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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

二つの対談から

 師走に入り、二つの対談に眼を通しました。『姜尚中+高村薫-「不穏の時代」を生きる、書く』(雑誌「すばる」2013年1月号、集英社、108-124頁)と『斎藤環+土井隆義-若者のキャラ化といじめ』(雑誌『現代思想』2012年12月臨時増刊号、青土社、22-41頁)です。これらはそれぞれに異なるテーマを論じていますが、それぞれに指摘される現状の問題点に、私は通底する深刻さを感じました。

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 それぞれの対談は、多彩な論点とゆたかな内容を論じています。さまざまな立ち位置の読者が自らの座標を確かめながら課題意識を熟慮するためには、まことに有益な対談です。ぜひ一読をおすすめしたいと思います。ここでは、その内容のすべてに触れる訳にはいきませんから、問題指摘に通底する部分についてのみ言及しておきましょう。

 それは、インターネットなど情報インフラの整備普及に伴うコミュニケーション・情報量の飛躍的拡大と、人間同士の間柄の希薄化または断絶という相反する事態の進行についてです。

 『姜尚中+高村薫』では、次のくだりがあります。

 まず、姜尚中さんは、「人間と人間の断絶」の深刻化が情報インフラの整備とパソコンやスマートフォンの普及とともに生じ、「みんながつながっているってここ10年くらい思ってたんですけど」、「なぜあんなちっぽけな島をめぐって国と国とがギクシャクしなければならないのか」と指摘します。

 それを受けて、
 高村「政治はコミュニケーションと姜さんはおっしゃいましたけれども、コミュニケーションが成立するためには、コミュニケーションする者同士の間で、共通の認識の基盤が必要になります。ところが、インターネットの普及-2000年以降だと思いますが-によって、いまや無限に近い情報に誰もが簡単にアクセスできる。そこで何が起きたかと申しますと、共通の認識の基盤をつくるどころか、むしろそれを破壊することだったのではないか。(…中略…)そうして、私たちの間にコミュニケーションを成立させるはずの共通の話題や、共通の常識・認識が、気がついたらなくなっていた。」

 「実は、インターネットが破壊した、もしくは変化させたものの一つに、言語があります。多くの情報を効率的に発信することだけが問われるネットの世界で、言語の記号化が加速するのは自明のことです。この記号のやり取りによって、全体として言語能力も衰えてきます。(…中略…)人間の言語能力は、ああでもない、ここでもない、だけどこうだという、複雑な思考によって鍛えられていくもので、その営みがなくなれば言語は自動的にやせ細ってゆきます。」

 そして、多くの人たちの共通の基盤が破壊されたところで、最後に残る共通の認識が「国家」しかなくなることによって、日本が戦争の当事者になる「リアルな『戦争の危機』を前に」というテーマが語られて対談が締めくくられています。


 『斎藤環+土井隆義』には、次のような部分があります。

 土井「大人たちがイメージするコミュ力とは、多種多様な人間たちと理解しあえる能力とか、自己表現を巧みにできる能力かもしれませんが、子どもたちにとってのコミュ力とは、じつはそういうものではなくて、場の空気を敏感に察知して自分だけが浮かない能力とか、場にあったキャラを巧みに演じ分けられる能力なのです。」

 斎藤「携帯電話やインターネット、さらにはネット上のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)といった多様なインフラは、若い人たちに、もっと早く・もっとたくさんコミュニケーションをせよという強迫的な唆し(そそのかし)として機能した面があったのではないでしょうか。」
「(その一方で)内面に踏み込まない作法-土井さんがおっしゃる『優しい関係』を維持する態度-これは『重い話』を嫌う風潮と重なるのではないかと思うのです。(…中略…)コミュニケーションの量が多ければ多いほど、その関係性が希薄になっていくという傾向があると私は考えています」

 土井「リアルな関係ではなかなか自己開示できないので、ネット上で自己開示するという傾向は、たしかに一時期はかなり強かったと思います。ウェブ日記などはその典型でした。しかし最近ではそれも難しくなっているのではないでしょうか。リアルな関係を延長し、それをさらに濃密化するための手段として、ネットが使われる傾向が強まっているからです。」

