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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

そこかしこにある「障害」

 「障害のある人」の支援や制度は、社会の中の「マイノリティ」に関する領域だとするイメージを今日まで払拭し切れていません。児童や高齢者というライフステージによってグルーピングされた領域との対比で、「特殊な」問題領域という印象に傾きがちです。
 でも、はたしてそれは真実なのでしょうか?

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 障害概念は、WHO(世界保健機関)のICIDH(国際障害分類)からICF(国際生活機能分類)への系譜を用いて説明することが一般的だと思います。そこから「障害」の定義をもっとも簡単にいえば、「疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難・不自由・不利益」のことです。
 この定義にしたがって「障害のある人の範囲」を考えてみると、福祉法上の対象になるかどうかはともかく、かなり広範囲な人たちの問題であることが見えてきます。
 たとえば、まったく臭いを感じることのできなくなった状態の嗅覚障害。私の友人は末梢神経性の嗅覚障害らしく、原因は不明なのですが、医師からは「嗅細胞がダメになっている」と言われたそうです。実はこの「障害」、生活上の困難を相当もたらすのです。

 何といっても食事の際の風味が大きく損なわれます。食べ物の味は舌の味覚だけで成立しているのではなく、香が重要な構成要素です。そこで、嗅覚が損なわれると、食欲の減退や文化としての食の享受に困難が生じたり、コックや板前等の調理のお仕事に就いている方々に至っては致命的な困難をもたらします。かつて帝国ホテルの料理長を26年間もされていた故村上信夫氏は、大勢のコックが分担して調理した料理を味見して回ると、「どのコックが風邪をひいているかすぐに分かります」とおっしゃっていましたから、少なくとも一流の料理人が嗅覚障害をもつとなると失業しかねない大問題でしょう。

 納豆や秋刀魚の塩焼きなどの香の強い食物の魅力は半減しますし、魚のお刺身に至っては、微妙で淡白な風味を持つ白身魚(鯛やヒラメ等)など、何の魚を食べているのか分からないことさえあるといいます。炒飯の焦げ醤油の香、ソース焼きそばの焦げソースの芳しさ、輸入牛と黒毛和牛の風味の相違、香が命ともいえるアルコール類の芳香等々、これらのすべてを感じることができなくなる不自由は、嗅覚障害に直面したことのない人には想像以上の不自由さです。洋酒好きの人が、ワインの銘柄ごとの香の違いはおろか、ブランデーとウイスキーの香の違いさえ定かでなくなるとしたら、人生の喜びの大半を失ったような気持ちになるのではないでしょうか。
 実際、私の友人の場合は、餃子のタレにラー油だけでは物足りないらしく、さらに七味をどっさりまぶして餃子を食べていました。このような場合、香が損なわれた分を舌の味覚からの刺激を強化して補っているのでしょうが、食べ物の「見た目」(器と盛り付け、色合い等)などでも食欲や食の楽しみを補えるのでしょうか?

 もう一つは、対人関係上の不都合です。自分の体臭に気づくことができないのですから、社会生活上、清潔さや身だしなみには必要以上の気を使いがちになります。とくに、香や臭いは異性との関係において特別の意味をもつことがあります。女性の化粧史において香水は重要な位置づけを持ちますし、フェロモンという物質の嗅素の働きが性的関係に一定の影響を及ぼしていることも明らかになっています。こうしたことから、嗅覚障害に由来して性的な関係に困難をきたすことのあることも知られています(たしか田辺聖子の短編小説の中にも、何かの事故から嗅覚障害をもった夫が女房との「関係」をもてなくなってしまい、険悪な状態に陥ってしまう作品があったと思います)。
 つまり、嗅覚障害のある人には、孤立を招きやすい困難があるということができるでしょう。

 このようにみてくると、嗅覚障害について、「たかだか臭いを感じることができないだけじゃないか」と簡単に片付けることはできません。「疾患に由来する生活上の困難・不自由」は間違いなく存在する上、私の感覚からいえば「健康で文化的な最低限度の生活」にかなり支障をきたす問題が生じていると思います。事と次第によっては、法制度上の支援保障の範囲に「嗅覚障害」を入れることを検討すべきではないかとさえ考える時があります。

 さて、この「嗅覚障害」状態に季節的に直面している人たちが大勢います。花粉症による「鼻づまり」によるものです。これは、一過的なものだから「障害とはいえない」という見解が一般でしょうが、嗅覚の減退や消失、頭痛や頭がボーッと重い、呼吸がしにくい、眼は痒い等の症状が重なって、「今日は仕事どころじゃない」と困り果てている人の姿はどこの職場でもふつうに見かける光景です。しかもこの状態は、一年の内の1/4から1/3の期間に及ぶ人も決して珍しくなく、これらの症状のリフレインが毎年生涯続くとすれば、もう立派な「障害」であるといえないのでしょうか。

 花粉症の人たちが経験する大変さは耐え難いストレスをもたらしているのでしょうか、「花粉症の最盛期」であるにも拘らず「涼しい顔」をしている花粉症でない人に対しては、「あなたもその内なるわよ。私も突然なったんだからね」というような台詞を吐くこともしばしばです。そのお気持ちは重々分かるのですが、これほど全国民的に花粉症に由来する「障害」が広がっているのですから、「嗅覚障害」の「原因と状態像」を問わず、一度は「障害」の問題を広範囲なものと捉え返す機会にしてみればどうかと考えます。

※ブログ「福祉の世界に夢うつつ」は、毎週木曜日更新です。


コメント


 私は6月24日(水)の埼玉大学で行われた「人間形成と教育」の授業を受けての感想と意見を書きたいと思います。
 まず今回のビデオを見て、初めに思ったことが、世の中には私が思っている以上に住める家を持っていない人が多いということです。そして、その状況が深刻であることです。私は今までそのような人たちと接する機会をもつことができなかったからです。
 最近私は、ある講義で「ベーシックインカム」というものを学びました。
 これは、職を失い、探している人や収入がなく困っている人に、政府がある程度のお金を給付するといったものです。歴史上まれに見る大不況の中、とても注目されてきている制度です。
 直感的に今回のテーマと何か関連があることを思いました。
実際には職のない主婦方に配られるのですが、現在では「ニート」などと呼ばれている人たちにも配られており、本当に経済面に効果があるのかという不満の声も上がっている現状です。
私が思うことは、そのような制度は今回のビデオの人たちに配られるべきだと思いました。
 なぜならば、職を求めている気持ちは比べてはいけないものだとは思いますが、ビデオの人たちの方が「ニート」の人たちよりも強いと思うからです。
 毎日を一生懸命生きるために、必死にアルミ缶を集めお金に換えている人たちのために配られるべきだと思います。
 なので、そのような人たちを救済する施設などももっと増やすべきだと思いました。
 難しいことはわかっていますが、それが一番効果的だと私は思います。
 そして、そのような施設に対する政府からの援助を新たに増設するべきだと思います。
 その中には、施設の運用費だけでなく、救済者に対する就職活動費などもふくむべきだと思います。
 そこで問題となってくるのが財源ですが、これは税金からです。
確かにこの世の中とても辛いとこはあります。なので、その救済はとてもわずかになってしまうでしょう。
 そこで、働いている時に給料の中から税金として金額を取られていた人に対してはその分の金額をその時上乗せするべきだと思います。
 そうすることによって、現在働いている人も少しはやる気が上がり、お金のまわりも幾分かよくなると思います。

 以上が今回のビデオを見ての感想と意見でした。乱文があり、すいませんでした。


投稿者: cheat1476 | 2009年06月25日 19:54

 花粉症も嗅覚障害の一つと言えるでしょう。鼻が詰まっていたりすると、食べ物の味がしません。それはいくらおいしい料理を食べてもそのおいしさがわからないということを示している。こんな辛いことはあるだろうか。

 嗅覚障害を起こしているとほかにも不便なことがある。例えば何かが燃えているときに気づかない。普通なら気づくはずの焦げ臭いにおいにまったく気付かないとなると、緊急事態に逃げ遅れたりする可能性もなくはないだろう。

