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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

読書の秋

 やっと秋が訪れました。この夏は猛暑日が続いただけに、秋の涼やかな空気を肌に感じると、ホッとしますね。スーパーの果物売り場には柿や栗が並び、スイーツではパンプキンや栗を使ったものがオン・シーズンとなりました。でも、このブログは出版社のサイトに綴るものですから、秋と言えば、何はさておき「読書の秋」を取り上げなければなりません(笑)。

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 かなり以前から、私には秋の到来から冬にかけて読書量がぐっと増える習慣があります。夏は暑さで脳みそが溶けてしまい、思考の運びが鈍っているような感じがあるのです。

 ところが、最近、電車に乗って車内を見回してみると、多くの乗客がスマホの液晶画面を指でタッチし操作している一方で、新聞や文庫本を読む光景を目にすることがめっきり減りました。ある時など、車内の横長座席にいるすべての乗客がスマホを覗き込んでいる光景に出くわして、いささか驚いたことさえあります。

 車内で情報端末を操作し、電子書籍を読みふけっている人を少なくとも私は目にしたことはありません。やはり、活字離れは進んでいるのでしょうが、この辺りの事情はどのようになっているのでしょうか。


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 平成20年度「国語に関する世論調査」(文化庁)によると、1か月にまったく本を「読まない」人は46.1%と半数近くに及び、読書することが「減っている」と回答した人も64.6%に達することが明らかにされています(表はすべて文化庁のデータより引用。次を参照のことhttp://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/)。

 表1によると、活字離れは16~19歳に目立つように思えますが、世代を越えた現象であることを確認できるのではないでしょうか。平成21年度「国語に関する世論調査」では「新聞を読む頻度」を取り上げ、平成18年度調査よりも「新聞を読まない」との回答が4%近く増えて24.1%となった点も併せて考慮すると、活字離れの傾向は間違いなく進行しているとみるべきでしょう。

表3 読書量が減った理由

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 読書量が減った理由については、「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」とする回答が最も多いことと、若年世代ほど「携帯電話やパソコン、ゲーム機などで時間をとられる」とする人の割合の高いことが分かります。

 私見によれば「仕事や勉強が忙しい」から読書できないというのは、本当の理由ではないと考えます。読みかけの文庫本や新書が面白くて関心を惹かれると、昼休みのわずかな時間を使ってでも、読もうとするのが読書だと思うからです。読みたい本さえ明確であれば、寸暇を惜しんででもするのが読書―これが、私の読書観です。社会人であれば、これくらいの努力をしない限り、読書なんてできないでしょう。

 ただ、単純に活字離れが進んでいるというわけでもなさそうです。とりわけ、この2~3年のスマホの急速な普及は、若年世代にとどまらず、世代を越えた趨勢となりました。それは、「活字離れ」につながる全般的な傾向を強めただけでなく、読書に対する姿勢や言語の使い方の衰退や変化を生み出してきたのではないでしょうか。

 作家の高村薫さんは、インターネットによる言語と言語能力の破壊について指摘しています(対談「姜尚中+高村薫―『不穏の時代』を生きる、書く」、雑誌『すばる』、集英社、2013年1月号、108-125頁)。

 「近年は最先端の文学を読める方と、もう全然読めない方とにはっきり分かれて」きており、「読める・読めないの違いを生んでいるものを一言でいえば、やはり言語能力ということだろうと思うのです」。

 「実は、インターネットが破壊した、もしくは変化させたものの一つに、言語があります。多くの情報を効率的に発信することだけが問われるネット世界で、言語の記号化が加速するのは自明のことです。記号のやり取りによって、全体として言語能力も衰えていきます。なぜなら興味のあるもの、関心のあるものにしかアクセスしないので、迷ったり、悩んだり、驚いたりということが基本的にない」。

 「人間の思考能力は、ああでもない、こうでもない、だけどこうだという、複雑な思考によって鍛えられていくもので、その営みがなくなれば言語は自動的にやせ細ってゆきます」。

