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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

弔いと希望

 忌まわしい2011年が終わろうとしています。数えきれない苦痛と苦悩が、多くの人たちを苛んだ一年でした。

 東日本大震災の被災地の子どもたち80人の作文集『つなみ』(雑誌『文芸春秋』2011年8月臨時増刊号)を読みました(以下は、一部抜粋)。

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 「一時間くらいたって、まどから見た物は、津波から泳いでひっしに逃げている人がみえました。でもけっきょくは、おぼれてしまいました。そしてまた、たてつづけに見た物は、車から出れなくて、たすけをもとめている人が見えました。何分かたって、その車はしずんでって、もうしずんだって時に、ギリギリわかい人がたすけにいって、三人はたすかったけど、一人はさむさで死んでしまいました」(石巻市釜小学校5年廣瀬迅人「妹にやっと会えた」、同書67頁)

 「俺は人生でこんなにも全速力で走った事はないくらい無我夢中で走り続けました。小学校の体育館でやっと大泣きし、興奮状態の妹を見つけ、何があっても妹の手を離さないぞと思っていた瞬間、体育館にも津波が入ってきて、俺は妹を背中におんぶして人波をかき分け、校舎に向かったのですが、みるみるうちに波が押し寄せ、あっという間に腰まで水に浸かりました。やっとの事で校舎に入り、妹を落ち着かせました。

 段々と暗くなり、そして寒くなり、真っ暗な中で家族と離れ、連絡もとれない不安で不安でたまらない一夜を過ごしました。

 次の朝早く、小学校の保健室に熱の出た妹を頼み、腰の上まで水につかりながら、家族を探しながら、自分の家まで行ってみました。その途中、そちらこちらに逃げ遅れて死んだ人達が浮かんでいたり、車に乗ったまま死んでいる人でいっぱいでした。」(東松島高校1年鈴木啓史「頑張るぞ俺達家族!」、同書75頁)


 震災は、実に過酷な体験を子どもたちに強いました。しかし、この文集の作文の多くは、過酷な現実を子どもたちの眼がリアルに捉えているとともに、明日への希望をも現実の中からみようとしているところに子どもたちのもの凄さがあると、本当に心を動かされます。

 「私の命は、今も音をたて、動いています。
 それがわかると、うれしくて、いつも心の中で思います。
 『私は今、生きている』ということを。」(気仙沼中学校2年斉藤日向子「赤く燃え上がる炎と黒煙」、同書122頁)

 「災害にあって、本当に人の優しさがわかりました。これからも、世界中の人に感謝して、いつか恩返しできることを信じながら、元気に生きていきたいと思います。」(名取市関上中学校2年小齋可奈子「世界中の人に恩返ししたい」、同書35頁)

 「困っている人がいたら、ぼくもたすけてあげたいです。そんなつよくてやさしい人になっていきたいとおもいます。」
(南三陸町志津川小学校1年山内友陽「つよくてやさしい人になりたい」、同書81頁)


 作家の藤本義一さんは、大阪大空襲(1945)の体験者であり、阪神淡路大震災(1995)の被災者でもあります。大空襲と戦災孤児が街にあふれた過去をくぐり、自らの「生きている」から「生かされている」への体験を経てきた藤本さんは、阪神淡路大震災で被災した子どもたちに心のケアをするための児童厚生施設「浜風の家」を1999年につくりました(http://www.hamakaze-no-ie.or.jp/)。

 藤本さんは『震災いま未来-体験は風化しない』(神戸新聞2005年1月5日)の中で次のように語っています(http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200501mirai/04.html)。

 「震災後、子どもたちの心のケアをする『浜風の家』を芦屋につくった。意外だったのは、震災で子どもを失った母親たちがやって来ること。来て、震災で親を亡くした子どもたちと交流する。最近は不登校の子どもたちも来る。想像しなかった展開になっている。」

 「最近の日本人は個の世界にどんどん萎縮している。他人とは中身のない携帯やメールのやりとりばかりで、人とのつながりが変質している。『浜風』にやってくる母親たちは傷ついた子どもと触れ合うことで、それに気付くのやないのかな。」

 「震災によって、自分再発見、人間再発見の機会が与えられたということかも分からんね。」


 人間は自身の苦悩や苦痛の体験から、呪いや恨み(ルサンチマン)の連鎖を編み出すこともすれば、心温まる「贈り物」の循環を創り出すこともできます。

 障害のある人を主人公とする小説『人間の絆』を著したウィリアム・サマセット・モーム(1874-1965、イギリスの作家)は、自身が若くして肺を患い、吃音症に悩む青年期を送ったと言われています。そのモームは、ルサンチマンにもとづいて平等と権利に反対し超人による君主道徳を唱えたニーチェを批判して、次のように述べています。

 「苦痛は有害である。苦痛が人を高めるという考えは馬鹿げている。苦悶を賛美するニーチェは、寓話の中の、尻尾を失った狐に似ている(宗澤注-イソップ物語の「尻尾を失った狐」)。苦痛が人間の性格を強くするという彼の議論は、言いかえれば、苦しむ者は復讐を欲するということになるのだ。彼の考える強さとは、自身が耐えている苦悶をあえて他人に加えて得る快楽に過ぎない」(サマセット・モーム全集第26巻『作家の手帖』、1955年、新潮社)

 作文集『つなみ』を綴った子どもたちは、いつかきっと「喪失体験の受容」をくぐり抜けて、贈り物の連鎖を創りはじめるでしょう。それは、わが国に新しい型の「絆」を繰り出し続ける、みんなの希望にほかなりません。
 2011年を振り返り、被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げるとともに、震災でお亡くなりになられた方々へのご冥福を祈念申し上げます。


コメント


東日本大震災が発生したとき僕は悠々と寝ていました。地元が西日本で揺れは全くなく、起きてテレビをつけると現実で起きたこととは信じられない映像が飛び込んできました。宮城に親友がいたので至急連絡を入れたのですがすぐに返事はなく、数日後返事が来た時は涙が出そうになりました。そして自分が初めて現実に起きたことなんだと実感したのは埼玉大学に入って震災の話を友達としていた時でした。その友達の家が津波で流されたと語っていました。普段は明るく気さくな友達からその話を聞いたときかなりの衝撃でした。どう話を返したらいいか分からず戸惑ってしましました。実際に震災によって家族を失った人も数え切れないほど存在し、さらには原発事故をも発生させてしまったこの真実を風化させてはならないと思います。


投稿者: spsp | 2011年12月29日 17:25

私が今回の東日本大震災で最も強く感じたことは一人で生きる、ということをどれだけ現実的に考えていないか、ということでした。おそらくどんな人も昨日まで親しくしていた人が、明日になったらもういない、などと考えている人はいないと思います。でも、今回の地震は、そういうことがあり得るんだと考えさせられるひとつのきっかけになりました。親しい人が生きてくれている-それがどれだけ自分の支えになっているか、また、そのことがどれだけ自分にとってありがたいか、考えるきっかけとなりました。年月が過ぎても今回の地震で起きたことを忘れず、周りの人へ感謝し続けることが大切だと私は思います。


投稿者: 松葉 | 2012年01月03日 18:16

『つなみ』の作品を読み、私が東日本大震災についてあまりにも無知であることに気付かされました。メディアから報道されている情報だけを見て、東日本大震災がどのようなものであったか、なんとなく理解した気になっていたのだと思います。私が得ていた情報は、『東日本大震災』という言葉で、被災した人々や地域、その他被害状況などがどこか一言で言いくるめられてしまっているようで、本当は全くその本質を見れていない、ごく一部の情報だったということがわかりました。
このような子どもたちの生の体験は、文章を読んでいるだけでも心が苦しく、胸が締め付けられるような思いになります。しかしそれと同時に、震災の現状や人間の生きる強さを知ることができました。
どんなに大きな災害であっても、いずれは過去の出来事になってしまいます。前を向こうと懸命に生きる被災地の方々の後押しをするためにも、そこにいた人々の生の体験を、日本中、あるいは世界中の人々がもっと共有していくべきなのではないかと思いました。


投稿者: こむぎ | 2012年01月04日 22:35

2011年、このような大災害が起きてしまったことで、改めて自然への恐怖を感じました。『つなみ』に書かれている被災地の子どもたちの文章はあまりにリアルで痛々しく、読んでいても苦しさが伝わってきました。けれども、それと同時に多くの子どもたちが「今、生きている」ということに大きな希望を抱いているということも感じ、自分も同じ日本国民として一緒に頑張っていこうという気持ちになりました。被災地の方々がこのような災害の中にあっても頑張る姿には本当に多くの勇気をもらいました。
災害がもたらしたものは悲劇や惨劇だけではなく、生きていることへのありがたさや希望、団結する力強い日本人の姿だったのかもしれません。


投稿者: ミルキー | 2012年01月06日 01:16

2011年3月11日の東日本大震災の時、自分はちょうど10日の飛行機で中国に帰った。
11日の昼まで寝ていったところ。母は、「速く起きて、日本 大地震だ、はやく向こうの友達に連絡して」
私も慌てテレビを付けてニュースを見ながらみんなに電話やQQメールしたですが、なかなか繋げなくて、返事も無かった。一安心になったのは、最後みんなから"大丈夫だ"って返事が来た。待つの間、本当にあの一瞬で命の貴重さや重さを感じられた。
地震の揺れ、津波、房舎の崩壊、あの時、やはり人間は自然に勝つことできないと思った。こんな災害があうと希望と信念を持って生きて行くしかないだろう。
日本人にとっては、2011年本当に大変な一年だ、だが、2011年もう過去だ、今は2012年だ、どんな困難あっても、どんなつらくても、(もちろん良いこともいっぱいだ)、今は新たな一年だ。決して過去を忘れるわけじゃないが過去を弔いながら、希望と信念を捨てずに前向いて生きて行こうとそう願っている。


投稿者: seven | 2012年01月06日 01:22

震災が発生した時に私は家にいたのですが、揺れ始めて慌てて外に飛び出すと家が激しく揺れ、瓦が落ちていく光景を目の当たりにしました。しかも、母親が2階から降りてきていなかったので「大丈夫だろうか」とすごく心配した記憶があります。揺れがおさまり、母親が無事だとわかった時はほっとしました。
しかし、数分後テレビをつけてみると東北地方を津波が襲っている映像でした。この時にまだ津波から逃れようと車で逃げる人たちも映っていて「早く高台にいってくれ!」と心の中で叫ぶ自分を思い返してみると今でも無力感にかられます。自分は生まれてからこのような災害を身近に感じたことがなかったので、経験することによって自然災害の恐ろしさを痛感しました。
ですが、もう1年近くが経つこの時期になると地震の恐ろしさを忘れてしまいそうな自分がいます。そんな自分と1日を大事に一生懸命暮らす被災地の人々を比較してみると自分が愚かに思えてなりません。だから、私は今は何もできないけれども、数年後に社会人になったら「困った人々に少しでも希望を与えられるような活動を展開していく」とこの場で約束したいと思います。


投稿者: s.y0123 | 2012年01月06日 13:30

2011年3月11日、東日本大震災が発生した時、私は友だちと高校に居て担任の先生に合格の報告をしていました。地元も結構揺れて電車がとまってしまったので、先生に車で送ってもらって帰りました。テレビをつけたら、今まで見たことのない映像が流れていました。毎日報道されるニュースを見ていて、日本はどうなってしまうのだろうと思ったことを覚えています。「つなみ」の作品を読んで子どもたちが見たリアルで過酷な現実が文章から伝わってきて、胸が締め付けられるような思いになりました。しかし、それと同時に、現実を受け入れ生きていこうとする希望や、日本中、世界中の人々の絆も感じることができました。東日本大震災の真実を忘れることなく、日本中が復興に向けて力を合わせなければいけないと改めて感じました。


投稿者: つばき | 2012年01月07日 22:36

 私の地元では震度5の揺れで大きな被害はなかったのですが、大きな恐怖を感じたのを覚えています。それ以上に辛い体験をしている子供たちのことを思うと胸が痛みます。
 この『つなみ』の作品を読んで、被災地の子供たちは私が想像していた以上に辛い経験をしていたのだと改めて感じました。これらの子供たちは立派に育ってゆくでしょう。私はそんな子供たちに負けないよう強く生きていきたいと思います。
 また、震災の復興に、募金をする程度のことでしか貢献することができないというもどかしさがありました。私は震災を通して、周りの人を助けられる人になりたいと思いました。