 障害というのは自分たちが考える以上のものがあると思う。ちょっとした感覚麻痺が障害に成り得るのだ。もっと障害というものを幅広く定義していかなければならないと思った。


投稿者: SUE9 | 2009年06月26日 21:39

 僕は6月24日の「人間形成と教育」の授業の感想を書きたいと思います。
 まず、今回の授業で「ホームレス」という人の数とその状況の深刻さに驚きました。さらに感じたことは、そのビデオに出ていた「ホームレス」の人々のほとんどが、自分の父親とほぼ同じ歳であるということにとても複雑な気持ちになりました。
 ビデオの中でいくらかの援助を受け、散髪をし職を探しても見つからない、そういった社会に疑問を抱きます。また社会はそういう状況から目を背けているとも思えます。生きる希望を持っている人々、そしてそのために職を探している人々をすくうために社会は変わらなければならないと思います。
 また、65歳以上にならないと援助の対象にならないのであれば、それ以下の人に少なくとも住む場所を与えて、職を持ちやすい環境を作ってあげることが必要だと思います。具体的には人の入っていない団地を提供することや、格安のアパートを作ることなどがあると思います。
 文章がまとまってなく、読みづらいところがあってすみません。以上が感想です。


投稿者: t-k-k-o | 2009年06月29日 21:01

今まで「嗅覚障碍」というものを聞いたことがなく、今回初めて知りました。
自分も花粉症の時期になると「におい」がわからりづらくなり、生活の大半を「におい(嗅覚)」に頼っているんだということをよく実感します。
花粉症は治り(場合によっては完治し)ますが、「嗅覚障碍」は治らないということを改めて考えてみると、この二つは同じ「障碍」ではなく国全体でもっと「嗅覚障碍」にも援助・支援等を増やすべきだと感じました。

今回この記事を通して「嗅覚障碍」は全然マイナー(マイノリティ)な問題ではなく、大きくかつ深刻で、これからみんなで考えていく必要のあるメジャー(マジョリティ)な問題であると思いました。


投稿者: Luminus1074 | 2009年07月02日 11:01

「美味しんぼ」という漫画を知っているので、食における嗅覚の重大さは分かっているつもりでしたが、対人関係にまで問題が及ぶとは考えたことがありませんでした。
花粉症になったことはありませんが、風邪をひいて鼻がつまったりすると、確かに主に食事のときに不便を感じます。

福祉の対象になるか否かはともかく、「障害」の定義にしたがって考えてみると、かなり多くの人たちの問題であり、「特殊」な領域でないという考え方は今まで持ったことがありませんでしたが、共感できました。
今後はもっと広い視野を持って、社会を見てみたいと思いました。


投稿者: AJAゴム | 2009年07月03日 12:53

 私は今まで、さまざまな障害をもった人たちと接してきました。というのは、私の両親は養鶏場を経営しており、介護センターや病院から働ける力はあるけれど障害を持っているがゆえに働けない多くの人を雇っていいるからです。
 しかし、「嗅覚障害」を患った人には出合ったことがありません。五感の一部が失われることは想像を超える苦しみがあると思います。
 「嗅覚障害」を患っている人の数自体は少なく、認識している人は少ないかもしれませんが障害という範囲に含むべきだと思いますし、「嗅覚障害」のように人々からあまり認知されていない障害も考えていく必要があると思いました。


投稿者: egg-man | 2009年07月06日 14:23

私は今まで嗅覚障害を持つ人と出会ったことがなく、「嗅覚障害」というものがあったのも知らなかった。
けれども私は別の障害で大変な思いをしている人と何人か会ったのとがある。
その人達は嗅覚障害のように五感に起こる障害ではなく、主に首より下、つまり体全体に障害を持っていた。
その時私が見たのは、それは五体満足の人よりも強い心を持ち、一生懸命努力する姿でした。
周りの人に冷たい目で見らていても、なぜこんなに頑張れるんだろうと思った。
その理由はその人の「叶えたい夢」にあるのだと思った。
もし夢がみんなのゴールだとしたら、それはまるで童話の「ウサギとカメ」のようである。障害のある人はカメに様に遅くてもひたすらゴールを目指し、障害のない人ほどそのカメを笑って見ている。
この矛盾が不思議でたまらなかった。
カメは努力では誰にも負けていない。
逆に障害をもつ人に負けないくらい努力しなければいけないと感じた。
障害に対してより知識を深めようとする人は今とても増えている反面、ただバカにして見ているだけという人も数多くいる。
そのような人達ほど一人では障害を乗り越えられないのではないかと思った。


投稿者: 神埼 | 2009年07月07日 00:41

今回のブログを見て嗅覚障害があるのを初めて聞きました。
確かに、嗅覚障害と聞いただけでは臭いがわからないだけと思ってしまいます。障害の程度は他人にはわかりずらいと思います。
私に知り合いで障害を持っているのですが、程度が低く生活にあまり支障がでないとみなされ支援を受けられず、就職するのにとても困っていました。

今もう一度、障害者に対する制度を見直すべきだと思います。


投稿者: cappe | 2009年07月07日 12:40

 私は障害を持った人と実際に関わった経験がないと思っていたので、確かに「障害のある人」の支援や制度は自分にとってマイノリティーなものでした。
 しかし、この記事の『「障害」の定義をもっとも簡単にいえば疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難・不自由・不利益』であるから、花粉症ですら障害なのではないかという考えを読んで、障害というものを考え直してみると、案外身近にあるものなんだと思いました。

 ただ疑問に思うこともありました。どこまでが福祉なのだろうかという疑問です。
 もし障害というものを広範囲にとらえた場合、その障害に対する広範囲な福祉が必要になります。その状況を考えた時に、福祉もあまりにも手厚く施しすぎると単なる甘やかしになってしまうのではないかと思いました。
 ここであげられている例を引用させてもらいますと、花粉症を障害とみなした場合、それに対し空調設備を整えたり、休暇を与えたりなどの対策が行われることになりますが、はたしてそこまでする必要があるのでしょうか。
 私自身も花粉症で、一年に二度花粉症の症状に苦しみます。しかし個人の予防である程度は対策はできますし、薬などを使って症状を抑えることもできます。確かに疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難ではありますが、他人の力を頼らなければならないほどのものではないように思われます。
 障害というものを広範囲にとらえることはとても大切なものであるとは思います。ですが、やはりあまりにも広範囲にとらえすぎてしまうのもどうかと思います。過ぎたるは及ばざるがごとしというように、障害というものを考えるときにもさじ加減が必要なんだと思います。
 今の私は障害をマイノリティーにとらえていると思うので、できるだけ広範囲に障害というものをとらえるべきだと思います。しかし今後も常に障害の範囲を広げ続けるのではなく、適度なところであえてとどめるような態度が必要なのではないのかと思いました。


投稿者: TIAD | 2009年07月07日 17:17

 こんばんは。
 今回のお話は「嗅覚障害」ですが、外見では判り難い障害ですね。
 私は、このブログを読むまでは「嗅覚障害」について、あまり深く考えた事がありませんでした。
 ブログを読み、もし自分がそうだったら…。
 と、想像したところ、日常生活に大きな支障を来たすと思いました。
 他の障害でも、もし自分が障害を持っていたら…。
 と、障害者の立場になって考えて支援する事が大切な事だと改めて思いました。
 ただ、障害という定義を広範囲に捉えて見る事は大切だと思いますが、仮に花粉症を障害に含んでしまうと広範囲過ぎて、どの病気が障害で、どの病気が障害でないか?と、障害の定義が曖昧になってしまうのではないでしょうか?
 という疑問が残りました。