 斎藤「ネットがリアルな人間関係の上書きにすぎなくなってきているというのはまったく同感です」

 そして、多くの子どもたちが全人的な関係を喪失したところで、場の空気に合わせるためのキャラ化と解離状況(人格を別に統一しなくてもいいとする状況)が進行し、今日の周囲からは見えにくい「いじめ」が深刻化していると指摘しています。

 現代のインターネットを通じた膨大な情報量とコミュニケーションの強迫化は、人間関係を希薄化することによって、人間同士の暴力を多様なかたちで噴出させているように思えます。国家間では「戦争への危機」が、子どもたちの間では「いじめ」というかたちでです。みんながつながっているようで実はばらばらに孤立しているため、その緊張と不安のエネルギーを暴力やいじめに発現させつつ、誰もがこれらの暴力に対する責任の所在を喪失している点に真の問題の深刻さがあるのではないでしょうか。

 現代における「職場いじめ・パワハラ」も、虐待やDVも同様の本質を持つと思います。

 最後に、これらの対談の柱を付記しておきます。

『姜尚中+高村薫』
・「選び取った」末の「斜陽」
・断絶と「国家」
・アメリカという重力
・無力化する言論
・3・11の「言語化」は途上
・リアルな「戦争の危機」を前に

『斎藤環+土井隆義』
・いじめをめぐる事態は変わったか
・社会の流動化とコミュ力
・リアルの延長と化したネット
・スクールカーストと「いじり」
・大学ではいま何が起きているか
・クラスや学年をまたぐ経験を
・大人たちの役割とは
・ヤンキー文化がもたらす問題
・おわりに-これからのいじめ対策


コメント


テーマ『二つの対談から』を、読ませていただきました。

昔から身近にインターネットがあり、利用してきた。もちろんネット上で誹謗中傷などを目にすることも多々あった。授業中のプリントにもあったが、そのいじめを見ても「巻き込まれないように黙殺する」のは半数の人が思っているのは事実であり実際に目の当たりにしてきた。ネットがさらに身近になってくると同時に様々な問題が深刻化していき、この先これら問題を解決するのは自分達という認識はあるが、はたして解決する糸口はあるのかなど不安が残る。


投稿者: BIG.S2 | 2012年12月13日 23:35

インターネットの普及によって人間関係が希薄になっているという話ですが、それは時代がもたらした自明の理であるように感じます。確かに多方面の情報を簡単に入手でき、伝達手段や買い物などにおいても現在のネット環境は今日の暮らしに欠かすことはできません。しかしその便利なネット環境は人間同士の結びつきを壊していることも事実です。公園にいる子供たちはボールで遊んでいるのではなくネット通信対戦ゲームをしています。携帯電話で起こるいじめもあるようです。やはり人と人は向き合って会話をしたり、表情や身振りで気持ちを表現することで深い関係が築き上げられるものだと思います。ネット環境が無くてはもはや私達の生活は成立しませんが、それによって10年後100年後に人間の人間らしさ、ココロが無くなってしまうのではないかと不安に思います。


投稿者: YMGT | 2013年01月08日 02:39

現在、友達との主なコミュニケーションは携帯電話である。この情報伝達手段を持っていなければ友達関係に歪みが生じてしまうといっても過言ではないと、今の生活から感じてしまう。しかし、携帯電話では感情は伝わりにくく、誤解や、相手を傷つけてしまうこともある。便利さの反面、インターネットの持つ怖さを知り、うまく利用しながらこの社会を生きていく必要があると考える。


投稿者: きくきく | 2013年01月09日 16:35

インターネットがもたらした恩恵はさまざまあると思います。たとえば世界中の情報を素早くキャッチできたり、ネットショッピングなどで、外に行かず買い物ができたりもします。しかし、いいこともあれば悪いこともあります。コミュニケーションに関しては、インターネットを媒介に容易にとることができるようになったが、容易であるがゆえに心無い発言が増えています。なのでまず自分だけでも、そういったことをしないようにしていきたいです。