 確かに、facebookやTwitterを眺めていると、お愛想のような「いいね!」の連発や、ある事柄に瞬間的に反射して出てきたような短いコメントのオンパレードをみるのは日常のこととなりました。あるニュース番組でインターネット上の「つぶやき」をビッグデータとして紹介しているのも、ネット世界における関心の方向を量的に知ることにはなっても、「つぶやき」の質や思考の運びの深みを何ら理解できるものではありません。

 人間にとって、言語は思考の道具として必要不可欠なものです。たいした考えもなく浅はかな行動をとってしまうのではなく、どのように行動するかをあらかじめ「ああでもなければ、こうでもない」と言語を用いて考えます。

 ところが、ネット世界の言語は、まるでアクティング・アウト(行動化)としての「言語」という性格を持つまでになってきたのではないでしょうか。ここで言語は考えを深めていくための道具ではなくなり、反射的に吐き出された所産としての「言語」です。「反射的言語」とか「感情的言語」というようなものですから、じっくりと考えを深めるプロセスから言語が遠ざかっているのです。

 言語がこのような傾向を強めれば、単純に「活字離れが進んだ」というようなものではなく、場合によっては、人間性や文化の衰退や破壊にまでつながった現象と言えるかも知れません。

 しかし、読書の入り口としてのインターネットほど、便利なツールはありません。「こんなことを深めることのできる本はないかな?」と思ってネット検索をかけてみると、内容と視点の両方から読みたい本を絞り込むことができます。みなさんもせっかくの読書の秋、「けあサポ」のサイトから読みたい本にアプローチしてみませんか!


コメント


この記事を読んで、改めて自分の読書量が減っていることに気が付きました。確かに、携帯電話を手にしてからというもの、新聞に載っているようなニュースや、興味のある記事が手軽にインターネットで読めるようになったことで、紙に書かれた活字を読むという事が少なくなりました。電車の中でも、本を読んでいる人を見かけるのは一日に一人いるかどうかくらいです。これを考えると、インターネットの普及が文化を衰退させているということはその通りだと感じました。近年科学技術が発展してきているとはいえ、たまには本を読む、という事を忘れないようにしようと思います。


投稿者: ポンタ | 2013年11月19日 12:36

記事を拝読しました。
私見ですが、スマートフォンの普及等により読書量を減らした人の多くは、本を主にエンターテイメントとして楽しむ層ではないかと思いました。私自身がその一人ですが、スマートフォンで手軽にインターネットに繋がる事ができ、また身近に楽しめるものが増えた事で、読書という趣味に割く時間が減っているのは事実だと感じます。
ただ、こちらの記事や引用で使われている「インターネット」は、多くがSNSを指しているのではと感じました。ある本についての考察を、遠く離れた人と共に深める事の出来る掲示板や、感想や意見を記したブログなども、またインターネット上に存在します。これらがSNSに取って代わられている、という実態はあるかもしれませんが、私はインターネットそのものは、使いようによっては思考を深める事の出来るツールにも成り得ると思っています。


投稿者: ベルツリー | 2014年01月08日 00:11

私もスマホ普及による影響で、最近本を読む機会が少なくなった者の一人です。本を読まないことは自らの知性の成長を妨げることになると考えているので、本を読まない人が増えていることは残念です。とある物の普及によって別の物が淘汰され始めることは、仕方ないかもしれないと思う時もあります。ですが、読書によってしか得ることのできないものも存在するということを、改めて気付かされました。今後は読書の機会を増やしていこうと思います。