投稿者: @千住 M.I | 2009年07月07日 23:21

私の母は障害者施設で働いていて、今までいろいろな話を聞いてきました。
しかし、嗅覚障害をもつ人の話は聞いたことがなく今回初めて知りました。

まず、嗅覚障害と花粉症は一緒にしてはいけないと思います。
なぜなら、花粉症は一時的なものである。その反面、嗅覚障害は生まれたときから年中その障害に苦しんでいるからです。
その二つを比べてみると、いくら花粉症の期間が年の中でながいとはいえ、障害とするまではいかないと思います。
さらに、花粉症を障害としてしまうと、それはほかの病気も障害にどんどん入ってしまうことにより、障害の定義がうやむやになってしまいます。


今回の記事を読んで、障害の定義を改めて考えさせられ、制度に関する考えも変わりました。
もっと、制度を充実させるために、世間に知られていないような障害について勉強し考えていくべきです。


投稿者: glass-es | 2009年07月08日 15:10

私の友人は交通事故により、脳を損傷した結果嗅覚障害を負いました。友人を近くで見ていた私にとって嗅覚障害はとても辛いものであると感じています。サラダを食べても何も感じず、アイスに甘いチョコソースをかけて初めて「甘い」と認識し、何も異臭のしない空間でいきなり「臭い!」と訴える友人の姿は苦痛でいっぱいでした。現在ではリハビリのおかげで幾分かは楽になったようではありますが…。


現段階では、私にとって障害を広範囲で見つめることは難しいことです。なぜなら障害は多くの周りの人々に支えてもらい解決することだと考えているからです。もし多くの事柄を障害と認識したら、自己解決で済むはずのことと、周りの力を必要とすることの境界線は曖昧になります。これによって本当に支えるべき障害を見失ってしまう恐れが生じるのではないでしょうか。障害の定義はあくまでも大勢の人々にその意味を納得させるものであって、現実には障害の分類は違うものであると思います。

現に花粉症は病院にいって薬をもらえば治る程度の症状がほとんどです(もちろん手術をしなければならない場合もありますが)。つまり自分が積極的に行動すれば治る病気です。このような病気は障害とは明確に区別するべきであると私は考えます。

十分な知識を得た上で慎重に、注意をして障害を広範囲で捉えるのであれば、それは良い事柄かもしれませんが、安易に行ってはいけないことだと思いました。


投稿者: KC | 2009年07月08日 15:55

 実は私の母は10年程前に階段から転げ落ち、一切の嗅覚を失ってしまいました。つまり、先生のおっしゃるところの嗅覚障害に当たるわけですが、その後しばらくは母の作る料理の味がひどく濃くなってしまってり、それについて指摘すると今度は薄くなりすぎたりと、今までのようにはいかないといった状態が続きました。今では、そこらへんのバランスが取れるようになり、おいしい料理を食べさせてくれるのですが、母自身はあまり味を感じることができないので、食の喜びを実感することができず寂しそうです。ですのでそんな母を可哀想に感じていたのですが、嗅覚障害のせいで、対人関係にも悪影響を及ぼす懸念があり、孤立を招きやすい困難があるという宗澤先生の指摘されている部分にまでは考えが至っていませんでした。今回の宗澤先生のブログは、私にとって改めて母の嗅覚を失ったことが、母の日常に多くの影響を与えているはずだという事を考える良い機会となりました。(そのことを考えると無性に実家の母の声を聞きたくなり電話をしたのですが、いつも通りの明るい母で安心しました。)このように嗅覚障害一つを取っても、その障害を持たない人には、その障害から派生する様々な苦労を理解することは大変です。さらに、障害には様々な障害がり、その程度も人によって違います。ですので、障害を持つ人の苦労や困難を手助けできるよう、その障害についての深い理解が大切であり、必要だと感じました。


投稿者: King joe | 2009年07月08日 20:17

 まずこの文章を読ませていただいての感想は、「障害」という言葉は捉え方によれば非常に身近のものであるという考え方もできるということです。
 この捉え方によれば、私自身も多くの「障害」を抱えていることになります。例えば、中耳炎からの頭痛やくしゃみなどの日常生活に支障をきたす症状です。確かに「障害」という大枠に分類することも可能であると考えます。
 またこの捉え方は、相手の立場に立った広い価値観をもたらしてくれるようにも考えます。このような考え方を持って様々な人に接していくことが出来れば、多くの人が相互に助け合うというような人間関係が綺麗ごとではありますが、形成されるのかもしれないと考えました。
 しかし問題点として、自分は「障害」を持っているという認識が強すぎると相互依存になり、良好な人間関係を築いていくことは困難になるとも考えます。
 よって「障害」というものをより広範的に捉えることは人間にとって良い面もあれば悪い面もあると考えるので、バランスが非常に重要となってくるのではないでしょうか。


投稿者: tk | 2009年07月11日 18:24

 自分もいろいろな障害をもたれた方と会ってきて、視覚、聴覚、身体…などいろいろな障害がありましたが、確かに、「嗅覚障害」ということはあまり耳にしなく、なぜ嗅覚障害というものが目立たないんだろうとなんだか目からうろこがおちた感じでした。
 花粉症の人たちもそう考えてみれば、確かに「嗅覚障害」を持つものと考えられると思われました。あと、児童、高齢者、障害者とグルーピングされる中、障害をもっている方が65才以上になり高齢者となったとき、その障害をもっておられる方が今まで障害者の制度を受けられていたのが、高齢者になると高齢者の制度、つまりは、介護保険制度へ移行することとなるのですが、果たしてそれもどんなものかと疑問を感じます。
 制度上では、高齢者になると障害者自立支援法より介護保険制度が優先となるのですが、もともと、障害者での制度支援を受けていて、高齢者になったから高齢者の制度支援でというのも国の予算的な背景も、わからないわけではないのですが、はたしてどんなものかと考えてしまう時があります。


投稿者: LUFFY | 2009年07月11日 20:22

 こんにちは、初めて書き込みさせていただきます。
 今回のテーマである「嗅覚障害」ですが、自分自身がアレルギー持ちでしょっちゅう鼻が完全に詰まってしまうことがあるので、身近に感じられました。しかし、もちろん自分は基本的には嗅覚はちゃんと働くので、四六時中、まったくにおいを感じない状態、というのは、想像を超える不便さなのだろうな、と思います。
 極端な例を挙げると、家庭でガスの元栓が緩んでしまっていた場合など、正常に嗅覚がはたらく人であれば、ガスの臭いを察知して危険を回避することができるかもしれませんが、鼻が利かないとなると、命にかかわるほどの危険に晒されてしまうことになりますよね。
 私たちが日常の生活場面で当たり前のようにできていること、当たり前すぎて気にもかけていないような些細なことが、できない人は大勢いて、そしてその不便さは、(気にもかけていない人は当然「それができなかったら…」などと想像することもないわけなので)なかなか共感を得づらいこともある。
 周囲の理解や共感、協力が、障害を背負う人々には必要なのだなということを感じました。


投稿者: MK | 2009年07月13日 14:40

 嗅覚障害は食事の楽しみを大幅に減らしてしまうこと、就職などの社会生活にも影響を与えてしまうことなど、実際に体験していない私でもゾッとしてしまうような困難を抱えてしまうようですね。
 「障害」について理解を深めることは有意義であると思います。しかし、そういった不自由や不利益を片端から「障害」と呼んでしまうのは私は賛成できません。花粉症を障害というのなら、風邪にかかりやすい人の風邪は障害でしょうか。それとも自己管理がなっていないとされるのでしょうか。
 個人差はあれど花粉症もオメガ3脂肪酸の摂取などによって治癒は可能です。しかし、風邪と花粉症は同じ扱いはできないでしょう。
 「障害」を持っているから憐れむ、よりは、困っている様だから話を聞いてみよう、が「理解」に近いのではないかと思います。


投稿者: ニ毛猫 | 2009年07月14日 17:16

 今回のテーマである「嗅覚障害」ですが、改めて嗅覚障害という言葉を目にしても、あまりピンときませんでした。
 視覚障害、聴覚障害、身体障害などは良く耳にしたり、実際にそのような方に会ってきたりしましたが、嗅覚障害というものには初めて触れたように思います。
 しかし、このブログを読み、花粉症や風邪による鼻づまりが原因で匂いが分からず、また味も分かりにくくなるということが、嗅覚障害と言えることには大変納得することができました。
 福祉の対象になるかは別にして、障害の定義によれば、多くの方がその定義に当てはまることになり、自分は関係ないと思っていた私自身の考え方を変えることができ、障害は誰でも身近なものだということを認識させられました。


