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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

橋本治著『橋』-親密圏の変容と欲望の個人主義

 この一年間に読んだ小説の中でもっとも考えさせられたものは、橋本治著『橋』(2010年、文藝春秋)でした。私がこれから論じるのは文芸評論ではなく、あくまでも虐待研究をする立場からの言説であることをお断りしておきます。
 本書のストーリーは、2006年にわが国で実際に起きた二つの事件-秋田「彩香ちゃん虐待死事件」(娘を橋の上から突き落として死亡させた事件)と東京「新宿・渋谷バラバラ殺人事件」(外資系投資会社に勤めるDV夫を殺しバラバラにして死体遺棄した事件)-を題材にとりながら、フィクションで構成された長編小説です。

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橋-世代間で掛け渡してきたものは果たして希望だったのか?

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 単行本の帯から内容をご紹介すると、次のとおりです。
 「こうなるしかなかったのか? 日本海に面した雪深い地方で、高度経済成長に青春を過ごした二人の母親、元水商売の正子と信用金庫勤務の直子。彼女たちの娘、雅美とちひろが停滞の次代に家庭を持つ。そして、二人はそれぞれ、静かに人生を転落してゆくのだった。時代と人間の宿命を作家は仮借なく綴る。」

 正子の夫は、高度経済成長期の公共事業にのって工事用車両のダンプカーで事業拡大をはかる運輸会社を経営しています。直子の夫は、事務用品販売会社から独立し、事務機器のレンタルとリースの会社経営に乗り出し、事務OA化の流れに乗って着実に事業を拡大していきます。

 これら二組の夫婦は、文脈はそれぞれに異なるものの、女性の仕事先で知りあうことがなれそめのきっかけであり、結婚の決め手は相手男性の人間性や実質価値(being)というより将来性と比較価値(having)に置かれている点で共通しています。
 ここで物語の主人公が女性たちであることによって、「女の邪心」が前面になりがちですが、これらの対象をなす「男の邪心」の存在もしっかりと浮上します。

 雅美とちひろは、高度経済成長の波に乗り遅れることなく、自分たちの「ゆたかさ」を手に入れようと懸命に努力する両親の下で育てられます。
 雅美は、家族や学校の中で自分の居場所を探し求める虚しい努力を強いられ、漠然とした将来展望さえ描けないままに商業高校へと進学し、観光地のホテルに就職をします。
 ちひろは幼少よりバレエのレッスンに通い、地元屈指の有名女子高校から東京の有名女子大に進学します。
 二人の思春期の間にバブルが崩壊し、家業がそれぞれに行き詰まる一方で、肥大化した欲望に支配されて自らを見失ったかのような二人の女性が後に、母親となり、妻となり、それぞれに殺人という悲劇を生むこととなります。

 雅美とちひろの両親は、子どもたちのもつかけがけのなさ(being)を育むという営みを大切にすることはありません。雅美は、両親の「ゆたかさ」を追及する営みの支障とならないように育てられるだけです。ちひろは、両親の伸び行く家業の「ゆたかさの証」であるか一部(having)であるかのような育てられ方をするのです。これらの子育てのあり様は、わが国の高度経済成長からバブル期において、多くの家族が共有した親密圏の歪な変容にほかなりません。

 夫婦や親子という、それぞれのかけがえのなさを本来なら受けとめあい慈しみ合うことを期待される親密な間柄が、自分の欲求を実現する手段としての関係性に変質してきたのです。そうしてたどり着いた地点に今日の虐待やDVの発生があるとすれば、虐待やDVの問題は高度経済成長の時代から連綿と続いてきた「自分(だけ)はゆたかになろう、幸せになろう」とする欲望の個人主義の所産であるといえはしないのでしょうか。
 つまり、虐待は特異な人の問題として生じているのではなく、日本人が長らく「当たり前のゆたかさの追求」であるとしてきた営みそのものの中から生じているということです。

 さて、この小説の登場人物の中で、「大学出」はちひろだけです。学歴がものを言った高度経済成長期に自分たちの「ゆたかさ」を実現するためには、過酷なまでの努力を強いられました。そのような文脈をもつ地方の会社経営者の「ゆたかさ」と比較価値の中で成長したちひろは、東京有名女子大の在学中に、付属中学や首都圏から進学してきたセレブ志向の女子大生が醸し出す華やかさからはずれまいとし、「東京にいることがふさわしい女」であろうと努力します。

 このようなちひろの大学生としてのあり方は、明治以来の大学生のあり方の帰着点であるように思えます。日本の大学の成り立ちは、近代化を支える主要なエリートを養成する機関としての性格を一面において持ちましたから、地方から都会の大学に進学し、官公庁か大企業に就職して出世するという欲望を実現するための登竜門でもありました。

 明治から大正にかけての時代、身分制度による封建的秩序から解放された近代的自我をもつ個人のメンタリティは、間違いなく大学出身者の特権だったと考えます。近代的個人であることは、大衆に対するアドバンテージであり、「自分(だけ)がゆたかになる」ことを担保する主体的条件であるという性格を持つことになるのです。
 ここに、わが国のエリートに巣食う傲慢な権威主義とエゴイズムの起源があるといっていい。

これに対し、ヨーロッパにおいて近代的自我を持つ個人であることは、封建的権力から政治権力を勝ち取り、経済的自由と人格的自由を権利として万人に打ち立てるための公共的精神と社会的責任を伴う性格を持ちました。
 そうして、ヨーロッパ近代の市民革命によって成立した近代家族は、身分による秩序から解放され、両性間のロマンチック・ラヴにもとづく近代家父長制となりますが、人格的自由の相互承認にもとづく夫婦間と親子間の責任については、わが国の近代家族よりもはるかに重いものがあったと考えることができるでしょう。

 わが国において近代家父長制が大衆的に広まりを始めるのは大正時代です。この時代に書かれた谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、大正時代の「新しい都市文化にはまった夫婦の典型像を描いたもの」(湯沢雍彦著『大正期の家族問題』、232頁、ミネルヴァ書房、2010年)とあるように、家族は夫婦それぞれの欲望を追求するツールであり、人格的自由に対する相互承認と責任は、『痴人の愛』の主人公にほとんど見いだすことができません。