投稿者: いけ | 2013年01月09日 16:56

現在は、情報インフラの整備によって可能になったSNSなどを使ったコミュニケーションの影響で、昔の時代よりも人間関係の希薄化が進んでいる様に感じます。また、インターネットの普及により、いじめも深刻化しているように思います。しかし昔よりたくさんの問題がインターネットの影響によって深刻化しているからといって、インターネットを現在の社会から取り除くことはできません。だから、今深刻化しているとわかっている問題をどう解決していくかを考えていくことが、現在の、そしてこれからのインターネットと付き合う社会に必要だと思います。


投稿者: b.o.c | 2013年01月10日 01:08

『二つの対談から』を読ませていただきました。この記事に対する、私なりの今日の社会の捉え方と問題指摘をコメントにかえさせていただきます。

マスメディアと呼ばれるものを論点としてコミュニケーションのあり方は多く語られていると思います。テレビ番組を例にすると、「昨日のあの番組のあのくだりが面白かったね!」というような共通認識から生まれる会話が減っていると仮定できるようです。これは東京スカイツリーが象徴するような関心の多チャンネル化、もしくは関心のテレビ圏以外(インターネット圏)への発散などにあたると思います。

テレビを一例としましたが、様々なメディアのアフォーダンスの変化としてこれを捉えたとき、各社会において「ノリの合う奴が周りにいない(=友達がいない)」としている人達がいる場合の、彼らの親密圏の構成能力に関する問題化のプロセスが見え隠れしているような気がします。そのため以下を問題指摘とします。「元々親密圏の構成も含めたリアルでの充実を意図しているメディアを仮定として、充実させるものはリアルでしかないはずだったものが、バーチャルまで充実させる対象となっている点」です。

加えて以下は問題に対する私見です。様々な心理的事由からバーチャルの必要性が生まれたとしても、充実させるべきものはやはりリアルでしかないのではないでしょうか。彼らにとってのバーチャルはバーチャルではなくもはやリアルの一部なのかもしれません。しかし彼らという括り以外においてでも、遠くの国の戦争などより友人とのケンカなどに関心があるのではないでしょうか。情報は海を越えても渡ってきますが、大事にしたい人(親密圏を築きたい人)は大まかに近くやすぐ傍にいる気がします。何を充実させたいのか、何がそれに必要な情報なのかを見出そうとすることが、コミュニケーションや情報の強迫問題に対する糸口のように思えます。


投稿者: ウィル | 2013年01月14日 21:27

インターネットの普及により、本来人間が持つべき常識、秩序など、ごく当たり前の事が不透明になってきているような気がしてなりません。文章にすることは決して悪い事ではありませんが、受け取り方によっては凶器の塊でしかないと思います。もう少し相手を思いやり、手紙を書くような気持ちで接する事はできないのでしょうか。まるで人間が機械に支配されているだけの存在となっています。これらの要因として、現代のコミュニケーション不足が引き起こしていることではないでしょうか。コミュニケーション不足を解消するためには、国や地方自治体などが積極的に呼びかけ、誰でも気軽に参加できる交流の場を設けたらいいと思います。


投稿者: アメフラシン | 2013年01月15日 07:46

このテーマを読ませていただきましたが、インターネットによって子供たちのコミュ力が低下したのは、特に驚くこともなく当然の結果なのかなと思いました。この記事にも書かれているように今の大人たちにとってのコミュ力とは、「多種多様な人間たちと理解し合える能力、自己表現を巧みにできる能力」これらのような考え方だと思います。しかしインターネットや携帯電話などが発達をした現代では以前のように相手と直接話すというような機会が少なくなったため、コミュ力に対する考え方が変わってしまったのではないかと思います。相手と理解し合う方法がわからないためインターネットなどに依存し、その結果「いじめ」などが横行するようになり、ますます他人とのコミュニケーションが希薄化していく事態が発生していると思います。ネットや携帯電話といったものは今もなお発達し続けていますが、それによってますます人間同士の繋がりが弱くなってしまうのではないかと思いこれからが心配です。