投稿者: taka | 2014年01月08日 00:21

確かに最近読書をしている人を見かけることはめっきり減っていると感じます。やはり大きな理由としては、近年パソコンやスマートフォンが急速に普及し、TwitterやFacebookなどのSNSを閲覧する人が増えたことがあげられると思いますが、それに加えて携帯音楽プレーヤーの普及も大きな要因の1つになっていると私は思います。昔は電車内などの隙間時間は本を読む人が多かったです。しかし最近特に私たちのような若い世代の人は、隙間時間はとりあえずSNSを眺めたり、音楽を聞いたりしています。今後本を読む人は更に減っていくでしょう。
本を読むことが減る、つまり活字離れが進むことで、現代の人々には昔の人と比べてどのような良くないことがあるでしょうか。私は、語彙力や適切な言葉づかい、表現方法などを読書から得ることが減るので、言葉を用いたコミュニケーションがより稚拙なものになってしまうのではないかなと思います。言葉を用いたコミュニケーションは、人間の生活の根底にあるものなので、このままでは良くないのではないかと思いました。


投稿者: ゴン太 | 2014年01月15日 22:33

私も最近、電車内で新聞や本を読んでいる人が減り、その一方で大多数の人がスマートフォンを操作している人が多いと思いました。活字離れが進んでしまっている中、私は大学に入ってからの方が以前よりも読書をするようになりました。私の周りで(勉強的な意味ではなく思慮が深いなど、)頭が良いなと思う人は大抵“普通”に本を読んでいます。私もそのようになりたいと思い、本を読むようになりました。インターネットは上手に使えばとても役に立つものです。しかし、読者をしなければ失ってしまうもの、読書によってでしか得られないものもあります。だから、私は「暇なときにはスマホ」ではなく「暇なときには読書」となるようにしてゆきたいと思います。


投稿者: Tramp | 2014年01月16日 08:57

インターネット、とりわけスマートフォンの普及により必要な情報が手軽に手に入れることができるようになったが、先生の指摘するように、活字離れも同時に進行しただろう。
私が活字の大切さを実感したのは高校2年生の時だった。元々小説中心に読書は好きで、年間100冊程度は読んでいたが、活字の大切さなんて普段感じたことはなかった。
そんな折に、父に新聞を読むように促されたことをきっかけに、それまでTV欄しか見ていなかった新聞を朝だけ読むようになった。
最初は全体に目を通す程度で、テレビで聞くニュースがたくさんあるのにわざわざ新聞で読む意味がわからなかった。しかし、2週間もすれば私の新聞に割く時間は明らかに増え始めた。一面から地方のニュースをよく読んだ後、社説に行くのは定番の流れになった。
特に私の好きだったのは社説で、短い文章の中で読ませる内容に舌を打ったものだった。
それからが、私の文章力のピークだったように感じる。語彙力はもちろん、文章構成に余計な時間がかかることはなくなった。
また新聞の素晴らしいと感じたところは、地方に根ざした情報に富んでいる点である。他にも、特集で歴史など、時事から飛んだ分野を取り上げていることも多い。これは、情報を自由に選択できるスマホやテレビではなかなか入ることの無い情報であろう。こういったところからたまたま気になった記事を読むことは新鮮で、教養に繋がった。
新聞が私にもたらしてくれたことはもうひとつある。それは拾い読みという技術である。
朝、朝刊を読むというのはとても贅沢な時間で全ての記事を読むことは難しい。そこで必要度や関心度に応じて、拾い読みと熟読を使い分ける。この読み方は普段の読書でも、国語の授業でも役に立ったものだ、もちろん現在も。
ながながと私が新聞の良さを訴えたところで、新聞の売れ行きの悪化は変わることはない。新聞もスマートフォンで読める時代がすでに来ている。しかし、便利さとアナログのいいとこ取りをすることが大切なのは言うまでもなく、現代人に失われがちな語彙力や、漢字能力、はや読み拾い読み、スマホや現代技術の元では必要とされないと思われるかもしれない、しかし他の大勢が失ったものだからこそ、自分が持っていることに価値があるということに、多くの人は気づくべきであると、先生の日記を拝見して改めて実感した。


