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佐野卓志の「こころの病を生きるぼく」

自殺について(part3)

 60年前に、特攻という自殺があった。周りの空気に逆らえなかったという面もあり、純粋に自殺とはいえないだろうが自爆テロだ。しかし本人には大きな物語に殉じ、故郷の身内のために死ぬという意味があったに違いない。
 「殉じる」とは、物語を信じた果てに死ぬことだ。統合失調症の急性期妄想のドーパミンの過剰分泌だ。特攻の瞬間には大きな物語から醒め、恐怖したかもしれない。いや特攻を上官から言い渡された瞬間に醒め、恐怖したに違いない。殉じることから醒めていた兵士もいるだろうから、彼は、無理にでも死ぬ理由を見つけたに違いない。見つかったのだろうか?
 身内は「ただ生きて欲しかった」と悲しみに暮れるだけだ。故郷の人たちの命を守ろうと思えば、「戦争終結」を訴えればいいけれど、そんなことの言える状況でなかったし、当時の普通の日本人には戦争をやめるという選択肢があることすら思いつきもしなかった。強制とはいえ、若い人が自分の置かれたぎりぎりの状況でできる特攻を選択したことが、物語にいくら彩られても、やっぱり死に意味はなく、つくづく悲しい。

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 戦中、特攻の戦果を聞いて喜んだのは戦争に疲れた他人たちだった。残された身内も喪失のPTSDを癒すために、身内の死を美化する。しかし現実には、大きな物語は戦争裁判などで消費され消えていき、あとには無数の無意味な死という事実だけが残る。人々は無意味に耐えられないから個人的な物語を紡ごうとする。死んだ人の生に意味を紡ぐことは生き残った人の慰めであるし、生き方をも変えるものだろう。
 革命を夢見て内ゲバなどで死んでいった人たちの死にも意味などない。大きな物語に殉じただけだ。周りの人にPTSDという「痛み」や「恨み」を残して死んでしまった。
 抗議の自殺は、自分の死に意味を与える死で、流布している大きな物語に対する自爆テロだが、祭り上げられ政治に利用されることもある。死の意味へのぼくのこだわりも、実は「大きな物語」という「生きる意味」に密かな憧れがあるのかもしれない。「大きな物語」には「小さな物語」にはない連帯感と高揚がある。

 「人が妄想を手放さないのは妄想を愛しているからだ」みたいなことを、フロイトが言っている。妄想とは統合失調症のアレだが、一般人でも妄想を抱かない人はいない。よほどクールな人は別かもしれないが。「妄想」とは、「物語」における足が地面から離れたというもので、両者はとてもよく似ている。
 現代はすべての死に意味がなく、殉じる大きな物語もない。大きな物語がないほうが、熱くないが平和である。文明という一番大きな物語も、過去何度も隆盛し、消費され、老いて、滅んでいった。現代日本文明も滅びに向かっている。若者の間には窮屈な平和の中で、戦争のような生きづらさが蔓延し、貧困が広がっている。使い捨ての非正規雇用では、キャリアアップも望めず、将来の希望も見つからないかもしれない。日本もこれから人口が減るに従って経済成長はしなくなり、二流三流の国になる寂しさと諦めをみんなが味わうことになるのだろう。

 「自分は社会にあるいは身内に何かを成した」という物語を紡ぐことは、生きるための希望になる。パンドラの箱の最後には希望が残ったという。物語を紡ぎづらくなった最後には、現実的な希望を持たないことが希望になるのかもしれない。でも死んだ人の分までも長生きしよう。自殺を考えても、「いかに死なないか」をみんなで考えたい。
 波津子と「人のために死ねるか」ということを話していて、波津子は「子どものためには死ねる。ただし成人した子どものためには死ねない」と言っていた。最低限「人のために死ねる」とすれば、「自分の保護下にある子どものために死ぬ」場合かもしれない。ぼくは息子のために死ねるだろうか? その時になってみないとわからない。しかし死ねたら唯一意味のある死かもしれない。でも、助けられた子どもにとっては複雑かもしれない。死んだ親は子どもの中で物語となり神格化され、子は絶対に親を乗り越えられない…。

 国や医師会は「すぐに精神科医に相談しましょう」とキャンペーンを行っているが、「うつ病はこころの風邪キャンペーン」の延長だ。今日、主治医に新聞の切り抜きの精神科医の記事を見せてもらったが、「自殺の実行の予測はほとんど不可能に近い。予防のために入院しても保護室で実行することもあるし、入院自体に『ついに入院までしてしまった。もうダメだ』と絶望して、自殺のリスクを高める場合もある」ということを言っていて、入院しても全然安全ではない。しかし「入院が絶望を招く精神医療っていったい何?」ってぼくは思うが。
 抗うつ剤(SSRIなど)の投与によって自殺する元気が出る場合も多いと、アメリカの訴訟が教えているが、日本ではあまり話題にならない。もちろん「楽になるために死以外の選択肢が見つからない」ような、社会の仕組みも問題だ。

 お手上げのような現実だが、自殺したいと言う人に「こう言ったらいい」というマニュアルはないだろう。ただ受け入れ向き合うだけだ。自殺を語ることは悪いことではない。自殺の話題を出された時にみんな引かないこと。それがいざという時にSOSを出せることにつながるかもしれない。

問答
A君「死にたいんです! 生きることは無意味です」
B君「その通りだ!」←納得してどうする!
A君「ではB君はなぜ死なないの?」
B君「昨日生きたし、今日も生きているし、明日もたぶん生きているだろうから。積極的に死ぬ意味もない。なのに、なぜ死にたいの?」
A君「う〜ん、うつだから」
B君「うわっ、病気なんだ」
A君「お薬は飲んでいるけど、やっぱり死にたくなるんだ」
B君「困ったね。どうして死にたくなるんだろう?」
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プロフィール
佐野 卓志
(さの たかし)
1954年生まれ。20歳(北里大学2回生)のとき、統合失調症を発症、中退。入院中、福岡工業大学入学・卒業。89年、小規模作業所ムゲンを設立。2004年、PSWとなる。現在、NPO法人ぴあ、ルーテル作業センタームゲン理事長。著書に『こころの病を生きる―統合失調症患者と精神科医師の往復書簡』(共著、中央法規)『統合失調症とわたしとクスリ』(共著、ぶどう社)。
ムゲン http://www7.ocn.ne.jp/~lutheran/
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