投稿者: ゆきりん | 2012年01月09日 14:51

 去年の3月11日、東日本大震災が発生したとき私は家にいました。私は実家の新潟にいたのですが結構揺れが長く続きどこかで一際大きい地震が起きているのではないか、とうすうす思っていました。すぐにテレビをつけると、そこには見たこともない映画のような悲惨な光景を見て胸が苦しくなったことはよく覚えています。子供たちの悲惨な現実への思いも痛々しく伝わってきました。
 ですが、先生の言うとおり子供たちにはそんな中でも希望を捨てていない、というのは当たってると思いました。
 昔新潟中越沖地震のときに避難先の市民会館で地震の影響でガラスが割れているのを真っ先に片づけていたのは小・中学生の子供たちでした。
 また自衛隊からの物品の搬入も子供たちが多く参加して運んだり、お年寄りのお話し相手としても活躍していたところを多く見ました。「大丈夫だよ、心配ないよ。」となだめるように子供たちがお年寄りの支えになっていた場面はいまでも思い出せます。
 それに見習えるよう、多くの人々が絶望の淵に立たされるときでこそ希望を見いだせることがどれだけ多くの救いになるかという大切さを学びました。自分も子供たちのそれらを見習えるべく、大災害が起きる起きない関係あらず困難なことに立ち向かえるような希望を忘れずにいられるよう努力します。
 またその希望によって人々の支えとなるなら今度は自分の希望によって困っている人を支えてあげられるよう努力します。


投稿者: フラステ | 2012年01月10日 15:49

 東日本大震災は日本中にとどまらず世界中に恐怖をもたらしました。波に埋もれる街、流されていく家や車、その無残な映像が私の頭に今も焼き付いています。そしてこのブログに掲載された『つなみ』の文集を読んで胸が苦しくなりました。私がこの震災で感じたことは人と人との絆です。
 被害を受けた数ほど心配する人の心や行動があり、それに救われたり、それを源にして生きる人々がいる、そんな風に強く思ったからです。それに義援金は今も絶えることなく続いています。
 情報機器が発達し、個人が自分の殻にこもりつつある今、未曽有の大震災を決して忘れることなく、これからも今まで以上に人と人の絆を感じ、互いに支えあって生きていくべきだと思います。


投稿者: つけまつげ | 2012年01月10日 23:51

 私は東日本大震災が起きた時間、自分の家の部屋にいてテレビを見ていました。最初の小さな揺れが起きた時はいつものような小さな地震だと思いなんの心配もしませんでした。
 しかし、本棚が思い切り揺れて、中の本が床に落ちていくのを見て、「これは今までの地震とは全然違う!」と恐怖に襲われました。最初は本棚を抑えていた自分も自分の命の心配をし、避難訓練のように机の下にもぐりました。
 地震がおさまって、早く地震についての情報を得ようと思いましたが、テレビも携帯もつながらず、今どんな状況の中にいるのかがわからないということがいかに不安であるかを実感しました。
 それから、計画停電が何度もおこり、節電をよびかける広告やCMをたくさん目にし、信憑性のないうわさに何度もふりまわされました。震災の時の津波から逃げる人々のテレビ番組もたくさん見ました。
 あれからちょうど10カ月である今日。それでもまだ10カ月しかたっていないとも思える今日。あの日から私の市は被災地の方をたくさん受け入れています。今まではただの田舎だと思っていた自分の町がこんなところで被災地の方々の役に立とうと立ち上がるとは、と思い誇りに思えるようになりました。
 また、皮肉なことながら、このようなつらい試練で、まわりの人や町、電気や水、食べ物が普通にある自分の環境に気づきました。東日本大震災で失った多くのものと、一方で気づくことができたこと、得ることができたものを忘れる事なく、毎日の生活の小さなことから感謝して生きていけたらなと思います。また、この震災をこれからの世代にも伝えていくことが大事だと思いました。


投稿者: セプター | 2012年01月11日 01:27

 3月11日、津波が家屋や車など全てを飲み込む様子をテレビの中継で見て、私は衝撃を受けました。まるで、映画のCG映像を見ているかのような感覚で、現実だと思えないほどの恐怖を感じました。
 この光景を間近で目の当たりにした子供たちは大勢いただろうし、その中には自分の家族や友人が飲み込まれる様子を見た子供たちもいることでしょう。画面を通して見た私が大きなショックを受けたのに、被災地の子供たちはどれだけの恐怖を味わったのかと考えると、とても心苦しいです。
 家族、友達、今までの生活を失った被災地の子供たちは、それでもこの状況に負けずに、今までの生活を取り戻そうと頑張っています。テレビで報道された被災地でのボランティアでは、数多くの子供たちが高齢者の手伝いをしたり、がれきの撤去を大人と一緒にしている様子が映っていました。
 被災地の人々は今なお地域の復興に向けて動いてます。しかし、被災地の復興は被災地や東北の人々だけではなく、日本全体でつくりあげていくものだと私は思います。東日本大震災を悲しい歴史で終わらせるだけでなく、新たな日本への成長の始まりにしていきたいです。


投稿者: mem1 | 2012年01月11日 21:03

 この『つなみ』の文集を読んで、この子供たちは本当につらい体験をしたにも関わらず強い心を持っているんだなと感じ、涙が出ました。私も被災地に住んでいましたが、このような津波を体験した子供たちに比べると全然被害も少ないし、傷の深さもまったく違うと思います。この子供たちの心の傷をいやすのは容易なことではないのではないと思います。
 震災の後、テレビのニュースで伝えるのは被害の状況や津波の映像が多く、そのおかげで支援物資もたくさん届きましたが、子供たちのこのような体験を伝えるものは少なかったように思います。
 今では震災のニュースもずいぶん減りましたが、子供たちの心の傷はまだ癒えてはいないのではないと思います。その心の傷を癒す活動が今後増えていくといいと思いました。


投稿者: アルプス | 2012年01月11日 21:07

 『つなみ』を読んで、まず私は「子供は強い」と思いました。震災にあった子供たちの生の声を聞くと、東日本大震災で子供たちが見た光景というのは、私たちが計り知れないものだろうと思いました。津波で人が流されていたり、亡くなった人が浮かんでいるという光景は、私たちが想像する以上にショックで心が痛む光景だと思います。
 その光景を目の前にした子供たちや、また震災で家族や友達を失った子供たちは、心に大きな傷を負ったに違いありません。それでも「いつか恩返しできることを信じながら、元気に生きていきたいと思います」や「困っている人がいたら、ぼくもたすけてあげたいです」と、他人への感謝の気持ちを持ちながら前を向いている子供たちは、本当に強くてたくましいと思いました。そしてこのような子供たちを、周りの大人の方が支えていってほしいなって思いました。
 今日で震災からちょうど10か月です。いまだに普通の生活ができてない被災者がたくさんいます。私たちが当たり前のように暖かい部屋でおいしいご飯を満足できるまで食べられるということに感謝し、「被災者のために何かしよう」というよりも「被災者のことを忘れないようにしよう」と思います。


投稿者: たまちゃん | 2012年01月11日 23:17

 私は、東北地方の内陸部の出身です。内陸部であったため地震の被害は少なく、津波の被害もありませんでした。震災以来初めて帰省したのは昨年の7月でした。帰省することができたら、津波の被害を感じようと沿岸部に足を運ぶことに決めていました。
 沿岸部には父の知り合いがいて、幼いころから年に一度はそちらの方に足を運んでいたので、津波の被害を現場で目の当たりにしたときはその被害の大きさに言葉が出ませんでした。メディアから伝わってくるものとのスケールの違いに驚きました。現地は他県ナンバーの車が非常に多く、現地の人はそのことに対し「観光のつもりなのか」と快くは思っていないようです。
 しかし私は、被災地に赴いてボランティアをしなくとも、現地のリアルな状況を数多くの人が知るべきだと思いました。知らずにほのぼのと生きることは、幸せなのかもしれません。しかし同じ日本の中であんなに大変な状況の中で今も生きている人々がいます。観光でもなんでもいいと思います。ぜひ多くの人が被災地を訪れてほしいと願っています。多くの人が知ることによってきっと流れは変わるでしょう。


投稿者: hir | 2012年01月12日 16:36

 今回の東日本大震災により家族や大事な人を失った人、故郷や家を失った人の悲しみは計り知れないものだと思う。
 テレビのニュースでインタビューに答えている被災者の多くは「辛いことも多いが乗り越えていきたい」という内容の話をしているように感じるが、実際には震災の悲劇から立ち直れない人もたくさんいるだろう。しかし、それは決して恥ずかしいことではないし、当たり前のことだと思う。だからこそ、私は被災地へ支援物資を送る活動もとても大切なことだが、被災者の心のケアをすることが一番重要だと考える。
 また、この震災は甚大な被害をもたらしたが、それと同時に私たち人間が助け合うことの素晴らしさを再認識させてくれたと思う。震災が起こる前から「人を思いやること」が大切であるということは当たり前の考え方であっただろう。
 しかし、震災が起こる前と後では明らかに「困っている人がいたら助けてあげたい」という気持ちが人々の間で強まったと思う。私も被災者を直接支援することはできないが、困っている人がいれば率先して助けてあげたいと改めて思った。


投稿者: fujisan | 2012年01月13日 00:40

 2011年3月11日は、多くの日本人にとって忘れられない日となった。
 比較的被害の少なかった関東圏在住の私ですらこれほど印象に残っているのだから、震源地、その付近在住の方々にとっては尚更だろう。
 この記事に引用されている『つなみ』の文章を見て、胸が締め付けられる思いであった。
 まだ幼くしてこの悲劇を体験した子供らの今後が心配ではあるが、記事を見る限り良い方向に進んでいる面も見られる。
 過去起こったことはなかったことにはできないし、そもそも地震という自然現象の性質上、誰にもどこにも過失など存在しない。
 ならば、せめてこの経験を未来へ生かす方向に向かってほしい。
 これは地震において大した被害も被ってない一学生の無責任なものであるかもしれないが、私は切に願う。


投稿者: ミハエル、 | 2012年01月13日 01:59

私はこの「つなみ」を読んで、改めて今回の地震や津波の被害の大きさや怖さを知りました。自分はテレビのニュースで被災地の状況を見ていたのですが、建物がものすごいスピードで流されているのを見て、最初は早送りをしているのかと思ったのを覚えています。
私の友達にも家が傾いてしまったり、避難所で生活していたという人がいましたが、その話をしているときもいつもと同じようにしていたので、本当にすごいなと思いました。
今でもまだ被災者の人たちのためにできることは少なからずあると思うので、自分にできる範囲で支援していきたいと思います。


投稿者: パーティー | 2012年01月13日 11:16

 3月11日地震が起きたときにそれに関し無関心だったが、ニュースの映像を見て胸が締め付けられる思いになった。
 「水」に家、人がのまれるなんて、考えたこともなかった。だれが悪いというわけではない自然災害であるから、仕方ないといってしまえばそうなのだが、それで終わらせず、政府や経験者が経験を今後につなげることももちろん、被害を受けていない自分だちもそれを生かすべきだと思う。


投稿者: tsmk | 2012年01月14日 03:17

 2011年は日本だけでなく世界的に災害の多い年であったと振り返ることができる。日本の東北地方太平洋沖地震、タイの洪水、トルコの地震など…。
 3月11日の東北地方太平洋沖地震では、関東に住んでいる私自身もその地震に今までにない恐怖を覚えた。2004年の新潟県中越地震の時も本震に続き、余震を何度も体験し、震源地からは離れているのにもかかわらず何度も揺れて恐怖したことを今でも覚えている。
 東日本大震災では、連発される緊急地震速報とそのチャイム音、そして来る揺れ、津波が人や街を飲み込む姿、さらには原発の状況、時間が経つにつれて桁違いで増え続ける死者の数をテレビの生中継で目の当たりにした。日本はどうなってしまうのだろう、もう生き残っていても放射能で死んでしまうのではないかと、恐怖と不安で体を震わせながら、夜も眠れない日々を送っていた。
 しかしながら、震源に近い場所で生活している人はもっと大きな恐怖と不安に怯えていること、家や家族を失った方々を思うと自分がこうしているのは情けないと考えるようになった。さらに、物資を求め強奪や略奪をすることなく整列し順番を待つ人々の姿を見て、感覚的には当然であること(海外では意外らしい)が素晴らしく思えて、1人の日本人として誇りに思えた。
 そこで、私は復興・再生に向けて今の自分にできることをしなければならないと考え、実際に宮城県に行ってボランティア活動したり、募金をしたりしてきた。
 これまでも災害が起こる度に人々は互いに手を取り合い、支え合ってきた。支援・援助の形は人それぞれであるが、みんなで復興・再生にむけて今、真の絆を見せる時が来たと強く思う。
がんばろう[●]日本