投稿者: aynt | 2014年01月20日 16:16

インターネット、とりわけスマートフォンの普及により必要な情報が手軽に手に入れることができるようになったが、先生の指摘するように、活字離れも同時に進行しただろう。
私が活字の大切さを実感したのは高校2年生の時だった。元々小説中心に読書は好きで、年間100冊程度は読んでいたが、活字の大切さなんて普段感じたことはなかった。
そんな折に、父に新聞を読むように促されたことをきっかけに、それまでTV欄しか見ていなかった新聞を朝だけ読むようになった。
最初は全体に目を通す程度で、テレビで聞くニュースがたくさんあるのにわざわざ新聞で読む意味がわからなかった。しかし、2週間もすれば私の新聞に割く時間は明らかに増え始めた。一面から地方のニュースをよく読んだ後、社説に行くのは定番の流れになった。
特に私の好きだったのは社説で、短い文章の中で読ませる内容に舌を打ったものだった。
それからが、私の文章力のピークだったように感じる。語彙力はもちろん、文章構成に余計な時間がかかることはなくなった。
また新聞の素晴らしいと感じたところは、地方に根ざした情報に富んでいる点である。他にも、特集で歴史など、時事から飛んだ分野を取り上げていることも多い。これは、情報を自由に選択できるスマホやテレビではなかなか入ることの無い情報であろう。こういったところからたまたま気になった記事を読むことは新鮮で、教養に繋がった。
新聞が私にもたらしてくれたことはもうひとつある。それは拾い読みという技術である。
朝、朝刊を読むというのはとても贅沢な時間で全ての記事を読むことは難しい。そこで必要度や関心度に応じて、拾い読みと熟読を使い分ける。この読み方は普段の読書でも、国語の授業でも役に立ったものだ、もちろん現在も。
ながながと私が新聞の良さを訴えたところで、新聞の売れ行きの悪化は変わることはない。新聞もスマートフォンで読める時代がすでに来ている。しかし、便利さとアナログのいいとこ取りをすることが大切なのは言うまでもなく、現代人に失われがちな語彙力や、漢字能力、はや読み拾い読み、スマホや現代技術の元では必要とされないと思われるかもしれない、しかし他の大勢が失ったものだからこそ、自分が持っていることに価値があるということに、多くの人は気づくべきであると、先生の日記を拝見して改めて実感した。


投稿者: aynt | 2014年01月21日 12:00

コメントの確認


記事を拝読し、表2で現代人の読書量の減少という現状がわかっており、その現状に至る原因は様々があると思います。電車の中で、夢中でスマートフォンやゲーム機の世界に入り込んでいる人が多く見えます。携帯依存症になっている人の数が上昇してしまいました。スマートフォンとゲーム機の普及は読書量が減少する一つの要因ではないかと自分が考えました。
自分が中国からの留学生で、つい前に、中国語で書かれた、中国人の読書量についての記事を読んでいました。国別の一人当たりの年間読書量を数字化にしたもので、中国人が0.7冊で、それに対して、韓国が7冊、日本が40冊、ロシアが55冊といったデータが明示されていました。一つの町にある本屋や図書館の軒数がわずかであり、その代わりに、インターネットバーや麻雀屋が圧倒的に多いです。そういった中国の現状で、人が知識を得ることがその環境に奪われ、人の脳力がどんどん鈍くなり、「低知能社会」に陥る恐れはもう冗談ではないと思っています。
話が遠く離れ、本題に戻ります。日本人の読書量が世界のトップクラスであるため、「低知能社会」というような危険な状況は絶対ないが、読書量の減少という現状になったので、人の読書に対する意欲をどうにか喚起しないとそのままどんどんひどくなると思います。本に書かれ内容は人の知恵の結晶であり、それを吸収することによって、人の知識量も当然知らず知らずのうちに多くたまっていくはずです。スマートフォンを発明した人は必ず毎日携帯をいじっているわけではなく、ゲーム機を発明した人も絶対毎日ゲームをやっているわけがないと思っています。どうせ電車での時間を潰したいならば、自分に溜めになれることをやったほうがいいと考え、スマートフォンでゲームをやったり、ツイッターでつぶやいたほんとに何も得るものがないです。


