう勘弁してくれ」というアンビバレントな感情を抱く。しかし人とかかわるとは、自分の中にあるこうした複雑な気持ちの振幅に正直に向かいあってみることではないのだろうか。
 障害者のワガママとは、健常者の「やさしさ」や「思いやり」を突き破るような自己主張であり、常に健常者側の好意が打ち砕かれるような、激しさと意外性の伴う体験である。介助者の「障害者の主体性を大切にして言うことを聞いていればいい」という底に潜むのは「摩擦、接触を避けたい」という無関心ではないのか? 精神の援助者の世界でもまったく同じ場合があるように思う。

 さらに突っ込めば、障害者が悪事を働くのも主体性ではないのか? 『おそいひと』(注)というインディーズの映画がある。重度身体障害者が介助者を殺す話だ。ここまでガツンと言えば、障害者に対し、上から善意の目線での健常者も考えるだろう。すべての人間に殺したり殺されたりする可能性は開かれている。自立を支える介助とはいったい何なのか?
 このように、障害者と介護者の壮絶な闘いは未来もずっと続いていく、個別な課題だろう。しかしシカノには、「呼吸器つけないと生きられないくらいなら、尊厳死を選ぶ」なんていう人には決定的に欠けている、「七転八倒しながら生き続ける魂」があった。
 人一倍重い荷物を神に背負わされ、何度も生死をさまよった不死身のシカノは、拡張型心筋症による不整脈により43歳で天国に召された。お葬式には介助者を中心に300人もの人が参列した。

「おそいひと」公式ホームページ


コメント


 今回は私事になりそうです。私は鹿野さんの一つ上の44になりました。障害年金を受けています。
 今年、離別した父が亡くなりました。財産は全部息子に譲るそうです。これは家族の陰謀のようで(笑)怪しいものですが、今になって思えば鹿野さんのように七転八倒している私のその姿を父親に見せつければよかったと思っています。私の今を創ったと思える父親に。
 そうすればもっと後悔なく笑ってやれたものをと思います。
 人間はやはり生きていたいものではないかとブログを読んで思いました。
 どこまでが本当の自分なのか感じながら生きていくのが本当の人間なのかもしれません。


投稿者: しーる | 2009年05月19日 00:42

 やはり人間いざとなれば、転げ回って、周りに迷惑を押し付けても、生きるのが本当の強さのように思います。
 そのためにも「生きる目的は人の役に立っていること」などという世迷い言を自分の中から一掃することが大事だと考えています。
 ヤクザだって堂々と生きているのが世間だと思います。しーるさんは父親にトラウマがあるのですね。


投稿者: 佐野 | 2009年05月19日 20:46

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

コメントを投稿する




ページトップへ
プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
sanobook.jpg
メニュー
バックナンバー
その他のブログ

文字の拡大
災害情報
おすすめコンテンツ
福祉資格受験サポーターズ 3福祉士・ケアマネジャー 受験対策講座・今日の一問一答 実施中
福祉専門職サポーターズ 和田行男の「婆さんとともに」
家庭介護サポーターズ 野田明宏の「俺流オトコの介護」
アクティブシニアサポーターズ 立川談慶の「談論慶発」
アクティブシニアサポーターズ 金哲彦の「50代からのジョギング入門」
誰でもできるらくらく相続シミュレーション
e-books