投稿者: kizuna | 2012年01月14日 18:57

 2011年3月11日の私は、実家にいました。その地震は私が生きてきた中で一番の揺れを感じました。テレビをつけるとそこには、車や家が簡単に流れていく映像で衝撃を受けました。津波による原発の事故もあり、被災地の方々はさらに困難な状況に陥ったと思います。私は計画停電による節電ぐらいしかできなかったため、自分の無力さを痛感しました。
 私は初詣において、この出来事を忘れてはいけない、忘れるべきではないとの想いから、被災地の方々にお見舞いを申し上げ、震災により亡くなった方々に御冥福をお祈り申し上げました。2011年の漢字にもなった「絆」というものの大切さをもう一度よく考え、被災地のためにできることを常に考えながら、生活していきたい。


投稿者: オーウェン | 2012年01月15日 15:51

 この『つなみ』を読んで、子供たちの前向きな姿にとても感銘を受けた。あんなに恐ろしい体験をしたのに、それでも誰かの為になりたい、恩返ししたいと考えている子供たちは本当に強いと思う。それでも幼くして大切な家族や友人を亡くしてしまった彼らの心の傷はきっと深いと思うし、きっと未だにその現実と向き合えていない子供たちも多くいると思う。そういった子供たちを長い時間をかけてケアしていくことが今後の課題となってくるだろう。そのためには、地域社会が率先して、彼らを支えていく環境を作ることが大事であると思う。
 この震災を通して失ったものは大きいが、気づかされたこともたくさんあるのではないか。多くの人が命の重みや人との絆を大切にして、これまで以上に自分の人生と向き合って生きていってほしいと思う。


投稿者: ぺこ | 2012年01月15日 19:20

 東日本大震災が起こって10ヶ月が経ちました。テレビで津波が町を襲う映像を見て、言葉が出ないくらい恐ろしく感じたのを思い出します。震災当初は、これから日本はどうなるのかと不安でしたが、あれから10ヶ月経って、今まで通りに生活している自分がいます。
 震災の影響で苦しい生活を強いられている人もいるのに、自分は普通に生活していていいのかと思ってしまいます。
 『つなみ』を読んで、子どもたちが震災に負けず、強く生きていこうとする姿勢に感動しました。家族をなくしたり、家をなくしたりして、どう生きていけばいいのか分からないくらい絶望した子どももいると思います。でも、強い思いと意思で、しっかり人生を歩む姿がうかがえます。なんとなく生きている自分にとって、とても刺激になりました。これから困難なことがあってもそこから逃げないで、もっともっと自分に挑戦していこうという気持ちになれました。
 被害を大きく受けた東北地方の人々を、いつまでも哀れんでいてはいけないと思います。大きな苦しみを抱えながら、それでもしっかりと希望を持って歩んでいる彼らから勇気をもらい、自分たちも希望を持って生きるべきだと思います。東日本大震災の被害はとてつもなく大きかったと思いますが、その分私たちに多くのことを語ったと思います。しっかりと胸に刻みながら生きていこうと思います。


投稿者: アポロ | 2012年01月15日 20:22

 私は震災の起きた当時、学校にいました。関東出身のため少し大きな地震かなとしか思わなかったのですが、学校内の放送で東北で震度7強の地震があったと知った時は信じられなく、すぐに家に電話したのですが、つながらずとても不安な気持ちでいっぱいでした。
 私の家族は4人なのですが、その時、母はパートに出かけ、妹は家で一人で留守番をして、父は東京に勤めに行っていたので、家族バラバラでした。
 その時初めて思ったのが、「もし、これが関東が震源地だったら、うちの家族は全然連絡の取り用がない」でした。特に私の実家は港も近くにあり、改めて津波の恐ろしさを実感しました。そして家族でもう一度このような震災が起きた場合の集合場所など、普段の生活がバラバラな分、十分に確認して家族間のコミュニケーションをとっていきたいと思いました。


投稿者: gochi | 2012年01月15日 21:54

 このブログを読み、忘れかけていた震災当時のことを思い出しました。
 私は地震が起きた時には寝転がっており、最初はただ『大きな地震が来たな』と思うだえでした。しかし、テレビのニュースをつけてみると、本当に今起こっていることとは思えない凄まじい映像が流れており、驚くと同時に東北の方にいる友人のことを思い出しとても心配になったことを覚えています。
 この『つなみ』の文章を読むと、現地ではいかに子供たちが不安な思いをしており、さら救助に来てくれた方に対して感謝の心を持っているかということが分かり、このようにして極限状態でも人々の絆はしっかりと作られていくのだなと感動しました。今回の震災はとてもたくさんのものを奪っていきましたが、それによって得られたたくさんの教訓を生かし、人々がより絆を大切にしていくことが何より大切だと思いました。


投稿者: しーえれがんす | 2012年01月16日 01:30

 私は地震が起きたとき、二日ほど停電でそのときの状況を知ることができませんでした。初めてテレビで津波を見たときは、本当にこれが現実なのだろうかと大きな衝撃を受けました。「つなみ」を読んで、実際に体験した子供たちはとても残酷で悲惨な体験をしても前を向いて生きていこうとしていて、子供の強さを感じたとともに私も頑張ろうと勇気をもらいました。また、人間は支え合っていて、それにより強くなることができる、一人では生きていけないのだということを強く感じました。
 今の家族といられるのも、今の友だちと出会えたのも奇跡です。日常を日常と思うのではなく、周りに感謝し、助け合いながら生きていきたいと改めて思うことができました。


投稿者: いなか | 2012年01月16日 13:51

震災から約10ヶ月経ち、直接的に被害を受けなかった日本の人々は当時のことをどれだけ鮮明に思い出せるでしょうか。地元埼玉出身の私は地震が起きたとき、自宅の自分の部屋にいました。あの経験したことのない揺れが起きたとき、私は死ぬかもしれないと思いました。しかし、テレビで見るまであのような無惨な状況になっているとはまったく思いませんでした。『つなみ』を読んで、自分と同年代もしくは年下の人が体験したリアルな状況を知って衝撃を受けました。自分が死ぬかもしれない状況なのに妹のことを心配し助けた高校生には驚きました。そしてそのような勇気ある行動を見習いたいと思いました。どんな状況であっても自分のことだけを考えるのではなく、他の人のことも考えるということはいろいろな状況で通じるものがあると思います。この震災があったことを忘れることなく、当たり前と考えている日常生活を1日1日大切に生き、これからの人生を様々な人と助け合い支え合っていきたいと思います。


投稿者: ysk | 2012年01月16日 19:25

日本に留学で来る前は津波はどころか地震さえ自分にとっては「地震」という一つの単語の概念に過ぎなかった。しかし日本ではじめて家が揺れ、まさか土地まで揺れる地震を経験し、巨大な自然の前では人間はあまりにも弱い存在にであると実感した。
その以来、弱い地震にだんだん慣れてきた私にもう一度の相当のショックにさせたのはこの「東日本大震災」。今日『つなみ』を読んで改めて忘れかけていた二つの恐怖のことに自覚した。一つは自然災難の恐怖。もう一つは慣れてしまう、油断してしまう人間への恐怖。
小さい地震に慣れ始めての地震の恐怖を忘れ、平穏な日常生活に油断しまた東日本大震災を忘れかけているのではないだろうか。
本文のように「生きている」のではなく「生かされている」ということを心がけていたい。
また自然の恐怖やその巨大さを忘れずに人と人の助け合いがなくては生きられないことを忘れないでほしい


投稿者: L.N | 2012年01月17日 07:17

この文集を読み、子どもたちの前向きさにとても心を打たれました。私自身は、震災当日出かけた先から家まで実際なら40分ほどで帰れるところが6時間近くかかったことや、その後の輪番停電で少し不便な思いをしたことくらいしか影響がありませんでした。この文集で紹介されている子どもたちは実際に人が津波によって命を落とすところを目の当たりにするなどの、計り知れないほどのつらい体験をした子どもたちですが、皆前向きに生きていこうとしています。この心の強さや心のまっすぐさが報われる明るい未来をこの子どもたちに与えられるように本当に国民みんなで復興に向けて頑張っていかなければならないし、自分も自分ができることを精一杯やって行きたいと感じました。


投稿者: fkm | 2012年01月17日 09:54

震災から一年が経とうとしています。余震もおさまり、私のまわりは震災などまるでなかったかのような日常生活を送っています。未だ被災地の方々が住む場所を追われているにもかかわらず。思えば、3月11日にも今と同じような光景を目にしました。
私は震災当日、所用で新宿の慶応プラザホテルにいました。激しい揺れに思わず机の下にもぐり込んだのを覚えています。余震が続く中、不安気にニュースを見る人々。そこには被災地から送られてきたものの無残な映像がありました。携帯電話は繋がらず、家族の安否を心配しました。ホテルのロビーには内外から人が集まり、テレビで見るような難民キャンプのような光景でした。近くのコンビニや飲食店は全て品切れで「本当に異常自体なんだな」と強く思いました。地震から10時間ほど経過した頃、東京メトロの
一部が動き出し、私は埼玉に帰ることを決意しホテルを出ました。新宿駅のタクシー乗り場にはおそらく300人ほどが列をなしていたように思います。そこを抜け南口に出た時愕然としました。いつもと変わらず居酒屋のキャッチがいて、まるで別世界と思わせるようにに日常が送られていたのです。「ここの人達は今がどういう状況か分かっているのか。もしくは自分とは無関係な出来事と割り切ってしまっているのか。」不思議な気持ちになりました。結局メトロの駅に着いたものの電車にはなかなか乗れず、家に着いたのは翌日の朝でした。
今思い返しても新宿の光景は不思議です。しかし、今の私を見たら、被災地の人は同じ事を思うのかもしれません。確かに異常


投稿者: skt | 2012年01月17日 14:04

震災から一年が経とうとしています。余震もおさまり、私のまわりは震災などまるでなかったかのような日常生活を送っています。未だ被災地の方々が住む場所を追われているにもかかわらず。思えば、3月11日にも今と変わらぬ光景を目にしました。
私は震災当日、所用で新宿の慶応プラザホテルにいました。激しい揺れに思わず机の下にもぐり込んだのを覚えています。余震が続く中、不安気にニュースを見る人々。そこには被災地から送られてきたものの無残な映像がありました。携帯電話は繋がらず、家族の安否を心配しました。ホテルのロビーには内外から人が集まり、テレビで見るような難民キャンプのような光景でした。近くのコンビニや飲食店は全て品切れで「本当に異常事態なんだな」と強く思いました。地震から10時間ほど経過した頃、東京メトロの
一部が動き出し、私は埼玉に帰ることを決意しホテルを出ました。新宿駅のタクシー乗り場にはおそらく300人ほどが列をなしていたように思います。そこを抜け南口に出た時愕然としました。いつもと変わらず居酒屋のキャッチがいて、まるで別世界と思わせるようにに日常が送られていたのです。「ここの人達は今がどういう状況か分かっているのか。もしくは自分とは無関係な出来事と割り切ってしまっているのか。」不思議な気持ちになりました。結局メトロの駅に着いたものの電車にはなかなか乗れず、家に着いたのは翌日の朝でした。
今思い返しても新宿の光景は不思議です。しかし、今の私を見たら、被災地の人は同じ事を思うのかもしれません。異常事態であるというのは事実であるのと同時に、人の主観である。人によって違う事は否めない。それ故に風化し、いつしか忘れ去られてしまうだろう。私が日常を変わりなく過ごしているように。しかし、本当はそうあってはいけない。誰しもが心の何処かに痛みを抱え、被災地の人達を思いやることができるならば、今の状況は変わるかもしれない。日本中がそうあるよう、少なくとも私のまわりがそうあるよう、発信していける人間でありたいと思います。


投稿者: skt | 2012年01月17日 14:45

東日本大震災で被災した方々の、生き抜く強さや前向きに歩もうとする姿勢にどれほど心動かされたことでしょう。私はテレビで被災地の現状や被災者の様子が放送されるたびに様々な思いが込み上げてきます。特に被災地の子どもたちの生きる強さ、悲しみを希望に変える力は、私たち大人に何か大切なことを気付かせてくれます。心に深い傷を負いながらも前向きに明るく生きていく。このような子どもたちの力強さが、被災地の方々だけでなく被災していない私たちにとっても大きな励みになっているということは、言うまでもありません。