投稿者: mayday | 2014年01月21日 21:55

私も読書をする習慣がなかなかないので今後は読書の機会をもっと増やして行きたいです。
そして最近は交通機関などで皆が皆首を下に向けて「スマホ」をいじっている光景がよく見られますが、私にはとても異様に思えます。普段の生活を便利にするための道具に支配されている気がしてなりません。もう少し周りに目を配ることも必要なのかなと思います。


投稿者: キノコ | 2014年01月22日 08:08

記事を読み、「人間にとって、言語は思考の道具として必要不可欠なものです。」という言葉にはっとしました。なぜなら私が日々もやもやと自己嫌悪に陥る原因はこれだと気付かされたからです。私は自分の感情や主張を上手く伝えることができません。そもそも自分の考えなどないということが多々あるのです。何かを感受しても、心の中や頭の中にある新鮮な浮遊体(思考や感情)を上手く言葉に変換することができず、表出するときにはそれが腐敗してしまう、または思考への路線変更をも行われないといった感覚なのです。私には思考をするためのツール、「言語」が足りないのです。言語の獲得は読書にありますが、お察しのように私は読書が嫌いです。幼い頃からそうでした。しかしこの記事を読み、否定的な見方をされる、いわゆる現代型の人間になりたくないという思いもあり、言語、いや思考の獲得のためにも、読書をしようと強く思えました。


投稿者: ゆー | 2014年01月22日 10:21

記事を拝見させて頂きました。
私も最近は本を読むことが少なくなっていると感じています。同時に「スマホ」をいじることがとても多くなり、私自身依存しているのかもしれませんね。最近では大半の人が電車やバスの中で「スマホ」を片手に顔を下に向けています。私にはこの事がとても異様な光景に感じられます。外にいるにも関わらず外に関心が全く向けられていない、自分たちの生活を便利にするものに支配されているように思えます。私は外にいる時はできるだけ「スマホ」はいじらないように心がけています。もっと外の世界に触れていくべきだと思います


投稿者: エミネム | 2014年01月22日 12:25

 外出先で、文庫本を読んでいる人を見なくなりましたが、この原因はやはり携帯の普及、特にツィッターなどのSMSであると思います。私たちは、知人と一緒にいる時に知人をそっちのけで本を読むということはあまりないはずです。そしてかつては、数少ない一人で過ごす時間に読書を楽しんでいたのでしょうが、その一人で過ごす時間が携帯によっていつでもどこでも誰かと繋がっているために、なくなってしまいました。それが、本を読む人が少なくなった原因だと思います。
 個人的にはいつでも誰かと繋がっていて自由な時間がないなんて嫌ですが。


投稿者: イコ | 2014年01月22日 12:40

私自身はスマホを所持していませんが、電車に乗った時や大学の講義室などでふと周りを見渡した時にスマホを操作している人の多さに驚き、またいつの間にここまでスマホが普及したのだろう、と少し不思議に感じたことがあります。また、言語の記号化に関して、スマホと共に広まったと思われるTwitterなどのSNSで見られるネットスラングがその言葉を使う者と見る者に単純化された共通の概念を持たせ、深く思考することなく言語を使用させていると思います。そして、そうした考えることなく読める文章にばかり慣れてしまうと、いざ論理的に書かれた本などを読もうとしたときにその文章の言いたいことを推測、理解することが大変になってしまうのだろうと思われます。私も最近はネット上の文章は読めても新書を読むと集中力が持続しないと感じたので、もっと考えて言語に触れるようにしていきたいです。


投稿者: wave | 2014年01月22日 12:40

 かつての電車内では老若男女を問わずして読書に勤しむ姿が垣間見られ、日本国民の民度の高さや勤勉さを証明するかのような光景であったが、それは遠い過去のノスタルジアとなってしまったようだ。
 