 このようにみてくると、わが国の近代化によって登場した個人による家族という親密圏のあり方は、自己の欲望を実現するために、身近な他者をあるいは支配し、あるいは手段とする本質を懐胎してきたと言うことができます。この矛盾は、戦前においては強権的国家体制の下で隠蔽され、戦後においては高度経済成長とバブルの幸福成長幻想が終焉した後の「停滞の次代」に噴出することによって、虐待やDVが顕在化することになったというのが事の真相ではないかと私は仮説的に考えています。


コメント


 5月18日(水)の授業で見た「密室の親子Ⅱ」について。
 私は、虐待ということに関して、悪いのは親であり、子供は被害者だとしか思っていなかった。
 しかし、今回のビデオを見て、少し考え方が変わった。
 親は自分でも子供に暴力をふるいたくないと思っているに、感情が抑えきれなくなり、暴力をすると止まらないと言っていた。ただ、子供が憎くて、虐待をしてしまうのかと思っていたが、こんな気持ちがあって虐待をしてしまうという状況を知らなかったので、すごく驚いた。ただ単に、親が悪いと思っていた私は、虐待の本当の実態を分かってなかったのだと痛感した。
 しかし、だからと言って虐待は仕方ないと認めるわけにはいかない。子供は親のそのような気持ちを知らないし、どんなに暴力されても、自分の親が好きだと近寄ってくる姿を見ると、すごく切なく思った。幼いころに虐待された子供は、大人になって自分の子供にも同じことをしてしまうという悲しい連鎖が起きてしまうことが確率的に多いので、少しでも少なくなっていけたらいいと切に思う。


投稿者: さるくん | 2011年05月25日 11:29

 5月18日の講義で、虐待をしてしまう母親について学んだ。痛みをしっているくせに殴ってしまう、自分はなんて酷いことをしてしまったんだと後悔する母親たちの姿に虐待する側もいろいろ複雑な生い立ちや精神的な不安定さがあるんだと思った。
 だからといって虐待していいわけではないが「痛い、やめてお母さん」と寝言を言う子供の姿を見て「ごめん」と言う母親がいる。この悲しい親子関係の修復は時間がかかるだろうけれど、福祉などのサポートを受けつつもこれは当人同士が改善していかなければならない問題なんだと思った。


投稿者: ねこじゃらし | 2011年05月25日 11:57

 5月18日の授業を受けて、今まで虐待に持ってたイメージが現実とは大きく違う事に気づかされた。子供だけが苦しいのではなく親もまた、いけないと思っても虐待してしまい、後悔するのに自分が制御できずにまた繰り返してしまう、そんな苦しみを抱えているケースもあると知った。
 親も子供も苦しんでいるとなると、やはり周囲の第三者、社会が救いの手を差し伸べる他無いのではないか。そうするには、まず私たちが虐待の現状を正しく知っておかなければいけないと思う。
 私は今までTVで何回か虐待のニュースを見たり、ドキュメンタリーで「~さんは小さい頃虐待を受けていた」というような虐待を受ける回想シーンを見たことがあるが、ほとんど全てと言っていいほど親がストレス発散や快楽のために子供を暴力で傷つけるという、まさしく私が今まで持っていた虐待イメージの内容だった。それはあくまで虐待の1つの形態であり、それだけという単純なものではないということは講義を受けるまで知らなかった事だった。
 国民が触れる機会が多いからこそマスメディアに現状を伝えてほしいと思った。虐待を撲滅というよりも虐待から救うというスタンスで社会が動くといいのかもしれない。


投稿者: ふるもふ | 2011年05月27日 07:16

 5月28日の授業で発達障害児のビデオを見て、虐待とは、多重人格を形成してしまうほど強力なものであり、恐ろしいことだと改めて感じました。
 以前、虐待された子供は将来大人になったときに、自分の子供に虐待を行う傾向があるという話を聞いたことがあります。
その話が本当なら、虐待は遺伝に関係しているということになってしまいます。
 例え遺伝が関係していたとしても、そんなものは周りの環境や個人の意思で変えられるのではないか、と僕は思いました。
虐待された子供は将来、自分も虐待する可能性が高い、ということをどうしても僕は信じたくなかったのでこのような意見が出たのだと思います。


投稿者: ピカピカ | 2011年05月29日 17:48

 この『橋』という小説はフィクションではあるが、題材としている2つの事件というのは、とても恐ろしいもので、まだ自分としても記憶に鮮明に残っている。なぜかと言えば、それは当然、インパクトがとても強かったからであろう。
 題材として、“虐待”事件が取り上げられている。最近、虐待事件が世間一般的にそこまで珍しいものとして認知されず、むしろ、よく起こる事件の1つとして認知されてきてしまっていると自分は認識している。
 虐待事件が起こる要因は、多々あると思うが、自分は原因の1つとして、今の社会のありかたがあげられると思う。特に小泉政権の辺りからであろうか、組織で動くことよりもとにかく個人の能力を求められ、人々は能力をあげようと躍起になったり、自分が良ければまずはそれでよいという考えに陥ったりする。その際に、自分にマイナスになるものはなるべく排除しようとする傾向が強まるのはもはや当然のことであろう。そのマイナスになるものというものが、子どもが当てはまってしまい、排除する1つの形として“虐待”が生まれるのだろう。
 また、携帯電話やインターネットの発展により、とても簡単に人とコミュニケーションをとれてしまう時代になってしまっている。そのせいで、人間関係自体が軽薄なものとなってしまいがちになる。つまりは、自分の子どもに対する思い入れも昔よりなくなってしまっているのではないかと自分は考えている。その思い入れのなさの究極が“虐待”ではないだろうか。今の社会のありかたを変えるということが解決策になるのかはわからない。
 ただ、自分も大切にするけど、相手をもっとそれ以上に大切にするということや人間同士のかかわりをもう少し密にするといった、当たり前のことをしっかり一人ひとりやっていくことが、“虐待”問題への対策になるだろうし、もっと言えば、社会のありかたを変えられる要因にもなりえると思う。