投稿者: てんほー | 2013年01月15日 18:13

『二つの対談から』を読ませていただきました
この記事を読んでいてよく私が感じていたことを思い出したのでコメントさせていただきます。

私は昔からソーシャルコミュニュケーションツールがあまり得意ではありませんでした。それはなかなか新しい人間関係の構築に結びつかないと感じたからです。それは現状の関係の延長にすぎず、相手の反応がわからない分、過剰に気を使いすぎてしまい疲労してしまうからです。もちろんそれらのツールがもたらす影響は大きいとは思うのですが表面的なものにとどまっている印象を受けてしまいます。
持続的にコミュニュケーションを続けることに気を使いすぎて、相手の気持ちを考えて行動したり、本音を話して仲良くなったりすることをともすれば忘れてしまいがちになることもあると思います。
コミュニュケーションツールは本来の直接会って話すことの補完的な使用をするべきで、それに重きを置きすぎないほうが本当の人間関係の構築に結びつくのではないでしょうか。


投稿者: 塩らーめん | 2013年01月20日 22:30

インターネットの普及により、子供たちのコミュ力の低下や人間関係の希薄化という状況にあるのは否めない。しかし、ネット上でのみの人間関係はむしろ依存状態にあるのではないだろうか。誰かと頻繁に連絡を取り合ってないと不安になったり、他の人が今何をしているか気になったりと、周囲に対して過敏になってしまっているように見える。
いくらネット上での人間関係を築いても、リアルでの人間関係なしには本当の関係は生まれない。本当に大切なのはリアルであり、あくまでもコミュニケーションツールの一つであるネット上のつながりに重点を置くのはよくないと思う。


投稿者: るるる | 2013年01月21日 14:25

インターネット、SNSの普及は様々な利点を我々に与えました。しかしその反面、インターネットやSNSが人間関係の希薄化に影響を与えたことは紛れもない事実と言えると私も考えています。これまでは、直接話す相手の顔を見てコミュニケーションをとるのが当たり前のこととして存在していました。しかし、近年のSNSの発展によって、会わずともコミュニケーションを取ることが可能となりました。こういったSNS上でのコミュニケーションにおいて人間関係の希薄化や崩壊が促進されている一つの要因として、文字だけによるやりとりのために、相手の表情や感情、語気がわからず、誤解を招き、互いの気持ちや考えていることにずれが生じることにあると感じます。故に、コミュニケーションはあくまで直接会って話すことを前提とし、その上で人間関係を支え、補う程度のものとしてSNS等を利用することが重要であり、SNS等が主体となりえないような人間関係を築き上げることが必要であると考えます。


投稿者: 素振りをする素振り | 2013年01月21日 23:19

インターネットの急速な普及は私たちの生活に大きな利益をもたらしたと考えていた。しかし、このテーマを読んで、確かにネットの情報はサイトによって書いてあることはそれぞれ異なっていることが多く、それにより共通の認識の基盤が壊れている。そして、直接会話する機会も少なくなり、キャラを演じることで友達に好感を持たせようとしていると感じた。このような社会だからこそ、直接会話をすることが大切なのだと感じた。


投稿者: ほねつき | 2013年01月21日 23:28

このテーマを読ませていただきました。インターネットが普及したことによって、得たものは大きいと思いますが、失ったものも多くあるような気がします。コミュニケーション能力の低下、言語能力の低下・・・人として最も重要な部分が欠落してきているような気がして不安でなりません。今後、きっとこれらはさらに大きな社会問題となるのではないかと思います。


投稿者: delo.S2 | 2013年01月22日 10:02

インターネットの普及に伴い、私たちの生活は「つながる」ということに敏感になり、その思いに支配されているように感じる。いつの時代でも「誰かとつながっていたい」と思うことは当たり前のことで、何も悪い感情ではない。しかしその「つながり」というものが、自分自身のキャラを演じたり、場の空気を読んで仲間にいれてもらうといった歪みのある「つながり」になりつつあるように思う。「返信が返ってこないと不安になる」など、人々の生活を便利にするはずのインターネットが、人々の不安や心配の種となっていることも否めないだろう。また、ネット上でのいじめなど、複雑な問題が多々ある。そのような不安や心配から子どもたちを救うために、適切な情報教育が大切で、私自身もそのようなネット社会に支配されすぎないために、注意していきたい。