投稿者: panda | 2012年01月17日 15:21

 震災が起こって津波の映像をテレビで見たときに、鳥肌がたち、ただ立ち尽くすというのはこういうことかと、そんなことしか考えられなかったあの時の自分は今でも忘れられない。そして原発問題やら東電やらの問題が次々に起こり始めた頃、この1年、日本は大変な年になるんだろうな、と感じていた。
 しかし、同時に、今、生きていることとか、自分に関して考えることが多くなったとも感じる。
 震災で奪われた分以上に得るものがあるような、そんな2012年にしていかなきゃいけんな、そんなふうに思った。


投稿者: tt | 2012年01月17日 16:24

東日本大震災から丸十ヵ月が経ち、今では大きな被害を生んだ津波や原発のニュースが一日中流れていた当時を懐かしく思うほど「普通」の生活を私は送っています。しかし、この子どもたちの体験談を読み、現地では今でも家をなくし家族を亡くした被災者方が大勢いること、自分がいかに恵まれた環境にいるかを改めて感じました。自分よりも年齢の低い子どもたちが目の前で津波に流されていく人を見ることはどれほどの心の傷を負わせたのでしょうか。私が今「普通」の生活を送れていることは、当たり前ではなくこの上なくありがたいことなのだということをもっと考えていきたいです。


投稿者: mk | 2012年01月17日 16:29

申し訳ないことに、私は今でも東日本大震災についてのドキュメンタリー番組などを見ることができない。被災地の方々が体験したことがリアルに放映されていて、正直なところ見るのが辛いのだ。震災が起きた直後のニュース映像を見続けたため、もしかしたらトラウマになったのかもしれない。しかし「つなみ」を読み、被災した子どもたちはこんなにも強く、前を向いて生きているのだということを知り、心を動かされた。大した被害にあってもいない私なんかよりもよっぽど辛い体験をしているのに、なぜこうも前向きに生きられるのだろうか。私は自分が恥ずかしくなった。ただ辛い現実から目をそらして生きるのではなく、まず現実と向き合い、子どもたちのようにこれからにつながる行動をしていかなければならない。また、普段当たり前だと思っていることに感謝することを忘れてはいけないと思った。見失っていた大切なことを教えていただいた。


投稿者: あずき | 2012年01月17日 17:25

東日本大震災では日本各地に留まらず、世界から支援の手、声が届いている。わたしも

震災から8カ月と遅くなってはしまったがボランティアで気仙沼市へ行き、実際夏まで避

難所となっていた高台にある施設を訪れた。そこには被災地へ向けてたくさんの人々か

らのたくさんの励ましの言葉が飾られていた。わたしはそのとき人とのつながりというも

のを強く感じた。相手の事を思っての、心からの励ましの声だった。記事の藤本さんの言

葉にあるように現代の人々は“個の世界”に委縮しつつある。しかし今回の大震災もまた“つながりの変質”への気づきのきっかけになるのではないか、人とのつながりを意識できる社会へと変わるきっかけになるのではないかと私は思う。


投稿者: A.T | 2012年01月17日 18:17

本日、1月17日というのは、17年前に阪神淡路大震災が起きた日である。また、昨年の3月11日に起きた東日本大震災を受けて、例年とは異なる追悼の念を持ってこの日を迎えることとなった。ブログの中にもあった通り、この二つの災害が子供たちに与えた影響は大きく、『つなみ』より抜粋された子供たちの体験談からは、被災地のよりリアルで偽りのない現状が感じ取られた。しかし、実際に被災していない私には、想像の中で共感することしかできないし、それは単なる同情だと思われてしまうのかもしれない。そうであったとしても、今回の震災を決して過去のものにしてはならない。そのために私ができる第一歩は、「忘れない」という単純そうだが難しいことである。


投稿者: カメレオン | 2012年01月17日 21:19

 東日本大震災が発生して、もう一年が経とうとしていますが未だにその爪痕は大きく残っています。沢山の被害者もまだ報われないままであり、一年も経ったようには感じませんでした。
 この地震に関して原因や責任は色々な所へ向けられているのだと思いますが、今はそのようなことよりもまず、現在もまだ苦しんでいる人々を少しでも早く救ってあげることが先決だと考えました。
 沢山の被害を出したこの地震を通して、沢山の人が何か大切なことに気が付いてほしい、気が付かなくてはいけないのだと感じました。


投稿者: ポッピン | 2012年01月17日 21:39

ニュースで見る被災者はほとんどみんなが前向きな発言をしています。それでも被災者の方々には癒えない傷があると思います。私には石巻で被災した友達がいるのですが、その人は毎日明るく振舞っていますがたまにどうしても気が沈んでしまうときがあるようです。被災地の復興と同時に、被災者の心のケアも行わなければいけないと感じました。震災の悲劇を忘れずに、日本が一丸となって前に進みましょう。


投稿者: rrr | 2012年01月18日 00:06

地震大国日本。去年私たちを襲ったあの忌まわしい災害は、私たちに大きな爪跡とメッセージを残していったような気がします。世界共通語となった「津波」は、ありとあらゆるものを一瞬にして呑みこんでいきました。この「つなみ」の文章の少年たちをはじめ多くの被災者の方々は壮絶な体験をしたかと思います。しかし、絶望の中希望を見つけて強く生きようとしている姿にはとても感動しました。もう1年が経とうとしています。マスコミも最近では原発事故ばかりで、今もなお苦しんでいる被災者のほうへ目を向けようとする努力が見られません。決して忘れてはいけない今回の震災。一日一日を普通に過ごすことが、いかに幸せなことのかを実感しながら、過ごしていきたいと思います。


投稿者: nocchi | 2012年01月18日 02:08

 東日本大震災が発生した2011年3月11日の午後2時46分、私は実家福島の美容院にいました。その時今まで経験もしなかったような大きな揺れを感じ、棚から商品が崩れ落ちていく中揺れる壁をつたい店の外に出ました。「こんなに大きな揺れなのだから、絶対に震源地はこの辺だ」と直感的に思いました。
 しかし、テレビをつけてもっと強い揺れに襲われた地域が多くあることにとても驚きました。そして、自分にはどうすることもできないが、町を飲み込んでいく津波の映像に心が痛んだのをよく覚えています。
 その映像で、人が乗っている車が津波に飲み込まれ、クラクションと共に流されている映像を見ました。それだけでも涙が出そうになりましたが、「つなみ」に掲載されていた子供たちの見た光景は、それ以上にリアルで、悲惨なものだったと思います。心に大きな傷を負いながらも、前向きに進んでいこうとする被災者の方々には、本当に尊敬します。
 私は地元にいた春休みの間、震災後に問題となった福島原発の問題のために避難指定地域から内陸部へ避難してきた方々の滞在する体育館でボランティア活動をしました。その時に出会った避難民の方も、みなさん前を向いていました。津波の被害にあった方や、原発問題で家に帰れない方々の今後の生活を支援する制度を確立してほしいと強く思います。


投稿者: mst | 2012年01月18日 11:15

 私は東日本大震災直後のテレビの映像を見ただけで恐怖を感じてしまったが、被災者の方々が味わった恐怖には到底かなわないだろう。津波の様子や逃げまどう人々、亡くなってしまった人々などのような、悲惨で残酷な光景を目の当たりにしてしまった被災者の方々の気持ちなど、以前通りの生活を送っている私には完全には理解できないかもしれない。だが、被災者の方々を助けたいし、力になりたいと思っている。
 私にできることは小さなことかもしれないが、これからも何かしらの形で被災者の方々の支援をしていきたい。


投稿者: Noi | 2012年01月18日 17:57

 東日本大震災では作文集「つなみ」のように凄惨な状況を見てしまったたくさんの幼い子供たちがいる。家族を失ってしまった人、友達を失ってしまった人などさまざまである。こうしたことから大人、子供に関わらず精神面のケアが大切になってくる。
 特に子供については、夢にまであの大変な状況が出てきてしまったということがあり、うなされてしまうということもあるそうだ。学校でのカウンセリングもあと少しで一年が経過してしまうが継続的に続けていってほしい。
 私はこの震災を機に家族との絆というものを改めて認識したので、震災の影響で家族と過ごすことのできない人がいることを考えて生活していきたい。


投稿者: ngng | 2012年01月18日 18:49

 この記事を見て親戚を思い出しました。
 私は津波で東松島に住んでいた親戚を失いました。どこかで生存しているかもしれませんが、まずそれはないと思います。月日も速いもので東日本大震災からあと2ヶ月で一年がたちます。
私はあの日、アルバイト先の飲食店で食材の仕込みをしていました。地震が来て置いてあった食器がたくさん割れていき、何が起きているのかわからなくなりましたが、社員の方の対応で、何とか逃げることができました。
 私は原発事故でさいたまアリーナに避難してきた方々に物資の提供のボランティアで何度か足を運びましたがその中で子供たちの笑顔は周囲の大人を元気づけていました。この津波の文章でも子供のつらい思いが伝わってきました。しかし、前向きになり強くて優しい人になりたいという決意は被災地の方の希望になるに違いない、そして私たちはこの事実を風化させることなく、後世に伝えていかねばなりません。それを改めて決意させられました。
 しかし被災地ではこれまで溜まっていた税金が国によって請求され、仮設住宅からの追い出しも始まっているようです。消費税云々言っているのではなく、まず被災された人々を救ってほしい、正直国が許せません。


投稿者: you | 2012年01月18日 21:10

 いつものように変わりなくだれもが過ごしていたあの3月11日。地震が起きた時点では、まさかあんなに大きな事態になっているとは知りませんでした。ニュースで目撃した東北地方の被害は、凄まじいものでした。たくさんの命を奪いたくさんの人を苦しめた大震災が、私たちに与えたものは何か、よく考えなくてはならないと思いました。強く生きようとしている人々の姿にはとても心が揺さぶられました。この大震災の経験を忘れずに、私たちは助け合い共に生きていけたらよいな、と思います。


投稿者: あいす | 2012年01月18日 22:56

 私の友達の中には、関東大震災による津波で家族を亡くしたという人がいる。しかしその人は私たちとは何も変わりなく明るく生活を送っている。しかしあれだけの悲惨な状況を目の当たりにして、私が想像も出来ないほどの辛さを抱えていると思う。
 現在も被災者の中には仮設住宅で寒さの中生活を送ったり、福島原発事故影響で非難を余儀なくされ、不自由な生活を送っている人もいる。
 私たちにできることはルサンチマンの連鎖ではなく、明るい優しさの連鎖を生み出せるように努めることだと改めて感じた。


投稿者: orecchi | 2012年01月19日 10:51

私は地震が発生した時、新秋津周辺にいました。私にとって生まれて初めて電車難民を経験することになった日として鮮明にいまでも覚えています。お店の人が言っていたことをしっかり聞いておけば、よかったと本当に思います。それは、地震が起こってからすぐ、近くにあったお茶を販売するお店に入ったときのことですが、「電車が止まるかもしれないから電車を使うなら早く行きなさい」と忠告してくれたのである。しかし、私と友達はその忠告に耳を傾けず、ぶらぶらすることに時間を使ってしまった。本当に私はなんて恩知らずだろうと思った。お茶を販売するお店の人がせっかく私と友達のことを考えて言ってくれたのに、私たちはそんなことになるはずがないと受け取ったのである。この行動が最終的に電車難民という経験をすることにつながってしまった。
この震災から、私は一人じゃないことを学びました。確かに、その時友達とはいたが、周りの人は私たちのことを考え、気にかけてくれた。これは、事実であるから、3月11日という日を思い出すと、お店の人が言ってくれた言葉を思い出す。
『つなみ』の作品を読んで、被災地の子どもたちはつらい経験をしたと感じます。でも、このような体験をした子どもたちは私のように忠告を聞かないという行動をとることは絶対にないと思います。私も3月11日の経験を胸に刻んで生きていくつもりです。
まだ震災から立ち直りきれていない人も多いが、気付かされたことは大切なことが多い。2011年の漢字に選ばれた「絆」は現在の日本社会において一番気付く必要性があるので、これからの人生を様々な人を助け合っていきたいと思いました。