投稿者: SYS | 2009年07月15日 01:52

 食べることは人間にとって、楽しみの1つだと思います。それが、嗅覚障害のせいで楽しみが半減してしまっては、人生つまらなくなってしまうと思います。
 嗅覚障害を理解し、周りの人が認められる社会を作れればいいな、と思います。
 また、今の医療技術が発達して、嗅覚の変わりが出来る何かを作るという面からのアプローチをするのも大切なのではないかと思いました。


投稿者: ちょろりん | 2009年07月15日 15:20

 嗅覚障害についてはじめまして知りました。嗅覚障害のせいで食事がつまらなくなってしまったり、体臭などで恥をかいてしまいます。
 私たちに大切な事としては、嗅覚障害を理解すること、そして、嗅覚がないという苦しみを理解してあげることだと考えます。その他にも、医療の面で、嗅覚の代わりとなるものを発明し、嗅覚障害の人へ貢献するのも一つではないかと思います。


投稿者: ちょろりん | 2009年07月15日 15:28

今回このブログを読ませていただいて、僕なりの意見と感想を書きたいと思います。
まず、先生がおっしゃる通り、花粉症などによる嗅覚障害は、日常生活に大きく影響を及ぼすと思います。
僕自身、今年4月にアパート暮らしを始める際、このことに関連する体験がありました。一番最初にアパートに来たとき、キッチンのシンクから何かプールのようなにおいがしました。それはわずかであったのですが、後に水道水のにおいだということが分かりました。
このように、今回のブログを読ませていただいて改めて思ったのですが、嗅覚はときに視覚などよりも敏感に反応するということを実感しました。
嗅覚の問題だけでなく、他にも生活が支障をきたすことが他にもいろいろあると思います。それを考えると、「障害の定義」も、もっと広範囲で多彩なものであっていいのではないかと思います。
意見、感想は以上です。これからもブログを楽しみにしています。


投稿者: pcd | 2009年07月16日 10:56

今回で2回目のコメントです。今回は嗅覚障害についてですが、私も花粉症です。特に季節の変わり目は、目がかゆくなったり、鼻はむずむずして息苦しくなったりします。花粉症などの嗅覚障害は日常生活において、多大な被害があります。たとえば、食事をする時、何を食べているのかわからないぐらい味を感じないし、寝ている時、息苦しく気持ちよく寝るとことができなくなります。
嗅覚障害は、視覚障害や聴覚障害などより、一般的に軽い障害として見られがちですが、状況によっては、ほかの障害よりも生活に影響のあるものだと思います。私は、障害という言葉に関して、今の自分には遠いことのように思っていました。
しかし、花粉症などによる嗅覚の障害が自分にも関係していると知り、より身近なものとして捉えるようになりました。もっと、私たちが障害について、幅広く社会全体で捉えていければいいと思います。


投稿者: ハマ | 2009年07月16日 16:06

障害という定義、非常に難しいと改めて思いました。
まず法的にこれを定義することは必要とはいえ、感受性は個人個人に差が大きくあるため、「これが障害?」といった声もあるだろうし、「これが障害にならないの?」という声も出てしまうと思います。

「疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難・不自由・不利益」
とありましたが、何の困難や不自由もない人間なんて居ない、というのが前々からの私の持論です。
なので、この定義に従うと(あくまでも私の主観ですが)すべての人間が障害を持ってる、という事になります。
そう考えると、全然マイノリティではないのですが、このように考える人が少ないというのが問題なのかな…と思います。

宗澤先生のご友人の方は、嗅覚障害とのことですが、確かに日常に大きなダメージを与えることは想像に難くはないですね…。
例えばおいしいものをおいしいと感じられない、良い匂いの花を良い匂いと感じられない。
人間の持つ豊かな感受性に蓋をするということになってしまいますね。

しかし、五感が失われる程の障害というのは誰でもあるという事は無いと思いますが、小さな障害なら誰しもにある、というのが私の見解です。
かくいう私にも、心臓に日常生活に支障は出ない疾患(極稀に死に至るケースもあるらしいですが)があります。
また、宗澤先生の挙げていた花粉症も十分な障害といえると思います。 似たようなもので鼻炎も障害になるのではないでしょうか。

やはり障害に対する意識をそれぞれが改善することが必要なのでしょうね。


投稿者: IZ | 2009年07月17日 10:45

 周囲に嗅覚障害の方がいないためか、(ただ知らないだけかもしれませんが…)これまで嗅覚に障害がある方のことを深く考えたことがありませんでした。
 しかし先生のブログを読んで、嗅覚障害のある方が持つ困難さに気づきました。もし自分が嗅覚障害だったら…と考えると、自分の人生を前向きに生きることができるか自信がありません。
 私の身近な人に色覚障害(色弱)の人がいます。1年以上の付き合いですが、最近そのことを告白してくれました。具体的には、「肉を焼いていても色が分からないから、焼けているか分からない」「黄緑と緑の違いがわからない」ということがあるようです。
 しかしその人は、色弱だからといって困っている素振りも見せません。私だったら悲観的になると思います。心が私より強いなと感じる出来事でした。その人が生活面で困っているなら障害だと思いますが、困っていないのであれば、障害という肩書はいらないと思いました。


投稿者: プチルエチル | 2009年07月19日 15:44

 このブログを読み、障害の定義について今一度深く考えてみようと思いました。嗅覚障害の症状を知り、もし私が嗅覚障害になってしまったらと考えるとぞっとしました。
 私は人一倍食べることが好きだし、夏になれば人一倍汗もかきます。嗅覚障害というのは相当な支障をきたすものではないかと思いました。そして考えようによっては誰もが患う花粉症の症状も障害といえてしまうのではないかということ。このことから障害の定義というものはもっと広範囲なものにし、自由のきくものにはならないかと思う。
 さがせば他にもたくさん障害と呼べるような症状があるのではないかと思う。就労に支障をきたしたり、誰かの支えが必要であったりするような症状であればなおさらであると思いました。


投稿者: Rugger | 2009年07月19日 21:24

 私も花粉症持ちですが、「障害」と意識したことはありません。あの時期になると大変ですが、「まあ仕方ないかな」くらいの意識しかありません。(半分あきらめているかもしれません)

 私は五体満足で特別な障害がないから健康でいられることの大切さがいまいちよくわかりません。健常者は、事故などで手足を失うなどということがあって始めて、健康な状態でいられることの大切さがわかるのだと思います。障害について考えることは日常では極めて少ないですが、「におい」を感じ取れることの大切さもなんとなくわかるような気がしました。


投稿者: 5364 | 2009年07月21日 02:58

 初めてコメントさせていただきます。 
 今回の「嗅覚障害」というテーマについて、とても身近な問題だと感じました。というのも、私は以前アレルギー性鼻炎で、年中鼻づまりに悩まされていた時期がありました。いい匂いも悪い臭いもほとんどわからず、宗澤先生のご友人のように味がほとんどわからず、楽しみにしていた食事がつまらない日が多々ありました。
 また、私は小学生の時から野球をやっていて、鼻で息ができないため激しい運動ができないときもあり、さらに、喘息持ちなので、喘息がひどいときは呼吸をするのが精一杯で、運動ができないのはもちろん、寝るのもやっとという状態のときもありました。
 これらの症状を患っていたときは、障害という意識はまったくといっていいほどありませんでしたが、そのころの生活状況や、「疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難・不自由・不利益」という「障害」の定義などを考えると、アレルギー性鼻炎や花粉症も障害として捉えることができるのではと考えられます。時期的なものではありますが、実際に花粉症の人は少なくないし、普段の生活や仕事等に影響があるのなら、花粉症も「障害」の対象になるのではないかと思われます。
 私たちは生活していく上で、障害の定義や障害の意味をもっと広い範囲で捉え、また、様々な方向から理解していく必要があるのではないかと感じました。