投稿者: 日経 | 2011年06月07日 10:32

 いつどこでどんな虐待、DV事件があったという 内容を見ると虐待を行った主体の問題が浮かびがちであった。
こ のブログを読んで親が自分の都合、欲求で、子に影響を与えてしまって、それが子の間違った価値観を形成してしまうことが虐待、DVを引き起こしやすくなると思ったので、なぜ虐待が起きてしまったのかを考えるために、虐待の当事者の育てられた環境、親との親密性から広く考察することが大切だと感じた。
 両親が共働きで家にいる時間が極端に少ない、親が世間体のために子に良い進学校に通うことを強要するなどといった事態が、日常生活のなかで十分起こり得るということを理解しておくことが大切だと感じた。


投稿者: ネガティブ | 2011年06月08日 12:34

 今日なお虐待が無くならないのは、高度経済成長期から始まった個人の時代が現在も続いているからだと思います。
 ただ、現在は当時と違い、大学に入ることがステータスでなくなったこと、物質的にも豊かになったことによってその形は「自分は幸せになるため」という競争心から「一人でも生きていけるから」という他者への無関心に変わりつつあると感じました。
 この個人主義の考えを変えることが解決への大きな一歩になると思います。


投稿者: アルアカット | 2011年06月08日 12:52

 私は虐待やDVについて今まで深く考えたことはなかった。そして虐待やDVはある変わった特定の人たちがするものだという偏見をもっていた。
 この『橋』のなかの雅美とちひろは“ゆたかでありたい”という欲望をみたす手段として両親に育てられ、無償の愛を知らないまま大人になってしまった。その彼女たちが普通に人を愛せるのか、と考えると、私は自分の考えが偏見であったと気づく。そしてまた、この“普通は...”という概念も時流の中でつくられ、家族という親密空間の変容を生み出したのだとすると、虐待やDVをしてしまう人が悪者だとは言えないと思った。


投稿者: きゃらめる | 2011年06月14日 09:09

 5月18日の講義を通じて親が児童を虐待するはずがないという、常識が完全に破れた。
 もちろん、以前から児童の虐待に対する番組や記事はたくさん触れたが、これを講義で接し、かなりのショックを受けた。
 しかし、虐待から子供を守ろうとする社会、地域団体の努力もみられた。一番印象的だったのが、言葉でうまく表現できない子供たちに対して絵を描かせ虐待されるかされないかを確認することだった。
 が、子供の虐待が、もしや、科学的な証拠があるとしても、訴えられないケースがある場合もあるということにはびっくりした。
 わたしは子供たちに対する虐待はもはや虐待が行われる特定の家庭だけではなく、社会的問題として取り上げるべきだと思った。なぜなら、大体社会から軽視された麻薬中毒者、アルコール中毒者、または離婚者と言った人々の欲求不満自分の子供たちに向うからだ。随分昔の映像にあることにも関わらず共感できたことが、本当に残念だった。


投稿者: D君 | 2011年06月15日 12:23

 虐待はやる人がすべて悪い。してしまう人に問題がある。自分の思い込みだが、その人たちは日本が豊かになってものに困らなくなったとき、つまり、高度経済成長期以降に生まれ、自分勝手に育てられた一部の人が虐待をしてしまうのだと思っていた。
 しかしこのブログを読んで、この時期に生まれ虐待をしている人たちは加害者でもあり被害者でもあるのではないかと思った。虐待は今起き始めたことではない。その起源や原因を考えると、「橋」にでてくる高度経済成長期の”豊かでありたい”と思う人たちも原因として考えられる。
 ひとつだけわかることは、虐待はやってしまうその人だけが悪いのではないということ。


投稿者: ドクマリ | 2011年06月15日 19:34

 私は虐待をする人は悪い人間だという偏見を持っていたが、虐待に関する様々な媒体を通して「虐待=悪」という考え方はよくないものだと感じた。
 しかし虐待はしょうがなく起きてしまうという考え方は明らかに間違っていると考える。なぜなら虐待が悪化する前に周りの人間が、虐待に気づくことで虐待に苦しんでいる人を助けることは可能なことであるからである。
 きれいごとかもしれないが、それでも私たちは常にセンサーを張り巡らせてできるだけ虐待の起きない環境を作ることが、最善とは言わないまでも一つの救出策ではないかと考える。


投稿者: ジョジョ | 2011年06月16日 15:03

 5月18日の講義を通じて親が児童を虐待するはずがないという、常識が完全に破れた。
 もちろん、以前から児童の虐待に対する番組や記事はたくさん触れたが、これを講義で接し、かなりのショックを受けた。
 しかし、虐待から子供を守ろうとする社会、地域団体の努力もみられた。一番印象的だったのが、言葉でうまく表現できない子供たちに対して絵を描かせ虐待されるかされないかを確認することだった。
 が、子供の虐待が、もしや、科学的な証拠があるとしても、訴えられないケースがある場合もあるということにはびっくりした。
 わたしは子供たちに対する虐待はもはや虐待が行われる特定の家庭だけではなく、社会的問題として取り上げるべきだと思った。なぜなら、大体社会から軽視された麻薬中毒者、アルコール中毒者、または離婚者と言った人々の欲求不満自分の子供たちに向うからだ。
 随分、昔の映像にも関わらず共感できたことが、本当に残念だった。この授業の影響か、周りで一人で遊ぶ子供たちに気を付くことになった。
 虐待されている子供がいるにも関わらず、関係団体に知らせないのまま放置することも“罪”であることに社会が気付くべきだと思う。


投稿者: D君 | 2011年06月17日 11:22

『橋』を読んだときに雅美とちひろの両親に対してずいぶん子供に無関心な親だと感じたが、ブログ内の「(夫婦や親子の間柄が)自分の欲求を実現する手段としての関係性に変質してきた」という部分を読んで子供の世話はしているものの自分のことばかりで子供本人のことを想っている描写がほとんどなかったからだと納得がいった。
家族や親子間さえも含めて人との繋がりが自分の利益のためのものになってしまった理由は、利益を上げ続けることが求められる余裕の無い今の社会にあると思う。人にも社会にもゆとりがないことが虐待がなくならない要因の一つではないだろうか。虐待を責めることで満足せずに社会を根本から変えていかなければ虐待をなくすことはできないだろうと感じた。