 シェイクスピアの生きていた頃の英国人男性が一生涯をかけて獲得した知識量はNewsweek誌1冊分程度であったという研究がある。そして現代を生きる我々が一生涯で触れるであろう情報量はその比にならないレベルの莫大な量である。当然、情報の取捨選択が必要となってくる。我々が情報を取捨選択する上で「言語の記号化」を行ってしまっているのは、適者生存の理としてある程度までは仕方がないということである。しかし、先生のおっしゃるように、「反射」では思考能力がやせ細ってしまうし、何より物事の深層(真相)へとたどり着かない。
 
 昨今、有名進学校である灘高校で行われていた「スローリーディング」の授業が話題となっているが、それに取り組むのも良いかもしれない。文章の背景や文脈、主張を読み取る能力が読解力であり、真理や世界の有機的な関連性、深層へ辿り着くことができるのではないだろうか。


投稿者: 跳び王まんじろう | 2014年01月22日 13:59

スマートホンによる普及は時代の流行であり、便利さや手軽さを重視した結果の表れだと思います。私は常日頃から本を一冊持ち歩くよう心がけているため空いた時間には目を通すようにしています。しかし、本とは違いインターネットからの情報は著しいものがあり、いじっているとすぐに時間が過ぎてしまうことが多いです。この記事を拝見し、読書に対する思いが強くなりました。これからも本を読み続け、自分なりに教養深めていこうと思いました。


投稿者: あべし | 2014年01月27日 19:30

近年ではスマートフォンが普及してきてtwitterやlineなどが流行してきました。そういったものではできるだけ早く返事を書かなければと、文章を反射的に返してしまいがちです。そのせいで読書のように言葉をじっくり考えるという機会が少なくなってきてしまいました。
言葉を早く返さなければならない現代の社会だからこそ、言葉としっかり向き合うために活字の本を読むべきだと思いました。私も時間を見つけて読書をしていきたいと思います。


投稿者: ともち | 2014年01月28日 08:55

大学に入学して気づいたことは、今までよりも読書量が減っていることです。小学校や中学校の頃は、本を読むことが大好きで、学校や家の近くの図書館に行って本を大量に借りて読んでいました。今まで「勉強が忙しくて本を読む時間がない」と言い訳していたのですが、この記事を読んで、本を読む時間はないのに、携帯やパソコンなどを使っている時間はあるのだな、と思いました。読書量が減ったのも、高校から自分の携帯やパソコンを持ち始めてからだ、と気づきました。これからは、SNSを使っている時間があれば、小学校の頃の自分のように、好きな本を探し、知識を増やすためにも読書をしたいと思います。


投稿者: ぱぴ | 2014年01月29日 00:14

記事を拝読させて頂きました。
私自身あまり読書をしない現代人のうちの一人だと思います。さまざまなデバイスの登場によって現代人の活字に触れる機会が減っているのが現在の状況であると思います。しかし、私は過去に電子辞書に入っていた序章だけの作品を読み、続きが気になりその作品を購入した経験があります。これはほんの一例に過ぎませんが、この情報化社会を逆手に取ったアイディアが生み出されれば、読書が広がっていくチャンスはまだまだあるように感じられます。


投稿者: ラップトップ | 2014年01月29日 04:16

最近ではスマートフォンの普及でインターネットがより身近になりました。自分の知りたいこともあっという間に知ることができます。短時間でより多くの情報を手にできるので、本を読むという行為よりも効率の良い方法を私たちは利用してしまいます。ですが得た情報一個一個は自分が長い時間苦労して調べて考えたものではないから、結局は時間が経つと自分の中になにも残りません。思考力低下や言語力の低下が叫ばれているのはこうした効率の良い方法が繰り返し行われてきたせいだと思いました。


投稿者: momoko | 2014年01月29日 09:19

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
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