投稿者: げん | 2009年07月21日 14:01

 初めてコメントさせていただきます!
 僕は障害についてはいとこが聴覚に障害を抱えていたということで、おじさんやおばさんからさまざまな話を聞いたりしていたので、他の人よりは障害の事を理解していると思っていたし、身近なものとして感じていたのですが、このような「嗅覚障害」など花粉症などからくるもっと身近なものも障害となるのかと知り、とても驚きました。
 こういうことからも、私たちは障害というものをとり幅広い定義で捉えていかなくてはいけないし、そうすることで障害ということを自分には関係のない問題からより身近なものとしてシフトさせていけるのではないかなと感じました。


投稿者: toogle | 2009年07月22日 11:58

 嗅覚障害ということについて考えたことはなかったのですが、このブログの内容を読んで、その大変さが予想以上のものだとわかりました。
 ただ「嗅覚障害」ときけば、たかがにおいがわからないだけという風に思ってしまっていたと思います。
 けれど、このように嗅覚障害の問題点をいろいろ挙げられてみるとその困難さにきづきました。
 嗅覚ひとつ障害があるだけでこんなにもたくさん生活に困難を来すような問題があり、最終的に孤立を招きやすいなんていう問題になってしまうこともあるなんて全く考えは至りませんでした。

 花粉症は身近すぎて嗅覚障害だなんて考えたこともありませんでした。
 けれど確かに鼻づまりやその他の症状で生活に困難を来しているわけで、そのような意味では嗅覚障害と捉えても良いんではないかと私は思います。
 「障害」を広範囲に捉えて、誰でも度合いが違うだけで障害はあるんだって考えられたら今までより障害ってものが身近に感じられていいんじゃないかなって思います。


投稿者: きゅん | 2009年07月22日 12:04

 自分自身が何らかの障害を持っていないとしても、世の中にはそのような人たちが存在している。自分自身がそういう人たちから目をそらしていても必ずどこかで交わることになる。けれど、そうであると理解しながらも極力関わりたくないと思ってしまう自分がいる。そういう人たちに対してどのように関わればよいかわからないからと、正当とも言えない理由を付けて避けてしまう。その一方でそういった人たちと積極的に関わろうとしている人たちがいる。そういった人たちを尊敬してしまうが、それは普通のことなんだと思う。その尊敬にまなざしを捨て、一歩踏み出したい。偏見かもしれないが障害を持った人は自分自身に引け目を感じている。そんな彼らが一歩こちら側(こちら側と言ったがこれは差別的意味をこめたものではない。このことについて不快に感じた人がいたのであれば真摯に謝りたい)に踏み出す勇気よりも、私たちが彼らに踏み出す一歩の勇気のほうがたやすいはずである。


投稿者: 店長代理 | 2009年07月24日 01:39

僕は自分自身が花粉症であり、それが障害だと言われ、驚くとともにそういう考え方があるのだと新しい考えを持つことができました。確かに花粉症の時期は花づまりとかで嗅覚が奪われることがあります。でも嗅覚が奪われる辛さよりも呼吸の辛さのほうが勝って、あまり匂いを感じられないことの不便さを味わった覚えはありません。ただ、匂いと一生付き合えないのは嫌ですし、そういう人がいるということに気の毒さを感じます。

嗅覚障害に限らず、身体障害を抱えた人へ配慮した社会づくりをすることは大切ですし、そういう社会にするために一人一人の考え方を改めないといけないと思います。


投稿者: 新しい6式使い | 2009年07月28日 13:58

 傍から見ると怠けている、努力が足りないだけであると思われている人が、実際は障害によってそうなってしまっていることがあるのであろう。
 ブログにもあるようなひどい鼻づまりを持つ人の辛さは、それを体験したことがなく人には全くわからないかもしれない。
 また例えばやる気のでない人、これが体の障害によるものであることが科学的に証明されているらしい。
 これはある化学物質が体内で合成されにくいことによりやる気がでないらしく、実際にその物質をつくる器官が破壊されたやる気のないマウスというものも実験でつくられている。
 しかしこの事を考えてみると、この化学物質の合成されやすさ、されにくさはもちろん個人差があり平均からのずれがどこまで大きければ障害となるのかを簡単に線引き出来ない。
 またこういうことをいちいち病名をつけて障害とすると、人は何かしら平均より劣っているものがあるので、本当に人は誰しも障害者となってしまう。
 これは広域的というより、何というか、傷のなめ合いのようなものになってしまうように思える。
 さらに例えば同じ境遇に至っても打たれ強い人、打たれやすい人、それによって鬱になりやすい人、なりにくい人も自分の意思とは関係ない体の問題で出てくると思うが、それを障害だと言って制度的に保護したり、そこまででなくても病院に行って医師の診断のもと正当な理由で会社等を休めたりすると、同じ境遇にいる打たれ強い人は、鬱などの病気にかかった人は本当につらいのであろうから一概には言えないが、多少なりとも理不尽さを感じてしまう。
 これではどうあるのが一番良いのか分からず、結局障害について議論するとしばしば出てくる、障害も含めた自分自身、個性を大事にして、助け合って生きていこうなどという考えに行き着くのであるかもしれないが、これでは単なる馴れ合いとなっているように私には思える。
 障害をマイノリティなものではなく広域的はものであると考えるのは、もちろん現在の日本社会においてまずすべき重要なことの一つであるが、私はここにおいて障害という言葉そのものをもう一度考える必要があると感じた。

 思ったことをうまく言葉にまとめられず、今までの授業の内容、ブログの内容と論点、視点が多少違うかもしれないが、私がこの記事を読んで思ったことです。


投稿者: りいか | 2009年07月29日 02:25

 障害者のための社会形成は、今日必要とされている。確かにこの社会は、いわゆる健常者にしか考えらていないものばかりで、それは町のちょっとした段差などの町並だけに限らず、様々な社会制度までも障害者には住みにくいものばかりである。
 しかし、今日障害者のために徐々にではあるがノーマライゼーションの理念のもと社会が変わろうとしている。
 ここで大事なことは、すべてを同等にしすぎないことではないかと私は考える。確かに同じ人間なのだから同等に扱われ、また同等に行動する権利を持っているのは明らかである。
 しかし、障害者をすべて同等に扱うことは怖いことである。例えば、車の例をとってみてもそうである。もしすべての障害者にも車の免許が簡単にとることができたとする。しかし、障害者が故に事故しいてしまうことも多々起きてしまうだろう。そのときは「障害者だから…」という言い訳は社会で許されることなく、その後の賠償金を償うときも障害をもった体で返済ができるだろうか。
 私は決して障害者を差別しているのでない。マイノリティを考え、その人々が住みやすい社会を形成していくことは急務だと思う。しかし、同等と平等は違う。平等とは、言わば割合のことである。したがってすべて同等の権利ではなくてもそれは平等になることもある。
 すべてを同等に扱うのではなく平等に扱うことによって先生のおっしゃる共同の社会が成立するのではないかと思うのである。


投稿者: yamadon | 2009年08月04日 10:57

 私は自分がアレルギー性鼻炎ということもあり、嗅覚障害の方の症状は少しわかります。ご飯にあじがない、昨日のご飯を食べる時には匂っても痛んでいるかどうかわからない、服の匂いがわからない、毎日ではありませんが私にもこのような経験は度々あります。この症状が毎日続いてもう治らないというのに、これは障害とされないなんておかしいと思います。
 確かに、他の障害に比べると生きていく上での困難は軽く見えるかもしれません。しかし、このような状況で生活することが本当に人間的な生活と言えるのでしょうか。
 日本は物事を制限・列挙します。そして、それに該当しないものは取り扱ってもらえません。枠組みにこだわるのではなく、生活する上での困難ともっと柔軟な目を持ってほしいものです。