投稿者: mura | 2012年01月19日 15:06

私はこの地震が起きたと時は家の中にいて、今までで一番大きな揺れを体感しました。しかし、東北では比べられないような地震が起きており、それによる津波は映像で見ただけですが、自然の恐ろしさを感じさせるものがありました。津波の映像が生中継でニュースで放送されている時、この瞬間も人が流され、家が倒れ、多くの人が困難に立ち向かっているにも関わらず、どうしても人ごとだという意識が私の中にありました。
 「つなみ」の文集を読んで、幼い子が悲惨な状況下で自分のことだけでなく、家族や周囲のことなどにも考えを巡らしていました。そういう子供がたくさんいることを私たちは知り、これからの生活をどのように支援できるのか考えていく必要があると思います。同時に、この子供たちにはこの震災を後世に伝えていって欲しいと思います。


投稿者: りらく | 2012年01月19日 15:51

 私の実家は東北地方にあり、また親戚も多くいます。地震が発生した時には私は埼玉にいましたが、東北にいる家族や親戚の安否を考えると非常に不安になりました。やっと連絡が取れたときの安心感は言いようのないものでした。
 東日本大震災の残した爪痕は永く消えることはないほど大きなものです。しかし、私たちはいつまでもこれを悲嘆していてはいけません。生きているということ、協力・団結すること、私たちはこれからどうすればよいのかなど、さまざまなことを一人一人が考える契機になったと私は思います。
 私は工学部であるので、工学の観点から、この地震から学んだことをこれからの学業に生かしていきたいと思っています。


投稿者: T | 2012年01月20日 01:30

東日本大震災が発生し、10ヶ月が経ち、自分は東北などの被災地から遠く離れた埼玉では震災前とほぼなんも変わらない日々を送っている。しかし、震災直後は、自分の祖母の家が石巻にあり、祖母とは何も連絡のつかない状態となった。そのため、震災直後石巻に向かった。実際に現地に着くと今まで見てきた風景とはまるで違った。
しかし、その状況にもかかわらず、現地の人たちは協力し合い、お互いに元気づけている姿が非常に印象に残っている。
家族であったり、近所の人達であったりの絆が薄れてきている現状であるが、このような震災が発生したことを契機に絆に関してもう少し考えていくべきだと思います。


投稿者: pon | 2012年01月20日 16:08

 東日本大震災が起きて10ヶ月が過ぎた今、埼玉に住んでいる私は普段の生活を送る中でこの地震のことを思い出すことは少なくなっているというのが事実です。
 もちろん現在も被災した人たちが苦しく、辛い思いをしているのは理解しているつもりですが、私のように震災の記憶が薄れている人も多いのではないでしょうか。しかし、『つなみ』を読み、被災した子ども達の目線から見た震災に触れ、よりリアルにこの震災をとらえることとなりました。この震災から学ぶべきこと、自分自身が普段から意識すべきことを改めて考えていこうと思いました。


投稿者: ふなちむ | 2012年01月21日 04:55

 東日本大震災から、10か月が過ぎました。わたしは震災時、地元の埼玉を離れて東北にいましたが、その時に味わった地震の揺れは私が今までの人生の中で味わったことのないくらいの恐怖でした。その後、何日間か停電が続き、暖もとれないような日々が続きました。しかし、この中で私は人の温かさを感じました。皆が満足に生活できない中で起こる他者との譲り合いや思いやりを実感しました。これは、忙しく生活している日常では気づかないような感情でした。
 小学校や中学校で「他人を思いやろう。」等、先生に言われてきたものの、その言葉の意味をよく理解していなかったような気がします。震災は我々に多大な影響を及ぼしたことは確かであると思います。しかしながら、これらのことから他者とのつながりや人との絆を感じ得たこともあります。東北の子どもたちも、震災に負けず強く生きていってほしいと思います。


投稿者: A.O | 2012年01月21日 12:19

 2011年は本当に苦痛の1年だった。しかし、文集「つなみ」を読むと、自分の悩み、苦痛は軽いものだと感じる。なぜなら震災の傷跡の中、家族を探すこともなければ、道中で遺体を見ることも無いからだ。2011年は家族、友人、恋人、多くの人に支えられ、助け合いながら生きていると強く実感した1年であった。周囲の人の大切さ、ありがたみを胸に、2012年は昨年よりも「人との関わり」を大切にしていきたい。


投稿者: ゆかぽ | 2012年01月21日 14:02

 震災から、10ヶ月が経ちました。私の地元でも液状化からの復旧作業がだいぶ進み、今では震災以前となんら変わらない生活を送っています。しかし、どれだけ時が経とうが、震災当時に感じたこと、自然の脅威、家族・友達の大切さを忘れてはいけないと思うのです。
 今も被災者の方々は協力しあって生活しています。苦しい生活を強いられていることは間違いないのだろうけど、そんな中で懸命に生きています。そんな姿に勇気をもらった人も少なからずいるのではないでしょうか。今後日本を担っていく私たちが今度は恩返しをしていく番です。今すぐに出来ることは少ないだろうけど、この先必ず何かはしていきたいと思います。


投稿者: ぷー | 2012年01月21日 14:20

 東日本大震災のとき、私は山手線の御徒町というところにいました。地震が発生したからといってすぐに電車は発進するだろうと思っていました。実際は地震の起こった日は電車が動かず、上野の美術館みたいなところに一泊しました。この時感じたのは、迅速に情報を手にし行動することです。何か不測の事態が起こったときに、このときは地震でしたが、自分で勝手に予想するのではなくすぐに調べれば、家族に連絡やホテルをとるなどできたと感じるからです。


投稿者: s_k | 2012年01月21日 14:31

 わたしの実家は、茨城県にあります。震災時、わたしは埼玉の下宿先にいてニュースで震源地をみたときぞっとしました。すぐに家族全員と連絡を取ると、幸い全員無事でした。しかし、震災後3日間、実家付近の世帯はガス、水道、電気が止まってしまったらしいです。食料も確保できない状況だったらしいので、わたしは食料を埼玉で買ってからすぐに実家に戻りました。
 震災により多くの被害が出ましたが、わたしたち家族はいままでより強い団結が生まれたと思います。震災で得た教訓や団結を活かし、これからの日本復興に尽力すべきだと思いました。


投稿者: わさビーフ | 2012年01月21日 21:43

 『つなみ』にある子供たちの作文はどんなニュースや新聞記事よりも衝撃的でかつリアリティがありました。子供たちの体験が目の前に想像として広がりました。同時に、このような体験をしても、今生きていることを実感し、世界に感謝していきたいと思う子供たちの温かい気持ちも一緒に伝わりました。
 家族との、友達との、見知らぬ人との絆を感じることができたのでしょうか。この温かい気持ちをずっと受け継いでいくことで、日本全体に温かい気持ちがあふれるようになるのではないかと思います。


投稿者: しゃもじ | 2012年01月22日 00:33

 2011年3月11日東日本大震災があった日、僕はひとりで家にいてテレビを見ていました。震源地とは遠い埼玉にいたのですがその揺れは今まで生きてきたなかで一番大きく、揺れている間は恐怖でいっぱいでした。震源地である東北の人たちのその時の恐怖感はすさまじいものだったと思います。
 テレビにより東北の大変大きな被害を目の当たりにしたときこれが現実で起こったこととは信じられませんでした。しかし、こんなにも被害が大きいにもかかわらず被災地の人たちが協力しあい復興に取り組んでる姿を見て大変感動しました。まだまだ時間はかかると思いますが日本が一つとなって助けあい、完全復興を一日でも早くできることを心より願っています。


投稿者: こいちゃん | 2012年01月22日 01:32

 私は東日本大震災について深く考えさせられました。私の出身は宮城県の東松島市です。私の地区はほぼ全壊です。昔通っていた小学校、中学校はもうぐちゃぐちゃで生徒は違う地区の方に通っています。私の知り合いには家族を亡くしたひとばかりです。私の中で今回の被災について考えなければいけないことが多くあります。それをいろいろと今までも、そしてこれからも考えて生きていかなければなりません。こんなことがあって本当に不幸だと思います。
 しかし自分が生きている限り皆さんの分までしっかりと生きていかなければいけないと思っています。くじけそうなときもそう思うと頑張れる気がします。辛いときこそしっかりとした気持ちをもって今後の人生を生きていきたいとおもいます。もっと辛い人がいると考えるとそうする以外ないとおもいます。本当に忘れてはいけないことです。


投稿者: ひろし | 2012年01月22日 02:40

 東日本大震災は多くのものを奪っていきました。人の命も、資産も、何もかも。被災地の方々は本当につらい思いをしたのではないでしょうか。何より、子どもたちのショックは大きかったものだと思います。
 この記事で引用されてる作文では、その子どもたちがこれからをどう生きるかということを強く考えているのだなと感じます。しかし中にはそうでない子どももいることでしょう。私たちは、そのようなショックから立ち直れない子どもが成長し、自立するまでの環境を支える社会づくりを考えなければならないと強く感じました。


投稿者: クリープ | 2012年01月22日 15:12

 自分の友人も東北で被災しました。地震発生時から安否が確認できるまで2日かかりました。ニュースで見る映像では友人の町は完全につなみに飲み込まれ跡形もなくなっており、連絡がつかない間は気が気ではありませんでした。
 そんな友人から地震直後の話、被災生活の話を聞かされる度に涙が止まりませんでした。『つなみ』を読むと子どもたちと友人が重なります。被災直後には、日本全体にあった絆はいまでは薄れつつあるのではないかと感じさせられます。今回だけでなくいままでに被災したときの気持ちは決してなくしてはならないとこの記事を読んで改めて痛感させられました。


投稿者: ソネット | 2012年01月22日 15:49

 東日本大震災が起きてからたくさんの支援物資が全国から集められました。支援をしようとする気持ちはとても良いと思います。
 しかし、集められた支援物資の中にはとても使えないような物もたくさん含まれている、といった内容のニュースを見てとても複雑な気持ちになりました。そういった物を送ってくる人は善意で送っているのかもしれませんが、使える物か使えない物かの判断ぐらいは最低限しなくてはいけないことなのではないかと思いました。そういった使えない物は結局処分するゴミとして扱われます。せっかく善意を持ってした行動が被災地に届かなくては意味がないと思うので、支援するという気持ちはそのままで、その気持ちを被災地に届かせるということをもう少し考えなくてはいけないなと思いました。


投稿者: kiki | 2012年01月22日 17:20

 今年三月11日日本の東北地域でマグニチュード9.0の大地震が発生して、そのあと余震、津波、火災、原爆などの問題が行って、今まで見たこともないほどの大震災になった。「地震」は日本に来て、初めて経験した。なので、今回の大地震で、すごく恐怖だった。
 日本に住む、外国人が大势帰国した関系上、特に外国人が多い东京では、ひとつの余波あった。外国人を雇用していた会社では社员が忽然にいなくなったとか、日本语学校では、学生が帰国したため、少なくなった。
 一方、NPO法人・国際留学生協会(IFSA)が東日本大震災後に行ったアンケート調査によると、在日外国人の9割以上が、放射能汚染は心配だが、今後も日本での仕事や学習を続けたいと回答した。日本人は危機に直面しても,泰然自若としてあわてないのに引き換えて中国人ならいざ何か遭った時落ち着かずに混乱な状況になることがよくあるのにいささか残念な気がする。
 日本の原爆のことが明らかになった直後、塩は原子能の放射の防ぐのに役立てるという噂が中国ですぐ広がっていく。一時に全国で塩を争って買うブームが巻き起こした。そのせいで塩の価格が高くなった一方だという。災難に直接にさらされるのは日本人なのに中国人は日本人よりもっと不安のようにみられるわけだ。
 私たち中国人は災難に遭った時常に秩序かなんかは一斎気付かないで、自分の命を守るために一生懸命逃げている。その結果他人の邪魔になるどころか自分の命まで守ることができない。そのことに対して私たちは真剣に考えなければならない。


投稿者: triangle0223 | 2012年01月22日 22:35

 地震から300日余りが経ち、直接被災していない私は既に、3月11日の記憶が薄らいでいます。薄情だと言われても忘れてしまうものは忘れてしまいます。それは、自分自身が辛さを味わっていないからだと思います。天災に人災も重なり、不自由な生活を強いられている人が大勢いる中、ボケっとただ徒に暮らしている自分が情けなくなる時があります。「つなみ」を読んで様々なことを考えても、考えるだけで行動に移せません。
 そんな自分を変えるべく、行動を起こすことにしました。来月からの春休みに1カ月被災地でボランティアに参加することにしました。そうすれば被災地のことを少し身近に考えることができると思ったからです。辛い体験をした子どもたちと私自身触れ合い、少しでも変われればいいなと思います。「自分のため」はでなく「誰かのため」に頑張れるようになりたいです。