投稿者: はる | 2011年06月17日 12:17

 ブログを読み、DVや虐待発生の背景には社会事情がからんでいることがわかった。同時に気づいたのは、DVや虐待は何も最近の問題ではなく、社会情勢は変わっていても、いつの時代にも存在するということだ。
 『橋』の中でも見られたが、格差と格差がもたらす心の余裕のなさが次の世代へ受け継がれていると考えられる。加害者は時代の波の被害者でもあるのだ。
 隠れていたDVや虐待問題が明らかにされたとき、その背景にあるものに注目し、根本から解決していかなければならないと考えた。


投稿者: シマリス | 2011年06月17日 23:14

 虐待の背景には、それにつながるきっかけがある。しかしそれが、日本の経済状況と深く関わりのあることだとは思いもしなかった。
 「夫婦や親子という間柄が、それぞれのかけがえのなさを認め合い慈しみあうものから、自分の欲求を満たす手段という関係性に変質してきた。そこから今日の虐待・DVはうまれた。」という内容がブログに書かれている。
少なくとも、「豊かになろう、幸せになろう」そう思うのは悪いことではない。それを原動力として、働いている人、生きている人は少なくないはず。しかし、何のために…、誰のために…それぞれの欲求を満たす目的を状況によって変えていくことが重要になってくる。家庭を持ったからにはその対象を自分から家族へと向ける必要がある。家庭を持った瞬間に自分の人生だけでなく、家族という複数の人生を背負わなければいけないのだから。
 豊かになったからといって幸せだとは限らない。この二つは必ずしもイコールで結ばれない。幸せとは何か。もう一度見つめなおし、それを手助けできる社会を形成することが、虐待やDVを減らすことのできる道なのではないか。
 間違っても社会の影響により虐待が増加するなどということは、今後なくなることを期待したい。


投稿者: コウノトリ | 2011年06月23日 14:56

自分の親が他の人たちに子供のことについて自慢話をしている姿をみて、ただ自分の欲求を満たすための手段として子供を扱っているんじゃないかと子供ながらに不満に思っていたことをこのブログを読んで思い出しました。夫婦や親子という、それぞれかけがえのなさを本来なら受けとめあい慈しみあうことを期待される親密な間柄が、自分の欲求を実現する手段としての関係性に変質したこどが、今日の虐待やDVの発生につながるとするならば、これらの問題はどんな家庭にもいつでも生じるような身近な問題のように思えます。確かに、自分がより幸せになりたいという個人の欲求は誰しもがもっているものです。しかし、自己の欲求を実現するために、身近な他者を利用するのではなく、あくまで互いの相互関係を損なうことなく個人の幸福の実現を目指すために、近代化以降の日本の社会の仕組み自体をも改善していかなければならないと思いました。


投稿者: ウェイド | 2011年06月25日 10:35

 虐待やDVは過去から現在、未来へとつづいていってしまうものだと思う。講義やブログからわかるように親にされた虐待をいけないことだと分かっているのに自分の子供にしてしまう、負の連鎖、またそこにどれだけ他者が介入して良いのか、保護された子には親のいない寂しさが生まれてしまわないかなど多くの問題が重なっ起きてしまう。もし虐待の原因に社会的問題が関係しているならば私たちもそれを改善しなければならない義務があると思う。


投稿者: ふわり | 2011年06月27日 21:46

 こんな経験を思い出しました。僕には弟と妹がいますが、小学生の頃はみんなやんちゃで、言うこともほとんど聞きません(僕も小学生でしたが…)。そのために僕は、気に食わないことがあると暴力をふるってしまったりしました。僕は親に厳しく育てられましたが、虐待を受けた記憶はありません。小学生も高学年になると、虐待について学ぶこともあり、僕の行為が虐待で、弟や妹が自分たちの子供にしてしまうのではないかと怖くなりました。当時の僕はそれを抑えるのに必死でした。今思うと、兄弟げんかと言える範囲の内容だったと思いますが、当時の僕はそんなことを考えていたのを覚えています。
 講義では、虐待問題は非常に難しいものだと改めて実感しました。家庭内で起きていることであり、専門機関もどこまで踏み込めるのか、また踏み込んでもよい方向に解消されていくのか不安です。虐待の原因が社会的問題にあるならば、本当に大規模な改善をしていかなければならないと感じました。みんなで出来ることを着実に実行していくことが必要だと思います。


投稿者: キャンダ | 2011年06月30日 01:00

 『虐待とは非常に残虐な行為である。』
 これが私の虐待に対するもっとも直感的なイメージだ。何の罪もない女性や幼い子供に暴力をふるい罵倒を浴びせるとは、なんと酷い行いであろうか。
 この小説ではそれぞれ、幼い子供に虐待をする母親、夫から虐待(DV)を受ける妻という、ある意味加害者、被害者のどちらからもスポットを当てた物語がつづられている。
 しかし、このブログを読み進めるうちに、それは決してあり得ないことではなく、この日本で生活し、日本の慣習に慣れたものであれば誰にでも起こり得るものであるということが分かってくる。
 日本には(いや、この考え方はもしかしたら全世界共通のものかもしれない)「当たり前のゆたかさの追及」という欲望がある。とくに高度経済成長期においてはこの考え方が顕著になる。この欲望の追求が虐待につながるのであるとすれば、虐待をなくすために必要なことはこの意識について考え直すことではないだろうか。
 少なくとも、この「ゆたかさ」を学歴や収入に求めることについて、我々はもう一度深く考えなくてはならないと私は考える。なぜなら、それら収入や学歴の「ゆたかさ」が家庭での「ゆたかさ」につながるとは必ずしも言えないのだから。
 私がこのブログを読んで、虐待をなくすためにどうしたらいいか考えた時、それにもっとも必要なのはこの事件を他人事で終わらすのではなく、我々全員に根付く「当たり前のゆたかさの追及」という欲望について、もう一度深く考えることであると感じた。