投稿者: のりん | 2013年01月22日 16:32

利用者の多いTwitterでは、ネガティブな感情をツイートするのは「鬱ツイート」などと認識され、否定的な見方や嫌悪感を示す人も少なからず存在します。そうした人たちを気遣って、暗黙の了解として「鬱ツイート」はなるべくしないほうが良い、と察することのような、場に応じた判断ができることが今の若者に必要とされている「コミュ力」なのだと思います。私には、この「コミュ力」は自分だけ浮いてしまう、友達に嫌われてしまうとかいう恐れの感情から生まれ出たもののようにも感じます。


投稿者: あるぱか | 2013年01月22日 22:39

TwitterなどのSNSについては、(初めてその存在を知ったときは娯楽的な要素が強いツールのように感じていたものだが、)だんだんと周囲に利用者が増え、それぞれと“フォロー”し合っていくことで、オンラインでの人間関係とリアルな人間関係がニアイコールの関係になり、気づくと現実に深く寄り添う場所になってしまっている、といったパターンを生むことが多いと思う。ネットがコミュニケーションをとらざるを得ない状況を創りあげ、コミュニケーションを強迫化しているのは間違いないと感じる。
また、リアルとネットでの関係性が似ているのに、その場その場でやりとりを円滑に行うために意図的・または無意識にネット上でリアルの物とは異なったキャラ付けをしてしまい、それらを扱いきれず自己矛盾に陥っている若者は少なくないと思う。人々の間に共通の基盤もなく、自分の中でもオンラインとそれ以外でのキャラのギャップがあればコミュニケーションが苦しくなっていくのは当り前である。ネットで情報を集めることもネット上で発信ややりとりをすることもリアルの自分ありきの物だと私は考える。オンラインでの他人・自分に必要以上に振り回されず、自分にとって本当に大切な物を見極められることが望ましいと思う。
紹介されている二つの対談自体にも強く興味を引かれたので是非読んでみたい。


投稿者: su | 2013年01月24日 09:39

 「二つの対談」読ませていただきました。インターネット内では嘘と本当の区別もつかない、全てが常識のように見えてしまうことにあると思います。そして、私たちはその情報を記号のように機械的に捉えてしまっている気がするのです。
 友達とのコミュニケーションには携帯電話がおもなツールとなっています。そこから相手の本心を読み取るのは非常に難しいことであり、些細なことでのすれ違いが多々あります。個人個人の受け取り方は異なるからです。
 現代人の一番に気を使わなければならないのが、対人関係であり、その不安のもとがコミュニケーションの取り方がわからないことだと思います。人と人との距離が掴めなくて怖いから、安全だと信じ込んでいるインターネットの世界に入り込む、それを繰り返しているのです。
 そういった場の雰囲気を壊さないように生きていくことがコミュニケーションであるという考えが蔓延し、そのラインから少しでも外れたら自分を認めてもらえなくなるという共通の認識が幼いころから構築され、いかに同一であるかということを目指しているように思います。マイノリティは排除されるべきであるという、固定観念が強くこの社会に根付いているのです。
 一人一人の違いを寛容に受け入れるような社会にするには、広い視野を持つことだと思います。そして、誰しもが他人との繋がりを持つことを潜在的に望んでいます。そういったインターネットではなく、実際の交流の場で、自分で一から関係を築くことが大切だと思います。他人との関わりを持つのに恐怖を感じることもあるかもしれませんが、その分喜びや充実感を得られるからこそ、人と人とのコミュニケーションはやめることができないのではないでしょうか。