投稿者: ほへふひは | 2012年01月23日 00:23

 私の出身は福島県です。今も原発の事故の影響を直に受け続けている、そんな福島県。今でも原発とか放射能などの言葉を聞くと拒否反応を起こしてしまいます。確かに放射能は有害だけど害にさらされて暮らしていて、そこで生きていくしかない人たちがたくさんいることを考えてもらいたい。
 悲しみの大きさはいろいろあると思いますが、世界にはいろんな悲しみをもった人がいるということを私たちは忘れがちだと思います。悲しむひとを前にして自分は本当に何もできないのです。そのことが分かっているのに。そのことに私は憤りを感じます。
 だから軽い気持ちで原発だなんだって福島のモノを避けるような人を私は残念な気持ちで見てしまいます。表面的にしか物事を感じ取れない人に私はならないようにしたいと思います


投稿者: かめれおん | 2012年01月23日 11:14

2011年3月11日、私は奄美大島にいました。そこでニュースで東北の方に大地震が起きたことを知りました。ニュースからの中継は、家屋や車などのあらゆるものが流されている映像でとても衝撃をうけました。しかし、ニュースなどの映像は、震災を体験した人の気持ちまでは映し出しません。「つなみ」の作品を読み、震災を体験した人の気持ちに初めてふれた気がします。震災に関わる生々しい話を読み、改めて自然の驚異を痛感させられました。


投稿者: まるや | 2012年01月23日 15:17

震災があったあの日、私は自宅にいたが、揺れを感じ、収まるとすぐにテレビをつけた。そこに映っていたのは、津波が家や道路を次々と飲み込んでいく映像だった。私はその光景を受け入れることができず、同じ日本で起こっているとは到底考えられなかった。
 被災者の方々はいまだに苦しい生活を強いられている。我々にできることは、より一層の被災地支援を行い、この震災を後世に伝えていくために、この惨状を忘れないようにすることである。また、他人とのつながりや関わりを深くしていき、人を思いやる気持ちについて再認識してほしいと思う。


投稿者: TMS | 2012年01月23日 19:21

東日本大震災の日、私は栃木にある実家にいました。震源からは離れていましたが、私の実家も被害を受けました。大学の奨学金に申し込もうとしましたが、家が栃木であることを言うと、疑問の目を向けられました。被害を受けていない人からすれば、テレビでよく取り上げられる津波と原発のことしか思い浮かばないのでしょう。地震そのものの被害を受けた人もたくさんいるということなど、テレビではあまり取り上げられないことも知ってほしいと思います。


投稿者: TTT | 2012年01月23日 19:54

私にとって地震とは教科書の中の一自然現象しかすぎなかった。地震は恐ろしい自然災害だというイメージを持っていたが、実際に体験したことがなかったので、その怖さも曖昧にしかわからなかった。だが、3月11日に東日本大震災が発生し、自宅にいた自分は命が奪われるのではないか、すべてが滅亡するのではないかさえ思い込んだ。自然の中に人類の存在はいかに小さいかということを深く感じた。しかし、震災、津波や原発で大きな被害を受けた日本全体は落ち込むことはなかった。震災直後、全国各地から募金やボランティア活動が始まり、被害の大きい福島、岩手や宮城に送られた。その後、復興活動もいち早く開始され、道路の復旧や瓦礫の撤去は迅速に大きな成果を収めた。それは世界のどの国や地域においても奇跡と言え、逆に日本ではなかったら、もっと深刻な被害があったのではないかと言えるだろう。地震は日本に大きなダメージを与えてたが、悪いことばかりでもない。地震によって、日本全体の絆や思いやりがどの時期よりも高まっている。そして、その情熱や思いで以前よりも美しく、すばらしい日本を築くことができると私が信じている。


投稿者: slxiaxi | 2012年01月23日 21:48

去年の3月11日、自分は埼玉にいたが、「震源が埼玉なのではないか」と錯てしまうくらい大きな地震にあい、その後も続く余震に怯えていた。しかし、その地震で大きな被害をうけたのは東北地方であるとわかり、大学生である自分でさえもあれほどの恐怖を覚えるほどの出来事以上のことを、当地の小さい子供たちが体感していたのだと思うと、本当に心が痛んだ。これから、大きな傷を負ってしまった被災地の子供たちのために、自分ができることをしていきたいと思う。


投稿者: NT | 2012年01月24日 01:02

あの大震災のことを記憶からなくしてはいけないと思います。もしかしたら起こるかもしれないという可能性を見過ごし、復興に関する対応もすっきりしない政府や、世界の歴史上でも最悪に近い被害を出してしまっている原発のこと。目の当たりにして今を生きている私たちがそれを遠い記憶としてしまわないようにしなければいけません。先日、塾の生徒に尋ねました。「311は震災が起こった日だよね、じゃあ117は知ってる?」 4、5人いる生徒の中で分かったのはひとりでした。日本にもたらされた自然の悲劇を、忘れてしまったら日本はいくらでも同じことを繰り返すでしょう。そうさせないためにも、私たちがしっかり考えること、次の世代へ伝えることを大切にしないといけないと思いました。


投稿者: すずのき | 2012年01月24日 01:21

この記事に載っている『つなみ』にある子どもたちの作文は、テレビニュースや新聞などよりもずっと衝撃的なものでした。今回の地震で被災地の子どもたちが目にした光景は、直接被災していない私には想像もつかないものだと思います。それなのに、子どもたちの文章の中には、他者への感謝の気持ちや助けてあげたいなどの言葉が見られ、子どもたちの強さや心の美しさに感動しました。
震災から10か月がたち、被災地の情報のニュースなども減り、私の周りは震災のことは忘れたかのように以前と同じ生活を送っていますが、まだ苦しんでいる人たちが大勢いることを決して忘れてはいけないと思いました。


投稿者: tnk | 2012年01月24日 02:09

もうすぐあの震災から一年が経とうとしています。被災者の方々はどんな思いで2012年を迎えたのかと思うととても胸が痛みます。家や財産や何より大切な家族や友人を失った方々が悲しみを訴えているのを見て自分の呑気さと無力さを感じていました。私にできることは募金くらいしかなかったからです。先日、お子さんを失ったお母さんたちが集って話をする会を設けているという様子をテレビで見ました。街がどんどん復興していくことに心が追い付かないとおっしゃっていて、やはり崩れたものを直すことは出来ても、心に負った傷が癒えることはないのだと思いました。今でも余震は続いています。一日も早くそのような方々が安心出来る生活を取り戻し、少しでも心が救われること願います。


投稿者: むらさき | 2012年01月24日 11:04

このブログの記事だけでなくテレビの東日本大震災に関する特集を目にするたびに、感じるものは多くあるのですがそれを言葉に表すことがなかなかできません。それはきっと自分の故郷も被災地であり、大切な家族が今でもなおそこで暮らしているからではないかと思います。言葉にしてしまったらいろいろな思いがあふれ出してしまって収集がつかなくなる気がします。
 夏休みに姉と宮城の海沿いを車で走った時に想像を絶するほどの光景を目の当たりにして、胸が苦しくなり急いで走り去ったのですが、私たちは苦しいからと言って帰る場所があるけれど、被災地の人たちはこの苦しみの中で毎日生活していると思うと、自分の苦しみや悩みに対してもう少し耐えてみようと考えるようになりました。これだけでなくこの震災で学んだことはたくさんあってそれを今後の生活にどう活かしていくかが被災地の人たちだけでなく日本にいるすべての人たちが課題として課せられたのだと改めて感じました。


投稿者: きゃりー | 2012年01月24日 13:40

私は東北の人間ではないのですが、大学に入ってからの知り合った岩手と福島の出身の友達がいます。岩手出身の友達は、震災があってから数日は連絡がとれなくなり、予定より数週間遅く帰ってきた後に話を聞くと、電気水道ガスが使えなくてかなり不自由だったといっていました。福島出身の友達は、ニュースになった原子力発電所がある地域とは、違う地域に住んでいるのですが、ニュースで福島が批判されているのを見ると悲しそうにしていました。東日本大震災では多くの人が亡くなり、家族を失い、住む家をなくしましたが、彼らのほとんどが今まで会ったことのない人です。しかし、数年前までは知らなかった先の二人と仲良くなったように、震災がなかったら今回被害に遭われた人とも仲良くなっていたかもしれません。そう思うと今回の震災は自分のまわりでは特に大きな被害がなかったといっても、決して他人事とは思わず、震災に遭った人のためになることで自分にできることはしたいと思いました。


投稿者: FFF | 2012年01月24日 13:54

東日本大震災が発生する前と後では日本では様々な方面で大きな変化があったことは言うまでもない事です。東日本大震災についてのニュースは繰り返されていましたが、私は次第にそれもだんだん見なくなり、実感はどんどん薄いものとなっていきました。しかしこの『つなみ』を読んで、本当の被害者の声を聞くと薄れていくものとしていた自分が愚かであったことに気付きました。読むだけで辛いのに、これを私なんかよりも幼い子どもが五感を持って体験していると考えると、想像を絶する苦痛に被災地の人々は苛まれている事が分かります。私たちの中でこの大震災を風化させてはいけないものであるし、今後被災者への物質的な援助だけではなく、心のケアがいかに大切かという事を考えさせられました。普段テレビとウェブニュースしか見ない私ですが、テレビの情報を受動的にただ受けるだけではなく、もっと能動的に情報を仕入れて真実と向きあうべきであると思った記事でした。


投稿者: ぱゆこ | 2012年01月24日 15:52

私の出身県も被災地と呼ばれる地域です。私の高校は県内各地から生徒が集まってきていたので、私の友人の中にも家がなくなってしまったという人が何人かいます。ちょうど受験・進学の時期と重なっていたこともあって、家族の中で諍いがあったという子もいます。けれども、話し合い、それを乗り越えて家族との絆はより深まったと聞きました。また、夏休みに被災地にボランティアに行ったのですが、そこの現地の方々がほぼ街が壊滅状態なのに悲しさを出さずに強く生きているのも印象的でした。確かに日本は今回の震災で大きな被害を受けましたが、このような人々がいれば、必ず復興できるだろうと信じています。


投稿者: あまおう | 2012年01月24日 16:50

私の地元は岩手で、私は岩手で被災しました。3日ほど電気も水道も使えない生活が続き電気が復旧したときにテレビをつけて飛び込んできた沿岸の映像を見たときのあの気持ちはいつまでも忘れられません。それから何週間か後にボランティアに行ったときにも私にできることはほんの少ししかなく、自分の力の無力さを感じました。みんなで力を合わせて一刻も早い復興を願います。


投稿者: supreme | 2012年01月24日 20:09

このブログの、文集を読んで、3月11日のことを思い返した。そもそも、東日本大震災の前は「生きる」ということにちゃんと向き合ったことはなかった。しかし、震災に巻き込まれた「生きたい人々」を見て、生きることは尊いと感じた。自分を含め、震災は生きることについて考え直す契機となったと思う。この経験が後世に伝えられ、活かされればよいと思う。


投稿者: HY | 2012年01月24日 21:29

僕は生まれは宮城県、育ちが静岡県で、2011年3月11年も静岡県にある自宅にいました。震災当日、東日本大震災の痛まし爪痕を報道番組や新聞記事でみる度に胸がしめつけられる思いがしました。母方の祖父母と叔母夫婦が被災し、しばらくの間避難所生活をしていたこともあったのでその現場を実際体験したわけではないのですが、被災地の一刻も早い復興と被災した方々にまた笑顔がもどるように、僕たち一人ひとりが東北地方を盛り上げていきたいです。


投稿者: にろう | 2012年01月24日 23:46

 震災の時、私の住んでいた地域の震度は6強でした。ほとんどの家具が倒れ、電気、水道、ガスが止まりました。家で一人でいた私は、自分の身に何が起こっているかわからず、自らの置かれた状況にただただ不安を感じていました。数時間後、無事に家族と再会できた時に心の底からほっとしたのを覚えています。
 私は震災の経験を経て家族や友人との絆の大切さを再認識しました。水や食料が足りないため、家族で協力し合い給水車と自宅とを往復したり、空いているスーパーを探してはそこに何時間も並んだりしました。そして友人たちとは互いに情報を交換し励ましあいました。私はつらい経験を絆によって乗り越えることができました。しかし、現在も震災の被害によって苦しんでいる人々がいます。そんな人々のために私にできることもあるはずです。すべての人々との絆を大切にしたいと思います。