投稿者: megane | 2011年06月30日 15:12

 虐待というのは、普通の人なら行わない、というような一種我々から遠い存在のものだとつい思ってしまう。
 しかし、先生がお考えのように、欲望の個人主義が原因の一つとなって虐待が発生するのであれば、私たちはもはや虐待を無視することはできないと思う。
 家族の慈しみ合うという行為を無視してまで、執拗に欲望を追求する必要はない。物質的な豊かさだけではなく、精神的な豊かさも人間には必要であると考える。


投稿者: かつボー | 2011年07月03日 15:54

 親密圏の変容、それは、現代における虐待を生んだものであるといっても過言ではない、と私は考える。
 そもそも「ゆたかさ」を追求する営みとは、他者との関わりを大切にする行為とはかけ離れた営みであるということは言うまでもなく、よってそれを追求することは、親密圏の崩壊を引き起こすのである。そして親密圏とは、不断に公共圏を創出するところであるがゆえに、それの崩壊は、たとえば、学級崩壊をも引き起こすと私は考える。
 家庭内という、おそらくもっとも身近な範囲においてさえまともな親密圏を育むことができなければ、学校という社会的場においても、親密圏を育むことは、難しいであろう。
 また、我が国の高度経済成長からバブル期においては、多くの家族がこの、親密圏の歪な変容を経験しているが、その変容によって、家族構造が変化し、そしてそれが、家庭内における新たな関係性を生じさせたということは、紛れもない事実であると思う。
 そして、我が国の近代化によって表面化した、新たな親密圏のあり方は、自分だけの利益を追求するために身近な他者を支配するものであり、そしてその歪な親密圏のあり方の台頭により、今日における虐待やDVが生じたと言っても過言ではないと私は考える。


投稿者: ぱんだ | 2011年07月03日 16:18

このブログの中で『虐待は特異な人の問題として生じているのではなく、日本人が長らく「当たり前のゆたかさの追及」であるとしてきた営みそのものの中から生じている』と書いてあった。この文章を読んでいると、授業の中で見た虐待をしたくないのにしてしまう母親のことが思い出される。子供がいうことを聞かないと欲求が満たされないために虐待をしてしまうと考えることが出来る。
 高度経済成長以降の豊かさを求めるという社会の風潮から虐待というものが生まれてきてしまったというならば、これからの社会で虐待のなくなる社会の風潮を作り出していくことが必要なのではないだろうか。


投稿者: tyu | 2011年07月03日 17:45

虐待をしている親は、子供を傷つけてしまっているがやめることができない自分の感情と行動に苦しみ続け、誰かに止めてもらいたいと願っている。このような環境から子供を救うことは、虐待をしている親を救うことにもつながる。そのためには、周囲の大人が子供の変化に気づき、児童相談所などに連絡をし、より身近な人間は虐待をしてしまっている親の心のサポートをする必要がある。そのためにも、児童相談所などといった施設をしっかりと整えなければならない。虐待を受けた子供は親になった時に同じことを繰り返してしまう現実も少なくない。だからこそ、虐待の対応は慎重かつ迅速に行わなければならない。


投稿者: ガチャガチャ | 2011年07月05日 22:44

自分の今までの「虐待」についての捉え方は、精神的に何か異常のある人だけが行う特異的な行動だというものだったが、このブログを見て、自分のこの考え方は少し違うなと感じた。なぜなら虐待が、学歴志向であった高度経済成長の時代の欲望の個人主義に立脚するものであるとしたら、どちらかといえば学歴を重要視し、大卒での上場企業への就職に価値を見出している自分のような人間も、わが子を虐待するかもしれない可能性を孕んでいると思ったからだ。


投稿者: BANKYO | 2011年07月06日 01:21

 講義を受けているものです。
 
 私は、時代によって物の考え方が変わるように、家族などの親密圏の関係性についても変わっていくのは仕方ないことなのではないかと思う。ただ、関係性が変化していくのをただ見ているのではなく、そこにしっかり自ら意見を発信していくことは重要であると考える。
 家族の関係性が求めあうだけの関係になってきているのであれば、その関係について世間が意識的に自ら考えをもって動くなど、こうした関係性をもっと多くの人に知ってもらい、一人一人がそれについて意見を持ち、家族という親密圏についての考え方を変えていく必要があるのではないか。


投稿者: ガーマ | 2011年07月06日 11:11

 私は今まで、虐待とは身勝手な親が子供に対して行う理不尽極まりない行為であり、許すべきものではないという認識でした。
 しかし、講義であったように、時代の変化に伴う家庭環境の変化や、本来慈しみ合うべき家族を自らの欲求を実現する手段として見てしまうといった認識の変化も虐待の原因として考えられるなら、単純に虐待を行った親を責めるのではなく、虐待が起こってしまうような環境そのものを変えていく努力を本人だけでなく周りも一緒になってしていければならないと考えます。


投稿者: watase | 2011年07月08日 00:46

 親密圏における欲望の個人主義の考えが連綿と続いているものだとすれば、それを断ち切り、互いに慈しみあう関係を築いていくためには、何をなすべきなのだろうか。
 個人主義の考えのもとで十分な愛情を受けずに育った親は、自分の子供に対しても同じように振る舞ってしまう可能性が高いうえに、自分たちの利益を求めて競争しあうこの社会で生きていくとなると、欲望の個人主義の考えにさらに拍車がかかってしまうと考える。
 この問題の解決には各個人の根底にある考えを変えるのはもちろんのこと、社会全体での変革が必要である。困難ではあろうが、各個人がそのことについて考え、意見を発信していくことが重要だと思う。
 


投稿者: ひぐち | 2011年07月08日 15:19

家族という、親密でかけがえのない特別な存在であるべき人間関係が、時代背景やその人々が育てられた環境によって大きく変化し、さらに子供の将来に多大なる影響を与えるということについて、虐待に関する視点で今回のブログを参考に考えてみる。

まず、高度経済成長によって、今回の主人公たちのように各家庭の経済状況から個人の欲望が高まり、家族構成員一人一人(特に親)が自分を中心に行動を起こそうとして、その結果虐待数が年々増加してきていると私は考える。世の中の良い風潮に自分もついて行こうとするあまり、子供への配慮や家族間のコミュニケーションが極端に減り、自分の思い通りにいかないと子供に暴力という手段で怒りをぶつけてしまう、というのが私の考える虐待発生までの流れである。