投稿者: すこんぶ | 2013年01月24日 17:26

 インターネットや携帯電話、特にスマートフォンの発展や普及によって、他人とコミュニケーションを取ることが非常に簡単にできるようになった。それによって生活が便利になったのは確かなことだと思うが、しかし、誰とでも簡単にコミュニケーションができるようになり、利点がある一方で、異なる意見のぶつかりも急激に増え、紛争の種になりかねない。そして、いつかインターネットが戦争の原因になることは不可能だと誰にも言えないと思う。
 また、インターネットを通じて、コミュニケーションの機会が非常に増えたが、それによって人のコミュニケーション能力は上がったどころか、むしろ下げられてしまったと思う。コミュニケーション能力の低下はまさにいじめなどの虐待の原因の一つだと思う。従ってどうやってインターネットなど便利な通信手段の副作用を避けながら上手く利用することは誰にとっても重要な課題だと考えている。


投稿者: mnigjing | 2013年01月24日 20:53

インターネットは様々な情報を得る上ではとても有効なコンテンツと言えるのでしょうが、人とのコミュニケーションとなるとどうなのでしょうか。たくさんの知り合いが増えたり、友人が今何をしているのかをチェックできたりする反面、ネット上での感情の伝わりにくさから思わぬ誤解を受けたり、匿名性によるいじめの増加など、インターネットの悪影響は顕著に現れています。最近はSNSの普及により、インターネット上でのコミュニケーションの重要度が増してしまい、本来大切なのはリアルでのコミュニケーションであるということを忘れている人が多いように感じます。インターネットがとても便利なのはもちろんなのですが、それゆえの怖さをしっかりと認識して利用する必要があると感じました。


投稿者: SU | 2013年01月25日 11:49

インターネットの普及によって、私たちにもたらされた恩恵は計り知れないものがあると思います。自分ではわからないことも、手軽に調べることもできれば、知らない相手とチャットなどを通じて議論することもできます。しかしそれは、直接のコミュニケーションの機会を減らす明らかな原因でもあります。わからないことを質問する、相手の身振り手振り、声のトーンから気持ちを読むという、実体を感じさせるコミュニケーション。それとは反対に、実体を意識させないコミュニケーションを可能にしたインターネットは、私たちの"察する"という能力を衰えさせているのは明白です。しかしこの能力が、私たちにとって大切なものではないでしょうか。相手の気持ちを考えなさい、その言葉を受けた人はどう思うだろう、など、いじめなどの問題が起きた時によくつかわれる言葉ですが、その能力が衰えているのは、利便性を求め作り上げられた今の環境が原因にあるのかもしれません。


投稿者: adrn | 2013年01月25日 13:33

私は「情報化社会」のまっただ中に生まれてきた。学生時代のコミュニケーションツールといえば、ほとんど携帯電話やパソコンを通じたものだった。だからインターネットがまったく無いという感覚は正直あまり分からない。しかし、ネットワークが発達すればするほど常に空気を読まなければならないというネットに特有の習慣が完全に浸透してしまったということは確かに感じる。その結果、現実の対話では本音を言えなくなり人間関係の希薄化が起こってしまったのだと思う。


投稿者: らすかる | 2013年01月25日 15:06

 今日、ネットワークはなければならないものになっている。しかし、前者にあったように情報が多すぎて共通の認識が持てないことは問題である。となると共通の認識を持つところから話を始めねばならず、本題どころでない、となるとも私は考える。
 空気に合わせたキャラ化は今日の大学生にもみられる。「無理してるな」と感じる。インターネットの普及で自分を見失った人も少なくないと感じた。


投稿者: くわがた | 2013年07月10日 15:45

インターネットの普及によって、人とのコミュニケーションが広がったようで逆に狭い人間関係になっていることは以前から思っていました。そして、それが若者において顕著に表れているということで、コミュニケーション力=その場の空気に合わせられるとなってしまうのでしょう。人と離れていてその息苦しい「空気」から解放されているのに、自ら何かしらのメディアを介して再び狭い「空気」に入りこんだり、もしくは自分をキャラ化させて普段とは違う自分になったりしている人が増えていると感じました。


投稿者: はるなつ | 2014年01月29日 10:12

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
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