投稿者: DDK | 2012年01月25日 00:00

東日本大震災が発生した3月11日、私は旅行帰りのバスの中にいました。中で騒いでいたせいもあり地震には一切気づきませんでした。恥ずかしながらサービスエリアでテレビを見て初めて知りました。
被災地域に進学で引っ越した友達にすぐ連絡を取り、返事が帰ってきた時は本当にほっとしました。幸い、身内にも被害はなかったのですが被害を受けた人々が多くいること忘れずにいたいと思います。現在工学部に所属している私は技術者のたまごとして、将来原発に関する問題の解決に少しでも役に立てたらと思います。


投稿者: らっしゃー | 2012年01月25日 00:22

この作文集『つなみ』を読み、私よりも小さな子供たちが被災したことを考えると、苦しくなる。私は実際に車で被災地に行ったが、自分の目で見ると衝撃が強く、しばらく頭が真っ白になった。
そんな被災地の子供たちが『感謝したい』『つよくてやさしい人になりたい』などと書いているのを見ると、子供たちに感動すると同時に将来に対して希望が湧いてくる。
私自身、将来は被災地の人間として、地元に何か還元していけたらと思っている。


投稿者: いとかんうり | 2012年01月25日 00:34

僕は生まれは宮城県、育ちが静岡県で、2011年3月11年も静岡県にある自宅にいました。震災当日、東日本大震災の痛まし爪痕を報道番組や新聞記事でみる度に胸がしめつけられる思いがしました。母方の祖父母と叔母夫婦が被災し、しばらくの間避難所生活をしていたこともあったのでその現場を実際体験したわけではないのですが、被災地の一刻も早い復興と被災した方々にまた笑顔がもどるように、僕たち一人ひとりが東北地方を盛り上げていきたいです。


投稿者: にろう | 2012年01月25日 00:36

震災が起こったとき、私は実家でゆっくりテレビを見ていました。最初は大したことがないだろうと思っていました。しかし、次第に大きくなっていき、隣に住んでいるおばあちゃんに促されるように外に出ました。私の出身は被災県いわれる地域です。津波の影響がなく、周りに亡くなった方はいませんでした。この記事の冒頭の『つなみ』の抜粋を読んで、すぐそこで何人もの人が亡くなっていく、なくなっている光景を目の当たりにした子供たちが、これからいろいろな経験をし、たくましく育ち、震災を乗り越えてほしいと思います。


投稿者: コンセント | 2012年01月25日 00:44

私の出身は福島県です。今も原発の事故の影響を直に受け続けている、そんな福島県。今でも原発とか放射能などの言葉を聞くと拒否反応を起こしてしまいます。確かに放射能は有害だけど害にさらされて暮らしていて、そこで生きていくしかない人たちがたくさんいることを考えてもらいたい。
 悲しみの大きさはいろいろあると思いますが、世界にはいろんな悲しみをもった人がいるということを私たちは忘れがちだと思います。悲しむひとを前にして自分は本当に何もできないのです。そのことが分かっているのに。そのことに私は憤りを感じます。
 だから軽い気持ちで原発だなんだって福島のモノを避けるような人を私は残念な気持ちで見てしまいます。表面的にしか物事を感じ取れない人に私はならないようにしたいと思います


投稿者: 星の王子様 | 2012年01月25日 00:44

東日本大震災のあの日、私は東京ディズニーシーにいました。外の世界と完全に遮断され、情報も確かに入ってこない不安な状況の中で、キャストさんたちがほとんど寝ずに一晩中ゲストの世話をしていたことを鮮明に覚えています。人の温かさに触れ、人は支え合って生きているのだなあと実感した日でした。私の場合はほんの小さなことですが、この記事のように震災によって人と人のつながりを実感した人は多いはずです。震災を通して学んだことを忘れてはいけないし、それを次の世代へと伝えていくことが残された人の役目だと思います。


投稿者: せあ | 2012年01月25日 01:23

自分は、宮城県の出身です。埼玉に引っ越す一日前、震災に遭いました。震災の影響で電気・ガス・水道が止まり、その日の食料を手に入れるのさえ難しい日が続きました。閉まってるコンビニや車のガソリンを狙った強盗などで、治安は最悪でした。でも感心したのは、再開したドラッグストアの前で、まるでアトラクションのように百人以上の行列をなす人々でした。これは日本人だからできることかなと思いました。また自ら被災したにも関わらず納豆や豆腐、おにぎりなどを無料で配ってる方々もいて、その時はとても勇気をもらいました。日本人らしい思いやりと、堅実さはかならずやこの国を良い未来へ導いてくれると思います。


投稿者: ぽにょ | 2012年01月25日 01:47

あれは(よくない意味で)すごい出来事でした。あの時わたしは関東の実家でごろごろしてました。あの地震の前から何度か地震が起きていました。なので揺れ始めたときは「またか…」と思ったのを覚えています。しかしそのあと電気が落ち、これはやばいかもしれないと思い家を飛び出しました。家の前には空き地がありそこから周りを見渡すと世界が揺れてると感じるほど地面全体が揺れていました。わたしは今でもよく震災のことを考えます。それは大学に入って本当に被災した友達と出会ったからです。この友達からその時の話を聞いて鳥肌が立ちました。わたしはこの友達と出会わなかったら震災のことなど忘れて暮らしていたんだろうなと思います。地震が起こったことはとても悲しいことだったけどこの友達と出会えて、少しでもその時の話を聞けて本当に良かったと感じています。


投稿者: 「増井みお」と検索してみましょう。 | 2012年01月25日 01:50

震災の直後に現地でボランティアをすることや自身が募金活動をすることなど、直接的な復興支援はできずとも、とにかく節電から始めてみたり、募金活動を見るたびに少しずつでも募金をしたりと間接的ながらも努力をした人はとても多いと思います。被災地の子どもたちが希望を見出している素晴らしさももちろんですが、国中、世界中で東北の復興を願い努力し続ける力があることを忘れずにいたいと思います。


投稿者: くるま | 2012年01月25日 03:29

僕は宮城県で生まれ、静岡県で育ちました。だから、宮城県には少し特別な感情を持ち続けています。2011年3月11日は静岡の自宅で東日本大震災の揺れを感じました。自分自身は実害こそなかったものの、宮城県には母方の祖父母と叔母夫婦が住んでいたため心配でたまりませんでした。安否の確認をしようにも電話回線は混雑している状態で、テレビの報道番組では震災の悲惨さや被害状況など視聴者側の恐怖心を煽るかのような報道ばかりであった。あのような状況で報道機関のとるべき行動をもっと見直してほしいと思う。


投稿者: ニロー | 2012年01月25日 03:44

僕は宮城県で生まれ、静岡県で育ちました。だから、宮城県には少し特別な感情を持ち続けています。2011年3月11日は静岡の自宅で東日本大震災の揺れを感じました。自分自身は実害こそなかったものの、宮城県には母方の祖父母と叔母夫婦が住んでいたため心配でたまりませんでした。安否の確認をしようにも電話回線は混雑している状態で、テレビの報道番組では震災の悲惨さや被害状況など視聴者側の恐怖心を煽るかのような報道ばかりであった。あのような状況で報道機関のとるべき行動をもっと見直してほしいと思います。


投稿者: ニロー | 2012年01月25日 03:48

2011年3月11日に起きた東日本大震災。その発生直後からずっとテレビに張り付いてニュースなどを見ていましたが、流れてくる映像に衝撃を受けました。これは映画の一場面ではなく実際にこの日本で起きていることなのだとは信じられないほどに。そんな未曾有の大災害を経験した被災者の方たちはきっと生きていくうえで必要不可欠な人とのつながりの重要性を知ったと思います。日本中の人々からの支援や様々な国からの義援金。世界中の人が日本を思って助けてくれたわけです。自分は一人じゃない、辛いときは周りの皆が支えてくれるということを実感したと思います。こうした人とのつながりをもっと大切にしていこうと思いました。


投稿者: HSY | 2012年01月25日 06:21

東日本大震災は、日本中の人々に改めて災害の恐ろしさを伝えた出来事だった。震災が起こった日、私は学校にいたのだが、建物全体が大きく振れ、棚の中の物が一気にずり落ち、電球も大きく揺れていて、恐怖を感じたのを覚えている。きっと私にとって忘れられない日となるだろう。しかし、その日つなみに巻き込まれてしまった被災者の方たちの恐怖と絶望は、私たちの感じたものの比ではないし、私たちが軽々しく「理解できる」と言えるものではない。被災者の方たちの中には、家族や親せきという、かけがえのないものをなくした方たちがいる。そして、もうすぐ一年が経とうとしている今でも、苦しんでいる方たちがいる。私たちに出来ることと言えば、募金活動やボランティア活動に参加するなど、ほんのささいなことだと思うが、なんであれ、できることなら協力していきたいと思う。完全とはいかないかもしれないが、少しでも多くの方たちが元の生活に戻れることを祈りたいと思う。


投稿者: MOU | 2012年01月25日 06:34

東日本大震災が起きたとき、私は埼玉にいました。埼玉にいても家のものが少し棚から落ちてきたり少し恐怖を覚えました。しかし、私は震災の影響をぜんぜんわかっていなかったのだと気づかされました。それに関東で大きな地震が起きるかもしれないという話を耳にしました。人事ではなくすべての人が震災に対して向き合っていかなければならないし、実際の状況を知らなければまた被害が大きくなってしまうと思う。


投稿者: lambo | 2012年01月25日 07:00

2011年には東日本大震災が起きました。非常に甚大な被害を及ぼしたものでしたが、一番忘れてならないということは、津波の恐ろしさであると感じます。地震が発端ではありますが津波という二次災害による被害が多くの人を死に追いやった要因だと考えられるからです。津波というのは普段意識することが少なかったこともあり、二次災害の存在というのを意識していく必要があると感じました。


投稿者: かぶるも | 2012年01月25日 07:25

2011年、このような大災害に見舞われたのはとても残念に感じます。
災害直後は国民全体の地震や津波に対する意識が高かったように感じられますが、8ヵ月経った今感じられるのは意識の低さです。メディアでもあまりとりあげられなくなったと共に、被害に遭った地域より少し離れた場所にいた人々はもう関係ないくらいに思っているのはないかという印象を受けます。
被害を受けた方々への弔いの気持ちを忘れぬとともに、残された私たちにできることはなにか考えることが重要であると感じました。


投稿者: みけ | 2012年01月25日 08:07

2011年3月11日、東日本大震災が起こった日、私は埼玉の下宿先で1人でテレビをみていました。これまでに自分が体験したことのない大きな揺れを感じ、同時に恐怖を覚えました。
宮城、岩手、福島を中心とした日本全国の被害状況をテレビで見てその規模の大きさ、被害の甚大さをひしひしと感じました。
震災から10ヶ月たった今現在も東北を中心とした被災者の方は震災と向き合って復興を目指しています。
しかしその一方で、自分を含めて被害のひどくなかった地域の人々はその記憶が薄れてしまっているようにも感じます。
みなそれぞれ「日本を1つに。」「頑張ろう日本。」と声を揃えてはいるが、どこか客観的で自分にとって差し迫った問題ではないと感じてしまっていると思います。
今私たちにできて、必ずしなければならないことは、震災直後の東北のために。日本のために。という気持ちを風化させないことではないかと感じます。
復興への道をしっかりと歩もうとしている人と、歩みに合わせてそれを手助けする、思いやる気持ちを私たち一人一人が再度確認することができれば今の状況は真の復興へ向かうという意味でいい方向に変わるのではないかと思います。


投稿者: ta03 | 2012年01月25日 08:28

今でも信じられなく思ってしまう東日本大震災。子供たちの率直でリアルな言葉を読んで、はっとする。決して他人事ではない。テレビ、新聞、ラジオなどで連日大きく取り上げられてはいたが、あの悲劇をもっとリアルに知っていくべきではないだろうか。そして日本全体が1つになって助け合って復興していかなければ、と思う。


投稿者: ちちち | 2012年01月25日 10:17

私は、地震後の日本で政治家たちがいろいろな人から非難されたり文句を言われたりしている姿を見て少し悲しい気分になった。こんな状況におかれているのに人間は他人を責めようとしているからだ。誰がいいとか悪いとかあるかもしれないが、協力するときは文句を言わないでみんなで協力することが大切だと思った。誰かが誰かのために頑張ろうとしているのだから。しかしよく考えてみると、そのように他人を非難することで不安定な心に安心を求めているのだろうかとも思った。