現代では虐待だけでなく、少子化も大きな社会問題となっているが、これも個人の欲望を重視し、社会で活躍しようとする親世代の都合によるコミュニケーション不足、および子供への関心が低下していることを表わす結果だと私は考える。

これからの時代、虐待を含めたさまざまな社会問題が浮上してくるが、私たちはそれらに対応するとき、時代背景や加害者・関係者となっている人々の育った環境、家族関係まで視野にいれていかなければ解決には向かわないと感じる。

今回の場合は、将来殺人事件を起こしてしまう人間を育ててしまうような家族環境、時代背景に注目して加害者について考察すべき事件だと思う。


投稿者: みっきー | 2011年07月08日 18:07

虐待は許されないことだと思う。どんな事情があるにしても本来守るべきであるこどもに暴力をふるうなんて言語道断だと思う。厳罰を下されるべきだと思う。いままではそこで思考が止まっていた。しかし、その理由まで考えたことはなかった。なぜ虐待をしてしまったのか、原因をつきとめなくては問題の解決にはならない。虐待という問題は一個人の問題ではなく、社会全体の問題だからである。と思うがやはり虐待している親が100%悪いと思う。環境のせいにするのは虐待という社会問題から目を背けているだけである。


投稿者: azure | 2011年07月09日 17:21

 私も橋本治の『橋』を読みました。二人の主人公の雅美とちひろそして、彼らの親は丁度私と同世代かもしれません。私も高度成長期に商売をして参りました。従って、親の世代を通した彼らの感情を理解できます。自分たちの子育てを振り返ると、仕事にかまけて彼らの親と五十歩百歩の部分があります。「親密圏の歪な変容」は、一寸間違えると我が家にも起こり得た問題です。なぜなら、前近代的家父長制と現代的家父長制の狭間で、変容しきれずに中途半端な家父長体験を引きずって葛藤してきたからです。主人公の親たちも、自分たちが育ってきた貧しい家庭環境から抜け出すために、一生懸命に金儲けに奔走してきた訳です。少なからず私はそうでした。社会が大きく変容する中で、ものの価値観も大きく変わりました。父親の在り方も変わりました。中途半端な家父長体験だけを引きずって、自信のない親たちから得る愛情が、実は絶対的に欠如していたのではないでしょうか。社会が変容していく時、個人も変節しなければ、新たな個人の居場所を発見することは出来ません。恐らく、主人公たちは、個の追求のみに走りすぎて、変節する柔軟性が無かったか、失っていたのでしょう。


投稿者: タックス | 2011年07月09日 22:03

 家族の在り方は近年大きく変化してきており、小家族化の進行も進み、より家族の親密化が進んだのではないか。特に親子関係では、少子化は親の過保護や過干渉を招きやすくしてしまう。ブログに「親密な間柄が自分の欲求を実現する手段としての関係性に変質してきた」とあるように、自分の周囲にいる人間には自分の思った通りに動いてもらいたいと思ってしまうのはよくある事である。 
 特に、専業主婦などは子供に対してそういった感情をもったしまいがちではないだろうか。社会に活躍の場を持たない専業主婦は生きがいを子育てに求めてしまう。しかし、それでは子供は母親の身代わりとして生きることになってしまい、自己形成に悪影響がでてしまう。親は、自分たちで決めて産んだ子だからといって、その子の生き方まで決められないこと、子供も1人の人間なのだということを理解することが必要だ。



投稿者: ヒバ | 2011年07月09日 23:12

成功=豊かさという考えが連綿と続いて、それが虐待につながっていたというのは非常に驚いたのだが、とにかく自分が成功するためにどうしたらいいのかを考えてしまうことは誰にでもあり得ることで、こういった考えを持っていて子供が生まれると、子供が自分の成功のための枷になってしまうと考える人の出てくるはずである。ここから虐待につながっていってしまうのだと思った。個人がそれぞれ成功とはなんなのかを考え直して、この時代に合った考えを持つ必要があると思う。


投稿者: 19rtyb | 2011年07月10日 23:05

 高度経済成長期、バブル期の多くの親と子どもの間には親の欲望を満たす、という条件が潜んでいた。こうして、尊厳を守られずに育った現代の親たちは、自分たちが受けてきた教育に多少なりとも不満を持っている。しかしそれ以外の教育を知らないため、子どもを個人の欲望のために利用するということを繰り返してしまう。子どもを教育することと、個人の欲望を満たすことを切り離す考えを浸透させて、虐待を減らさなければならない。


投稿者: みー | 2011年07月11日 03:40

 2009年6月11日のブログの記事「わが子を愛することはたやすいことではない」を読ませていただいた後、こちらを読ませて頂いた。
 『虐待という問題は、高度経済成長期から続いてきた、「豊かさ」を追い求める行為の結果発生してきたものである』という先生の考えを読ませて頂いたとき、私が思ったのは「では、これからこの国はどうしていけばいいのだろうか」ということだった。
 個々人が「豊かさ」を追い求めた結果として親密圏の変容が起こり、虐待の増加につながったのであれば、(単純で極端な思考ではあるが)豊かさを追い求めなければ虐待は発生しなくなる。
 しかし、日本という国が、競争を伴う資本主義の国である以上、人々の「(自分だけは)豊かになろう」という、先生のおっしゃる所の『欲望の個人主義』が完全に消え去ることはまずあり得ないと思う。
 では、虐待を無くす糸口をどこに求めるべきか。
 私は、2009年6月11日のブログにあるように、『親子を閉じられた単位とするのではなく、地域の多彩な関係の中に位置づけなおすこと」が解決の糸口であると思った。
 親子を、地域の多彩な関係に対して開かれた関係にし、親子が地域から様々な価値観を取り入れることができるようにすることで、豊かさという価値観に執着することなく、子を育てることのできる環境がつくり出せるのではないかと思う。