投稿者: ぶっち | 2010年01月07日 11:01

先日は北九州市立大学での講義、
お疲れ様でした。

今回は「広範囲の障害」がテーマですが、
先生のコメントにもあったように、
花粉症や鼻炎は世間での認知よりも
当事者からすると深刻な問題なのです。

私は幼い頃から鼻炎を患っているため、
ホコリが多い場所や花粉の季節などは
辛くてたまりません。
「ティッシュがあれば大丈夫でしょ」と
人は言いますが、
私の場合、そのティッシュを取るときに
わずかに出るホコリでくしゃみが
出てしまいます。

このように、
「自分はなってないから」と
人の障がい(持病)をはじめから
理解する気がない人がなかなか多いと
感じられます。

自らが体験していないことを
理解しようとすることは難しいことで、
100パーセント理解することは
おそらくできないとも思います。

しかし、「理解しようと努力すること」を
あきらめたときに、
障がい者の方々が暮らしやすい社会への扉は
閉ざされてしまうのではないでしょうか。


投稿者: たかじん | 2010年01月11日 15:12

 私はいままで、障害と聞くと、視覚や聴覚に関する障害しか思いつきませんでした。しかし、嗅覚や味覚、触覚などの障害を持つ人もいるということに気付きました。
 花粉症によって嗅覚が、風邪を引いたときには味覚が、長時間正座をして足がしびれたときには触覚が、というようにいつもは障害なく暮らしている私たちでも特定の状況において一時的に感覚が失われることがあります。
 このような状況は誰しもが経験したことのあるもので、嗅覚、味覚、触覚に障害のある人が抱える問題を完全ではなくとも、理解することができるのです。
 そうであるにも関わらず、見渡してみると視覚や聴覚の障害を持つ人に対する配慮や施設に比べて、嗅覚や味覚や触覚の障害を持つ人に対する配慮や施設があまりにもなさすぎると感じました。まだそのような障害についてあまり知られていないということもあるとは思うのですが、本当に誰もが暮らしやすい社会を作るためには欠かしてはならないことだと考えます。


投稿者: maron | 2010年01月11日 18:10

 私は、ある日急に、友人に「片目の視力を完全に失うかもしれない」と打ち明けられたことがあります。正直どうしたらいいのか分かりませんでした。友人が弱視であることは知っていたのですが、特段私がその友人と一緒に生活する上で、私が配慮することはありませんでした。友人の視力障害は、日常生活に支障をきたすものではなかったし、長時間外にいるときは眼帯をするだとか、そういうケアの方法を、友人はすでに心得ていたからです。しかしそのときに、友人がずっと視力を失うかもしれないという恐怖を抱えていたのだと知りました。
 嗅覚障害もそうですが、あまり知られていない障害がたくさんあるのですから、それを抱える人たちが置かれている状況というのは、まだまだ社会で理解されにくいものなのだと思います。そんな中で、障害を抱える人に、障害について周囲に打ち明けることから始めさせなければいけない現状には、大いに問題があると思います。


投稿者: なな | 2010年01月12日 00:01

実際私も花粉症なのですが自分自身それを障害だと思ったことはありませんでした。確かに静かにしないといけない場でも鼻水はどんどんたれてくるしテストのときとか周りに迷惑だなとよく気をつかってました。不便なのは本当間違いありません。あとヘルニアになったりと腰をスポーツで壊していてあまり激しいスポーツをすると痛いし重い荷物をもてないです。これも広い意味でいう障害かなと。なかなかバイトで重い荷物を持つ際わざわざそのたびに別の人を呼ぶことも難しいです。ヘルニアになったことのある人とかなら痛みも分かるし助けてくれるとも思うのですが。なかなか当事者になってみないとわからないものだなと。相手を理解しようとしなければいけないなと。症状についての知識があれば理解もできるなと。相手を理解することがなにより大切だなと感じました。


投稿者: あーごん | 2010年01月14日 23:00

 私は臭いに敏感な人間であると思っています。近くに座る人の体臭や香水の臭いがどうしても気になってしまい、ひどければ不潔な人だと嫌悪を抱くこともあります。このような人はおそらく私以外にもいらっしゃるでしょう。ですがもしその人が嗅覚障害を持ち意図していなかったらその人自身は悪くないのに非常に身勝手な判断をしたことになります。
 今回のブログに限らず宗澤さんのブログに書かれていることは私自身の在り方について深く考え直させます。障害とは不自由だと感じる全てのことで障害者は特別顕著に現れてしまっているだけでそれを克服するために充実させるのは当然のことだと思いました。
 嗅覚障害に限らず私は障害とその現状についてほとんど知りませんでした。もっとよく知り、手助けできることはないだろうか強く感じます。


投稿者: M | 2010年01月15日 18:03

 医学、科学の進歩とともに、障害と一口にいっても細分化され、その領域は徐々に間口を広くしてきました。例えば、小学校の時などに、教室に一人はいたような、「落ち着きのない子」はADHDと診断されるようになっています。
 診断によって、適切な支援と援助が行われれば、良いのですが、まだまだ、「障害=ネガティブなもの」というフィルターを通して、障害者を見てしまう人も多いのが現状です。とくに年少時にはそのような心ない周囲の眼差しが、当事者本人にも内面化されがちで、自尊感情の形成に影響を及ぼすことも考えられます。
 私たちは、科学の進歩を考えるときには、それが誰の為のものであるのか、であるとか、社会や物事の捉え方についてもセットで考え直さなければならないのだと思います。


投稿者: タックスマン | 2010年01月15日 22:04

 私が小学生だった頃、特別支援学級というものがあり、障害者の方と交流をもつことがしばしばありました。その学級の児童は比較的重度の障害を持っていたため、障害というものはこういったものなのだと自分なりに解釈、理解していました。ですが、この記事を読んで、障害というものについて考えを改めることができました。
 これは言いすぎであるのかもしれませんが、人はみな、何かしらの障害を持っているのではないかと思います。
 本当のバリアフリーとはなにか、ユニバーサルデザインとはなにか、を自分でも考え、小さなことからでも行動に移していこうと思いました。


投稿者: すず | 2010年01月20日 15:31

 はじめてコメントさせていただきます。

 私は、色弱とアレルギー性鼻炎を持っていますが、もっぱら困るのはアレルギー性鼻炎の方でした。
 色弱はせいぜい、黒板の文字が読めないとか、パワーポイントのスライドの文字が背景色と同化して読めないとか、その程度で、近くに行って目を凝らせば見えるようになり、それほど苦にはなりません。
 しかし鼻炎の方は原因が杉や埃だったので、1年中鼻づまりや目のかゆみなどに悩まされ、鼻をかむのも周りの人に気を使いながらという状況でした。特に鼻づまりの時は、香りもしないし呼吸も苦しいので、食べ物はろくに噛みもせずに飲み込んでいました。そんなことをしていたので、一度だけご飯をのどに詰まらせ、呼吸できなくなったこともありました。幸い、家族と一緒だったからよかったですが、そのとき一人だったらもしかしたらと思うとゾッとします。
 こんな風に、私にとっては色弱よりも鼻炎の方が「生活上の困難・不自由・不利益」が大きいのですが、アレルギー性鼻炎は障害とは認められていません。(別に認めてほしいとは思ってないのですが。)というより、軽度の色弱が特に不便もないのに障害と認められることが間違っているのではないかとさえ思います。

 いずれにしても障害の概念を考えるいい機会でした。ありがとうございました。


投稿者: M.N | 2010年02月01日 17:44

 今回のブログを読んで、「嗅覚障害」について改めた考えさせられました。今までテレビの特集なので、聴覚障害や視覚障害の方々の特集は見たことがありましたが、嗅覚障害に関してはあまり知りませんでした。自分も嗅覚障害の中で一番大変だと思うのは食に関することです。
 自分はバイトで料理を作っているのですが、見た目や味にもこだわっていますが、風味を味わってもらうために、できたてのをだすように心掛けています。自分で料理を提供する際にも風味だけで「美味しそうと感じることが多々あります。食に関しての一点だけをとっても、嗅覚障害者の辛さは自分の想像よりもはるかに過酷なものだと感じました。
 