投稿者: usp | 2012年01月25日 11:01

 あの大震災が起こってからもう1年が過ぎようとしています。ぼくはとても時間が経つのが早いと感じたのですが、被災した人たちはきっと長く感じたのだろうと思います。本当に大きな出来事でした。
 あの日ぼくは外で自転車をこいでいました。突然目の前の景色が歪み、調子が悪いのかなと思っていたら次々と建物の中から人々が出てきて、その瞬間揺れているのは自分ではなく周りの建物だということに気づきました。急いで家に帰りテレビをつけるとこの世とは思えない世界が映っていました。家族や大切な人にの無事を確認しようとしても電話もメールもつながらない状況で不安な時間を過ごしました。
 この震災を乗り越え前を向いて歩くことはとても難しいことだと思います。しかしこの震災で「人」というものに対して、「家族」というものに対してかけがいのないものなんだという思いが芽生えてきました。人に対する怒りのようなものがあまりなくなったような気がします。それは、同じ人間でみんな同じ重さの命をもっていて、自分と同じように大切な人がいるということに気づいたからだと思います。
 被災した小学生の子が「強くてやさしい人になりたい」と言っているのを受けて、とても驚きました。ぼくが小学生のときは仮面ライダーになりたいと言っていたのにこの子は今、20歳のぼくが理想としている人になりたいと言っています。これを受けて、人って強いなと思いました。簡単に折れないし、折れちゃいけないと思いました。
 ぼくも「絆」を大切にできる強くてやさしい人にないりたいと思いました。


投稿者: もじゃ男 | 2012年01月25日 11:18

震災が起こった3月11日、私は旅行で中部地方にいて地震の揺れにはほとんど気付かなかった。後から大地震があったことを聞き、急いで家族へ連絡をとったが、回線が混んでいてつながらず、次の日に連絡が取れたときにほっとしたのを覚えている。落ち着いたころに実家へ帰ると、家や道路はめちゃくちゃで、その状況を見てとても悲しくなったが、それよりも東北地方のもっと被害のあった地域についてのニュースを見ると、さらに心が痛くなった。被害にあった友達もいたので、これは現実で身近なことだと改めて痛感した。今回の震災で私は人と人との助け合い、支えあいがとても大切だと感じた。このような繋がりが復興につながっていくのでは、と思う。


投稿者: kemp | 2012年01月25日 11:42

人間は、心温まる「贈り物」の循環を創り出すこともできる…。とても素敵な言葉だと思った。
私もこの「つなみ」を読んだことがある。子供たちがその目で見て、体験したことがありのままに伝わってきて、その言葉のひとつひとつが胸に突き刺さった。東日本大震災ではたくさんの命が失われたが、その中で生まれた命もある。2011年の大晦日、NHK紅白歌合戦で特集が組まれていた。感動した。その子たちの親は、全部失ったけど、この子が元気に生まれてくれた。この子が私たちの光です、と言っていた。名前も、色々な思いが込められたとても素敵な名前ばかりだった。この子たちが大人になるころ、優しい気持ちが集まったよりよい日本になるのではないかと思った。


投稿者: ぴょん | 2012年01月25日 11:46

僕は宮城出身で、東日本大震災によって、中学校の同級生が亡くなりました。僕はこの事を知った時初めて死というものを強く意識しました。宮城は今非常に大変ですが、早く大学を卒業して宮城に帰り、復興に少しでも貢献したいです。


投稿者: NS | 2012年01月25日 13:27

2011年3月11日、私たちには忘れることの出来ない大震災がありました。地震が起きたとき、私は家におり、ひどく恐怖を感じました。群馬にいた私ですら、これほどの恐怖を感じたので東北の人たちがどれほどの恐怖だったのか想像することもできません。
今もまだ震災による傷跡は癒えていません。
私たち一人一人にできることは少ないかもしれませんが、これから私たちがなにをするべきなのかが大事なのだと思います。


投稿者: YG | 2012年01月25日 13:53

震災が起きたことをテレビではじめて知った時、その被害の様子にとてもショックを受けました。実際に、たくさんの人が直接地震や津波の影響を受け、漁業なども放射能の影響を受けたりしました。自分にできることは何であるかと探したときに、節電することを思いつき、節電を心がけました。早く復興してほしいですし、自分にできることも続けていきたいです。


投稿者: KY | 2012年01月25日 15:32

僕は震災が起きた時家で寝ていました。その後、ニュースで東北の人がどんなつらい目にあったか知りました。この震災を通して僕たちは普通に学校に行き、生活できるこ事の素晴らしさを噛み締めて生きていかなければならないと思いました。今自分たちにできることを考え、行動することが大事だと思いました。


投稿者: 秀納言 | 2012年02月12日 16:28

私は実家が東北ということもあり、被災者のうちの一人ですが、日本海側ということもあり、それほど被害は多くありませんでした。ですが、友人の親戚や、引っ越していった友達などが岩手や福島に住んでおり、悲しい知らせなどをいくつも聞いてきました。同じ東北県民として被災地の人々を助けたいという気持ちが募り、高校のみんなでボランティア活動などにも励みました。周りにもそのような人々がとても多く、日本は温かい人がとても多いなと感じていました。ですが、埼玉に引っ越してきて、被災地以外の人々と会話をするうちに、被災地以外の人々にはあまりこのような悲劇に関心をもっていないということに気が付きました。某アナウンサーが誤って私話で、「最近地震の話ばっかだよね~。さすがに飽きてきた」などといったことを放送してしまった事件と重なり、残念な気持ちに刈られています。ドキュメント番組などでも紹介しているように、被災したのに他の人にも気を配りながら、明るく必死に未来を見据えて歩いて行こうとしている人たちを見習って、他人に救いの手を差し伸べ、共に生きていこうとするような世の中になっていけたら、これからの日本はとても良いものにnなっていくのに…と思います。


投稿者: milk | 2012年06月20日 01:56

マスメディアが伝えた東日本大震災は、過度に強調したり綺麗事になっていたりで、事実を伝えているとは言い難いものです。私は宮城出身で家が流され、友人を亡くしました。私の住んでいた町は消え、母校も焼失したのです。現実はとても残酷でした。しかし、辛い時ほどみんな笑うのです。きっとそれは、私たちがこの震災を通して見つけた答えだと思います。誰かの笑顔が周りを救ったのは間違いないです。真実が多くの人に伝わり、あの大震災を忘れずに、被災地の今後の課題を共有してほしいです。


投稿者: haiji | 2012年07月04日 20:39

東日本大震災を受けた時,自分は地元の静岡にいた.近くのショッピングモールにいるときに"少し揺れた"程度に感じた程度で,帰ってテレビをつけるまではこんなにも大きな事件が起こっているとは夢にも思わなかった.
この東日本大震災において約1万5千人もの死者が出てしまったが,大事なのはこのことを教訓にし,次に生かすことであると考える.ここ数年,東海地震が近年起こると言われ続けているが,東日本大震災同様に,地震,津波,それに加え富士山の噴火などさまざまな不安要素が存在する.しかし,地震はいつ起こるかなど分からないため事前に準備し,さらに常に覚悟して生活していかなければならない.でき得るかぎり多くの命を救うために.


投稿者: kzkc | 2012年12月30日 12:04

2011.3.11という日は、きっと一生忘れられない日になるんだろうなと思います。家族とも会えず、一人でただ何もできずにおびえていた自分を、夜中に2時間以上、自転車をこぎ続け、迎えに来てくれた兄の姿は目に焼き付いているし、自分の知っている場所が津波で流される映像を見た時の恐怖は頭から離れません。私の出身の茨城県も被害を受けましたが、それ以上に傷つき、目の前で流されて死んでいく人を目にしてしまった東北の人たちのことを考えると胸がいっぱいになります。いま、生きている私たちは、その生きていることにきちんと感謝し、被災地の方々を全力で応援していかなければならないと思います。場所、生活などの支援ももちろん大切ですが、先生の授業を聞いて心のケアの難しさと重要さを学んだので、心まで支援できる社会でありたいなと思いました。


投稿者: ぼう | 2013年01月21日 14:17

 このブログの記事を読んで、震災当時のことを思い出しました。自分は被災地からは程遠く、テレビの画面を通してでしか状況を知ることができませんでした。実際に被害を受けていない私たちのような人々は、気づかないうちに震災のことを頭の隅のほうにおいやってしまっているのかもしれません。
 被災地の子どもたちの作文やみなさんのコメントのなかには胸を打たれるものがありました。文集の一部だけはありますが、読んで思うことは、被災者である子どもたちの方が強く前を向いて生きていこうとしているということです。
 いまだ原発など多くの問題が残っているなか、自分はこのままではいけない、何かしなければいけないのではないかとも改めて思いました。これから自分には何ができるのかについて考え、行動を起こしてしていきたいです。


投稿者: タンヤオ | 2013年01月21日 18:00

この震災で、私の地元は大きな被害を受けました。私の実家も、家具のほとんどが倒壊し、家の中がめちゃくちゃになっていました。私は地震当時、埼玉県にいたのですが、実家に電話をかけたら、母の声は涙声で震えていました。今回の震災で失ったものは計り知れませんが、人々の絆は深まりました。今後関東圏でも大地震が起きると予測されます。この震災を通じて、いつ自分の身に同じようなことが起きてもおかしくないと、誰もが感じたはずです。私も含め、ひとりひとりが助け合う心を大切にしていく必要があると思います。


投稿者: カフェイン少なめ | 2013年01月23日 13:07

東日本大震災が起きてから、一年以上が経過し、あの恐ろしい災害のことも少しずつ頭の中から消えてしまっていました。今回先生のブログを読んであのころの気持ちを思い出しました。わたしは東北出身ではないので、テレビで見ていただけですが、人々の悲しみや辛さがテレビを通してでもまじまじと伝わってきたことを覚えています。地震がもたらしたものは多くの悲しみであることはまちがいないのですが、あのころの日本はみんなが東北を助けたいという気持ちでひとつになっていたような気がします。誰もが人にやさしくしたいという気持ちを持って生きていたと思います。災害からしばらく経ち、そのような気持ちも少しずつ薄れてきてしまっていましたが、あのころのきもりを忘れてはならないなと思いました。


投稿者: レッドブル | 2013年01月23日 13:45

私は東日本大震災が起きた時、高校で授業を受けていました。今までに体験したことのない揺れの大きさに生徒はもちろん先生までもが動揺していたことを覚えています。そして、テレビのニュースを見て言葉を失いました。あの日見た津波の映像は今でも鮮明に覚えています。
あの震災から2年以上が経ち、被害があまり大きくなかった地域の人々は震災の記憶が薄れているかもしれません。私たちができることはこの震災の記憶を風化させずに復興のために何ができるかを考え、行動することだと思いました。


投稿者: ラーメン | 2013年07月17日 15:43

東日本大震災からもうすぐ3年になります。私は、地震が起きたとき高校で授業を受けていました。電気が通らなくなっていたため、この地震が与えた被害の大きさを知ったのは1週間ほど経ってからでした。私の地元も被害を受けていましたが、テレビで東北の様子を見て言葉も出ませんでした。津波の映像は見ていて本当に苦しくなりました。今まで地震が起きてもなんとも思わないことがほとんどでしたが、この地震でどれほど恐ろしいものなのかを知りました。震災から2年以上が経って、当たり前な日常が私には戻ってきています。同時に、まだまだ復興の進んでいない地域があるのにも関わらず、震災について考える機会も減ってきています。今回この記事を読んで、震災での出来事を忘れてはいけないと強く思いました。また、改めて自分ができること、復興について考え直したいと思います。


投稿者: わたあめ | 2014年01月06日 15:27

 東日本大震災の時、私は日本に来た半年で、初めてそんな大きい地震を感じた。だが、地震が起きた直後、電話が繋がないため、両親や友達はすごく心配してしまったが。まだ家に戻れないときは、この震災でどんな結果を招くのか全然思いつかなかった。テレビで震災地の状態を見て、涙も止まれないほど、外国人だが、その様子を見て、震災地野の人の安全を心配してきた。
 日本は地震多い国で、国民はそれに対して対策はよく知っている。学校でも地震対策訓練もやる。それはよいことだと思い、中国では、その部分はまだ不足だと感じている。学生の自分自身の安全を守ることも知らない人が多い。特に中国の農村部だ。


投稿者: きき | 2014年01月22日 10:23

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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