投稿者: わた | 2011年07月11日 18:27

高度経済成長期の中、生活を豊かにしようとするあまり、大切なことの本質が見えなくなり、その環境で育った子供が知らず知らずのうちに偏った価値観を身につけてしまう。確かに、一度形作られた人の考え方は、潜在的な意識にまで及び、簡単には変えられないかもしれない。しかし、それを変え、子供を育てていくには、人とのコミュニケーションが容易に図れるような環境、つまりは、地域や学校などが家庭と一体となって、声を掛け合いながら子育てができるような環境を作るべきであると思う。


投稿者: tousei | 2011年07月11日 21:22

目に見えない危険な化学物質によって最も被害を受けてしまうのは、環境と、何の罪もない幼い子供や妊婦の方々である。人間は、化学物質が害となることを知っていながら、個人的な利益のために平気で流出させてしまった。現代人の、自分さえよければどうなってもよいという考えが導いた結果である。これからも、技術の発展は必要であるが、公害を防ぐシステムを確立させてから研究を実行に移す姿勢が必要だと考える。


投稿者: みさ | 2011年07月11日 21:26

高度経済成長期の結婚は自分の「ゆたかさ」のために、相手を選び、自分のステータスとして利用しあうその時代を象徴しているものだと感じました。
さらに自分の子供でさえ、「ゆたかさ」の犠牲にし親子の関係さえも利用するものになっていた。
バブルがはじけ今まで求めてきた「ゆたかさ」が遠いところにいってしまい、残ったものは利用してきた関係だけで、うまくいかない歯痒さから虐待が生まれてきたのではないかと思いました。


投稿者: あり | 2011年07月12日 03:28

虐待が起こるのは親が求める”ゆたかさ”の基準が、親と子どもとの精神的関係の”ゆたかさ”でなく、親自身のいわば自己満足な欲求をどれだけ満たせているかという”ゆたかさ”であるからだと考えました。
またその考えを持った親に育てられた子どもは、そのような”ゆたかさ”を求める家族の形しか教えられない、知らないため、虐待の連鎖が起こるのではないかとも考えました。


投稿者: さら | 2011年07月12日 15:29

 私は、日本経済の変化が親密圏のあり方を変化させ、家族関係に大きな影響をもたらしているのではないかという考えをみて、経済の影響力はとても大きく、時代の流れによって人々の生活も変わるものなので確かにそうかもしれないと思いました。
 ところで先日ニュース番組で扱われていた内容なのですが、乳児が虐待を受けて死亡したというものでした。そこで番組で医師10人にアンケートをお願いし乳児が両足を骨折して病院に運ばれてきたとき、虐待を疑うかと尋ねたところ、10人中9人が「はい」と答えました。ところがその9人のうち児童相談所に通報すると答えたのは2人でした。その理由は虐待でないときのリスクがあるからということでした。
 医療機関での児童相談所への通報は義務化されているはずなのに、このような現状を聞いて残念に思いました。
 児童虐待を減らして行くためには、まず虐待に対する意識を変えていかなければならないと感じました。


投稿者: うちゅう | 2011年07月12日 18:43

 虐待や自分の子供を殺害する親のニュースが流れる時代で「わが子を愛することはたやすいことではない」とはその通りだと思う。子供は生まれたばかりであれば夜突然泣き出して親の睡眠を削ったり、おねしょしたり、少し大きくなってもわがままを言ったり、いろいろと手がかかる。そんななか親はストレスを感じ、それが虐待につながるのだと思う。
 今の社会には子供を守る制度や機関だけでなく、親に対するものも必要だと思う。


投稿者: ジンジャエール | 2011年07月12日 18:50

 「当たり前のゆたかさ」を手に入れるため、家族は親子共々努力するものであり、そのためには個人の多少の犠牲は止む終えないという考え方は現代でも一般化しつつある。本の中の家族がそうだったように、そのような考え方が虐待を引き起こす要因となるならば、現代の人々はあまりに危険な状態の中にいる。
 虐待をこれ以上増やさないために、根本である社会構造や教育を見直し、時代と共に作られてきたこの考え方の流れを止め、次代に親密圏のありようについて考えるきっかけを与えることが必要だ。


投稿者: しあん | 2011年07月12日 23:29

 「虐待」というとなんとなく親子の間の問題のように思えるが、確かに親子の間もそうだが現代は物資も情報も豊かになり、いかにそれを自分が手に入れるかを考えることに夢中になりすぎて、ひろく他者というものへの愛が持ちにくくなっている時代だと思う。「無償の愛」というものが減ってきているのではないか。
 しかし、自分への利益の有無をなしに愛をはぐくみあう親密圏の人間関係を作るには長い時間がかかるだろうし、加えて、親子の間で無償の愛を注ぐにはあまりにも日本の公的制度が及んでいないために、親密圏での個人的な関係(利用し合うような関係)が続き、結果として虐待は減らないのだと思った。


投稿者: うか | 2011年07月13日 00:47

 虐待はなぜ生まれるのか、そんなことは今まで考えたことがなかった。それは、虐待は自分とは無関係のものだと思っていたからだ。
 しかし、「自分の富や豊かさのために、他者を利用したり支配しようとする中で虐待の土壌は形成されていく」という指摘に、これは他人事ではないという意識が生まれた。
 子どもを自らの豊かさの象徴として育てるという気持ちを、僕は理解できる。子どもの評判は親の評判とイコールで結ばれていると感じる親は日本にはたくさんいる思う。正直今まで「虐待を受けて育った子ども」が「虐待をする親」になると信じていた。それは、「そうやって育ってきたため、そういう育て方しかできない」という最もらしい理由が僕の頭にいつの間にか入っていたからだ。しかし、一見幸せそうな家庭でも、親のエゴ、愛情とは呼べないもの、しか受けてこなかった子どももまた、そういった子育てをしてしまう危険があると知った。
 「虐待」は「当たり前の豊かさの追求の営み」の中から生じたのではないかという先生の意見を受け。「豊かさ」とは何かを考えさせられた。 


投稿者: はっちゃん | 2011年07月13日 01:58

 虐待やDVは本人が悪いと分かっているのに止められないことに問題があると考える。血縁関係で結ばれる家族の中においては、お互いの主張や人権を尊重しあうことがより良い関係を築いていくために必要であると感じた。