 花粉症に関しても、立派な障害だと感じます。自分も季節性の春に発症する花粉症なので辛さがとてもわかります。鼻水は止まらない、目はかゆい、頭はボーっとするなど、とても物事を集中して行える環境ではないことを身をもって体験したからです。

 「嗅覚」という視点から考えても様々な障害があり、さらにあらえる角度・視点から考えてみると、「障害」とい言葉は幅広い範囲に当てはまると感じました。


投稿者: わジー | 2010年02月02日 19:00

自分も花粉症の時期になると「におい」がわからりづらくなり、生活の一部を「におい」に頼っているんだということをよく実感します。
花粉症は時期お過ぎれば治りますが、「嗅覚障害」は治らないということを改めて考えてみると、この二つは同じ「障害」ではなく国全体でもっと「嗅覚障害」にも援助・支援等を増やすべきだと思いました。


投稿者: アル | 2010年07月21日 12:39

私たち健常者からすると嗅覚はたくさんの感覚のうちのひとつであり、それを失うことはそれほど大きな問題ではないように思えてしまいますが、実際はそうではないのですね。
たしかに、自分の体臭についてまったく分からないというのは恐怖ですし、味が分からなくなってしまうのも人生が文字通り味気なくなってしまうようでいやです。


投稿者: ナメクジ | 2010年07月28日 11:01

私も3、4年前から花粉症です。花粉症の時期になると食事で味を感じにくくなり味覚にはにおいが重要であることを実感します。
嗅覚障害はそれがずっと続くということなので想像以上のつらさなのだと思います。


障害というと特殊なものという認識が強かったのですが自分とも関わりのある広範囲なものだと感じました。


投稿者: たら | 2010年07月28日 12:52

今まで障害者と聞くと、どうしても自分とは無関係で特別扱いされている人たちという認識がありました。しかし実際は、ここで取り上げられている嗅覚障害のように、身近な部分での障害というものが多くあることがわかりました。ですのでこれからはいろいろな「障害」を持つ人たちに対して深く理解をしていき、その障害を減らす解決策を社会全体で考えていくことが大切で重要なことだと思います。


投稿者: たもつ | 2010年07月29日 14:45

 私は慢性のアレルギー性鼻炎です。
 小学3年生くらいまで、ほぼ毎日いつでもどこでも、鼻がつまっていました。
 大人になるにつれて、鼻の穴が大きくなり徐々に鼻のつまりは解消されてきました。

 つまっているときにはなかったのですが、「もののにおい」というものを気にするようになりました。

 鼻炎は神経の問題ではないため、嗅覚障害と言えるのかはわかりません。
 しかし私が鼻炎であったときには気付かないことは、同様に嗅覚障害をもっている人も気付かないのではないでしょうか。

 またにおいがわからない人においは説明するのは非常に困難。

 つまり嗅覚障害をもつ人に、においを説明するのはとても難しい。

 だからにおいの無い世界を生きることの意味を私たちが理解をし、行動する必要があると思います。


投稿者: RM | 2010年08月03日 02:12

 自分は嗅覚障害というものを初めて知りました。嗅覚障害になってしまえば、食べ物のがおいしいかどうかがわからず、食べることがつまらなくなってしまうと思いました。自分は花粉症なので、春になると食べ物の味がわからなくなります。しかし、それは時期が過ぎればなおりますが、嗅覚障害の場合それが一生続くのでつらいと思いました。


投稿者: とつ | 2011年01月19日 18:00

 「嗅覚障害」というと、なんだかとても遠い障がいのように感じてしまっていましたが、この文章を読んでとても身近で大変なものだと考えるようになりました。
 私も一度、大変厄介な風邪を弾いた時に鼻が詰まってしまい、大好きなさんまがただ脂っこいだけで、美味しく感じられないとい事がありました。あのときはさんまの香りがしないからだとかは知りませんでしたが、いまはきっとそうなのだろうと思います。
 また、うちの母親は花粉症で花粉が飛ぶ季節はいつもつらそうにしています。きっと花粉症がひどい人は、ご飯もおいしくないし、寝るのも苦しいし、普段の仕事や勉強などにも不都合が起こっているのだと思います。それはもう普通のことではないのですから、本当に“障害”なのだといま、しみじみ考えました。端に障害と言うと、全く興味を持たない人にも、このように身近な障害からだったら、障害というものへの興味が出るのではないかと思いました。


投稿者: きみどり | 2011年01月19日 20:08

 今回この記事を読んで、「障害者」の定義を考え直すことができました。また、それと同時に障害者と呼ばれる方への手助けの方法も考えるきっかけにもなりました。
 生活に不都合があることを障害と呼ぶのなら、確かに花粉症も風邪も障害の一つだと思います。
 私の身の周りにも花粉症の人がいますが、もしその人が、花粉症を理由に「障害者」と呼ばれていたなら私も「障害者」を助けた内の一人です。その人が、ティッシュが無くて困っている時にティッシュをあげたからです。

 花粉症の友達にティッシュをあげることと障害者と呼ばれる方を手伝うことは、困っている人を手伝うという意味で何の違いも無いのですね。
 ただ「目立つから」「他人を手伝うのは恥ずかしいから」という理由で全く知らない人を助けることが出来ないだけです。

 障害者が暮らしやすい街にするには社会の仕組みを変える必要があると思いますが、仕組みだけに頼っていてはいけない、という当たり前のことに気づかされました。
 一人ひとりの意識を変えることも大切だと感じます。


投稿者: MO2 | 2011年01月21日 00:28

 障害を定義することは難しいことなのだと思った。生活上の困難、不自由、不利益について具体的な内容が示されているわけではないのだろうし、怪我や病気が、他人から見れば大したことはないように見えても本人にしてみたらすごく辛いことだってあるかもしれない。
 また、短期的に怪我や病気によって生活上困難がある場合はその期間は障害者になるのだろうか。
 障害=特別という意識が多くの人の中にあると思う。定義によれば様々な人が障害者になり得るのに、そういったことを考えている人は少ないと思う。
 言葉の選び方によって人々の意識が変化すると思う。たとえば、「障害者、高齢者にとっての障壁を排除した」バリアフリーデザインと、「老若男女、国籍、文化に関係なく使える」ユニバーサルデザインとでは、デザイン自体が同じようなものだとしても受ける印象が違ってくる。意味を勘違いしている一部の人によって、異なる意味が広まってしまっていると思う。障害を身近なものだと感じさせるためには、そういった点も気をつけなければならないのだと思う。
 小学校や中学校の道徳などの授業でこういった類の内容を扱うことがあるとおもうが、子どもたちに正式な意味や特別視しないように教師は言葉選びに細心の注意を払うべきである。
 言葉だけでなく、社会の様々なところに障害を特別視させる原因が潜んでいると思う。


投稿者: 箱の中のみかん | 2011年01月25日 23:57

 ブログを読んでみて、「嗅覚障害の人って大変だなぁ」って他人事のように思っていましたが、最後の花粉症の人も嗅覚障害と言えるのではないでしょうかって文には大変共感が持てました。
 自分は冬以外の季節に花粉症のアレルギーを持っていて、今が一番楽な季節です。特に春なんかは、鼻をかんでもきりがなく、全てにおいてやる気がなくなります。医者に行っても治るのは一時的ですし、ある意味不治の病と言えるのではないでしょうか。その点では障害を持つ人と何ら変わりがない気がします。春がやってくるのがとても憂鬱です。


投稿者: たたら | 2011年01月31日 04:59

障害としてよく聞いたり取り上げられたりするのが視覚障害や聴覚障害などが主で他の障害にあまり注目したことがなかったのですが、 嗅覚障害の大変さなど考えたこともありませんでした。
 あらためて色んな障害に目を向けてみると、中でも自分が怖いと感じたのは痛覚障害です。「痛み」 とは厄介ですが身の危険を感じるためにはとても大切なもので、痛覚を失うことは最も生死に直結すると思います。目に見える傷や大したこともない擦り傷などは痛くないに越したことはありませんが、見えない部分(体内など)の痛みに気づかず気がついた時には手遅れなんてことを考えるとぞっとします。
 普段ありがたみなんて感じませんが、あらためて「痛み」の大切を感じたいと思いました。