投稿者: ふっくん | 2011年07月13日 12:32

 虐待といっても、テレビでしか見たことがないというのが私の現実だ。最近では、母親から幼児への虐待で幼児が死亡したというニュースを頻繁に見る気がする。
 ここで、母親が自らの息子・娘にどうして死に至るまでの虐待を行うのか考えてみた。おそらく、死に至るような虐待の場合、『愛情』からくる虐待ではなく、『怒り』からくる虐待であるだろう。明白なことだが、死に至るまでの虐待を行った相手は、自らが苦しんで産んだかけがえのない者である。その命を自らの手で奪うという行為は『愛情』とはいえず、ただ自らの『怒り』をぶつけただけである。


投稿者: らーめそ | 2011年07月13日 13:55

 この記事を読んでいて、最近疑問に思っていたこととリンクした。それは、キャラ弁ブームについてだ。スーパーにはキャラ弁用のふりかけや、かわいい形にカットされた海苔が売られていたり、レシピ検索サイトにはたくさんのレシピが掲載されていたりする。そのクオリティーはとても高く、このお弁当を作るのにどれくらいの時間を費やすのだろう、と考えることが多い。なんのためにそこまで?と思ってしまうのだ。
 実際に、バイト先のパートの方もキャラ弁を作っていると言っていたのでなぜそこまで手をかけるのか聞いてみたところ、子ども自身が喜ぶのもそうだが、「○○ちゃんがかわいいって誉めてくれた。」と言ってくれることが嬉しいのだそうだ。
 ○○ちゃん家のお弁当は可愛いと子どもに言われれば、母親は、負けられない、と思ってさらに頑張るのだろう。
 そこに、記事にもあった「自分の欲求を実現する手段としての関係性」というものをみることができると思った。純粋に子どもが喜ぶから、という理由だけではなく、自分は子どものためにこんなに頑張っている、他の家の子どもや母親に認められたいなどという、母親の自己実現や欲求実現のようなものが、大きく言えば子育てを通して行われていると言えるひとつの例だろう。

 母親たちは無意識ではあるのかもしれないが、他者との競争の手段として子育てが行われている状況下では、社会の連携・さまざまな繋がりの中での子育て、という考えはなかなか浸透しないのではないのかと思う。


投稿者: SHINA | 2011年07月29日 14:47

愛情を注いでいるようで実際は、自分の子供をモノ・手段として自分の思い通りに育てようとしている親。我が子が自分の敷いたレールから少しでも外れそうになれば、手をあげてまたそのレールを歩かせようとする親・・・。今日の虐待やDVの問題が「自分(だけ)はゆたかになろう、幸せになろう」とする欲望の個人主義の所産であるという意見に私も同感だ。
 その当時の風潮・時代背景は子育てに色濃く反映されるものである。今起きている親密圏の変容を、どのように現代の社会が受け止め、変えていくべきなのか。私は子どもを育てる環境がこのまま変わらなければ、虐待やDVの問題は減るどころか、大幅に増加すると思う。
将来における虐待やDVの問題は、現代に生きる私たちの決定に大きく左右されるように思う。


投稿者: mkt | 2012年07月03日 22:52

親の子供に対する理想が虐待になるということは,なかなか表沙汰になりにくいのが難しい点だ。そこで親が暴力を振るわないことの方が多いからだ。また,親が「あなたの将来のためだから」とか,あるいは高圧的にいえば,子は少なくとも幼少のときには親のいうことのすべてを受け入れてしまうのだろう。自分の思う通りに子供を育てようとする親が,理想と期待のかけ過ぎが子への虐待になっているのだという事実を知ることが最も重要であろう。


投稿者: chem | 2012年07月06日 14:21

社会問題化して久しい虐待の原因が果たしてなんなのか、「誰かのせい」にするのは難しいです。虐待の発生し得ない社会を作り上げることも限りなく不可能に近い。そんなジレンマを振り切り問題を解決していくには問題が深刻化しない段階で行政が介入をし、加害者、被害者双方のケアを欠かさないことが大切だと思います。また心のケアを日常的に、手軽に受けられる制度作りも大切だと感じました。


投稿者: リアム | 2012年07月24日 14:41

 結婚相手はいかにして選ぶかの講義に、すごく納得しました。というのも、気が合って仕事が大丈夫そうで、という選び方は単なる好き止まりで、困難を2人で乗り越えられる力があってこそ、結婚に向くという内容がすっと胸に入ってきたからです。
 先日、自宅のリフォームが完了しました。両親が結婚してからずっと家族と共にあった一軒家ですが、リフォームの着手へは父と母の壮絶な戦いがありました。
 リフォームの発端は風呂のボイラー機能の故障で、風呂場のみリフォームの話が持ち上がりました。しかし隣家が空き家になることが重なり、敷地を購入して増築の案が出ました。リフォーム業者との設計打ち合わせも始まり、増築の量やキッチンの様式、間取りや窓の大きさなど幾度もの改良を重ねてやっと着手に入ろうというころ、父が言い出しました。「やっぱりリフォームはやめよう。」
 父は『郊外に一軒家を持つことの危険』というネットニュースのハンドアウトを片手に、交通費の話や生活費の話、娘の結婚後夫婦2人での生活の話などから、長いスパンで見たとき、郊外での一軒家より大きな街での集合住宅の方が良いと意見を出しました。母は業者さんとの打ち合わせも終盤に入った今言い出すことかと驚いた様子でしたが、父の意見を受け入れたうえで、何十年も過ごし、周りに知り合いがたくさんいるこの場所こそ、退職後に落ち着ける場所ではないかと父を説得し、終息しました。
 私の両親は仲が良いかと問われても他の夫婦をあまり知らないので答えに詰まりますが、2人で協力してなにかを成し遂げるという姿はあると思います。私もこんな風に2人で協力して過ごしていけるパートナーに出会いたいです。私が桜が好きと言ったら、桜もいいけど、自分は梅が好きだなと言ってくれるようなそんなパートナーに出会いたいです。


投稿者: Kaya | 2012年07月25日 00:34

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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