投稿者: hydeist | 2011年01月31日 12:44

私は、このブログを読んで初めて「嗅覚障害」という言葉を知りました。私は花粉症で、その上、慢性副鼻腔炎と鼻の通り道に鼻茸ができ、正常な臭いが感じられなくなりました。なので「嗅覚障害」という言葉は初めて聞きましたが、身近に感じられました。鼻が利かなくなると、食べ物を食べてもあまりおいしいと感じなくなり、食べる喜びも半減してしまいました。私は手術をして、鼻茸を切除し、慢性副鼻腔炎も改善して、正常に臭いを感じられるようになりました。嗅覚ってすごく大切なんだなと思いました。しかし、嗅覚障害の方は、生涯臭いを感じられないということなので、生活する上でさまざま困難がずっと続くのでとても大変だなと思いました。
嗅覚障害だけでなく、身体障害を抱えた人へ配慮した社会づくりに私も参加できたらなと思います。


投稿者: MY | 2011年07月06日 08:13

今まで、「障害」の定義とか範囲を気にしたことは全くなく、障害のある人は少数の人たちで、何か特別な存在だと思っていましたが、このブログを読み、「障害」が「生活上の困難・不自由・不利益」のことであり、これに基づくと花粉症も障害と考えられることを知り、遠い存在だった「障害」が身近なものに感じられました。
障害とは広範囲の人にあるものだから、一部の人が、障害のある人の支援や制度を考えるのではなく、より多くの人が考えなくてはいけないと思いました。


投稿者: LGM | 2011年07月11日 20:44

何が「障害」で、何が「障害」でないのかの線引きは難しいと思いますが、多くの人が暮らしやすい環境を作るためには、定義の範囲を広く考えることは大切だと思います。そのためには、様々な「障害」に苦しむ人々の声の積み重ねが必要でしょう。その「障害」がどのように日常生活に支障をきたしているのかは本人でなければわからないので、まずは具体的な内容を政府に訴えてみるべきだと思います。一言で「障害」と言っても様々な形があることを再確認しましたが、このように考えてみると、どんな人間でも、1つぐらいは何らかの「障害」を抱えているのではないかと感じました。


投稿者: あんこ | 2011年07月12日 16:14

この記事を読み、「障害」というものをもっと身近なものであると感じなければならないと思いました。日本人の2人に1人は花粉症の発症者である、と聞いたことがあります。つまり、「障害者」と「健常者」には明確な隔たりがあるわけではなく、また、「障害者」とは「少数派の存在」でも無いのだと言えます。「障害」の定義からすると、誰もが「障害者」になりうる可能性と隣り合わせなのだと思います。このことが社会全体に認識されれば、一人ひとりがより積極的に助け合えるようになると思います。
私は今年の春に、学校の授業の一環で介護実習に行く予定があります。なので、私自身もいつかは障害を持つことになるのだということを自覚した上で、障害を持つ人達との関わり方を考えていきたいと思います。


投稿者: FSP | 2012年01月24日 22:54

今回、ブログを読んで、「障害」についての定義と私たちの認識を再確認すべきであると感じました。
ほとんどの人は、「障害」を「知的障害」と「身体障害」に限ったものであると考えていると私は感じています。
しかし、「障害」を「疾患と環境の相互作用によって生じる生活上の困難・不自由・不利益」とした場合、「障害」は多種多様であり、ほとんどの人が抱えているものとなるだろう。しかし、現在の社会は、「障害」に関する線引きがあいまいであり、国民の障害への認識も曖昧なものである。
そのような中では、「障害」を理解し、支援しあえる社会を形成するのは難しいだろう。
法制度も含めた社会システムの変革が必要だと考えます。


投稿者: ささはら | 2012年07月07日 14:56

嗅覚に障害を持っているということで、生活にこれほど影響が出るとは考えもしませんでしたが、すこしだけ自分も共感というか、経験があります。私も事故の影響で頸椎が悪く、首とか腰の状態が少しおかしくなるだけで、その日一日の調子が悪くなります。なので、首を寝違えた日なんかは最悪です。そうならないために、寝るときに首に気を使って寝るため、睡眠不足になることが日常茶飯です。私の叔父も首が悪く、私が小学生くらいの時、叔父から首が痛くて起きれないということを聞いて、たかが首の痛みでそうなるのかと疑問に思いましたが、自分が今、そうなったことで痛いほどわかりました。花粉症や先の嗅覚障害を含め、すべての障害について、一人ひとりが自分は障害を持っていないから考えないのではなく、関心を持ち、考えることが必要と思います。それによって、障害持つ方と健常な方とが分かり合えると思います。
長々と失礼しました。


投稿者: tanuki | 2012年07月14日 20:44

私はこれまで障害というものは、ある一部の人たちに限定した特別なものだと考えていました。しかしこの記事を読んで、あまり障害だとは思わない花粉症などのような多くの人がかかっている病気も実は、その病を患っている人にとっては十分障害なのだということを感じました。これからは障害というものは決して特別なものではなく、誰にでもあり得るものなんだという意識を持ち、障害を持った人を特別視するのではなく、本当の意味で理解していかなければと思いました。


投稿者: tkr | 2012年07月23日 11:43

「障害」と聞くと多くの人は、知的に遅れのある人や手足のない人などのことを思い浮かべるのではないか。自分には関係ないと考える人は多いだろう。しかし、私は「障害」とはもっと自分たちに身近なものであると考える。例えば、手を骨折して文字が書けない場合、手を骨折しているということはその人にとって「障害」だと言えると思う。花粉症の例のように、たとえ一時的なものだとしても、「健康で文化的な最低限度の生活」に支障をきたす問題が生じていると考えられたり、その状況からストレスを抱えたり苦しんだりするようならば、それは「障害」と考えられるだろう。私たちは「障害」を狭い意味で捉えすぎている。そのため、自分とは違うという偏見や差別が生まれるのではないか。「障害」の程度の差や症状が見られる期間の差はあっても、誰しもが抱えうるものだという発想の転換が必要であると思う。もっと「障害」を広い意味で捉え、偏見や差別や間違った理解がなくなってくれればと願う。


投稿者: もけけ | 2013年07月02日 16:20

2009年07月23日のブログを先に読ませていただきました。現時点では未掲載ですが投稿しましたコメントのなかで障害者がマイノリティであるとはっきり書いてしまい恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいです。障害という言葉のイメージが変わりました。先のコメントでも少し申しましたが、私は障害に関してはほとんど知識がなく、どんなに気を付けてもいまだ偏見には打ち勝てません。
 イメージの改善には効果的な情報発信が必要不可欠です。膨大な情報のあふれる現在ですので、情報の受け手は自分の欲しい情報を選び出すことがもはやふつうのこととなっていると思われます。そんな中でみずからに身近でない、つまり障害についてを知ろうとする余地はほとんどなく、情報自体にも閉ざされた印象を受けます。例えば、このウェブページを見ているのは最初から関心のある方だけでありそうな気もしてしまいます。障害者の生きにくい状況をよりよくするために必要な前段階的な課題だと思います。


投稿者: Yuki F. Goodson | 2013年07月22日 23:44

 今まで障害と聞くと手足が不自由である、とかで車椅子生活であったり、義足・義手や介護をしてもらっているというイメージしかなかったので嗅覚が障害にあたるということは少なからず驚いた。しかし、ブログを読んでその辛さもよくわかった。だが、社会的にあまり障害として認識されていないので会社などで十分に理解されるのは難しく、不利益を被ってしまうのではないかと思う。
 様々な障害があり、できる限り本人の利益に影響が出ない環境を整えるのが重要だと思いますが、転職しなければならない場合が多いと思うので支援制度の充実を願う。


投稿者: たすほん | 2014年01月20日 14:04

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
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発行:中央法規
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